半袖

気温が上がってきて、半袖姿の人々が目立つようになってきた今日この頃。まだ、半袖は早いだろう、いや、いけるかも、いや、やっぱまだ早いかな、といった具合に毎日着る服について思案する。特にこだわりはなく、よく「寝巻き?」と言われるので「正装です」と言い返すほどに服には無頓着である。それでも、なぜか半袖をいつから着るべきなのか、という問題については毎年慎重に考える。そして、今だ!というタイミングで半袖を着て、意気揚々と家を飛び出すのだ。今年はいつ、今だ!というタイミングが訪れるのだろうか。

青年

小説をいつか書いてみたいと思っていた。本を読む習慣はなく、今でも大した数の本を読んではいないが、本を読む度に感動したり、しなかったりしていた。本を読むことが嫌い、と思ったことはない。
勉強は現代文だけ大好きだった。英語も現代社会も世界史も数学も、どれもこれも取り組んでいると頭が痛くなるような気がしていた。現代文だけは、本当に楽しかった。いつまででも問題を解き続けられると思いながら、勉強をしていた。
小説を、一回だけでも自分の手で、頭で、書いてみたいと思っていた。どんな物語になるのか自分でも見当がつかないが、それはそれで楽しいような気がする。
一作で良い。いつか自分が小説を書き終える日を楽しみにしている。

憂き世話

眼を開くと、真黒な、どろどろとした液体が身体を包んでいた。呼吸ができないが、不思議なことに苦しくはなかった。身体の中が火照って、血が巡っている感覚が脳味噌を揺らす。自分の血液ではない、何か別の生き物の群れが身体の中を駆け巡っている。自分自身が1匹の動物であることが信じられなくなる。これが、生きるということなのだろうか。覚醒しない意識の中で、考える。いつから考えているのかも、覚えていない。分かるのは、自分には身体があって、自分は生き物であるということだけだった。それだけは、確信を持つことができた。何か、音が聞こえる。規則的に繰り返されるくぐもった音が何処から聴こえているのか、自分の身体の中から聴こえる音なのか、それとも、このどろどろとした液体を伝わって聴こえる音なのか、判断できない。

夢を見た。いつ見た夢なのかも分からない。いつ眠っていたのかも思い出せないが、夢を見た。知らない女が泳いでいる。魚の様にも、獣の様にも見えるその女の股の間から、小さな小さな魚が湧き出してくる。女の血液と体液の混ざったものが、小さな魚たちがぴょこぴょこ飛び出してくるのと同時に水中へ溶けていく。
小さな魚たちは、あの女の稚魚のようなものなのだろうか。小さな魚が1匹、こちらへ泳いでくる。その顔面は人間の男のようだった。もう1匹、泳いでくる。嫌に鰭が長いな、と思っていたが、よく見るとそれは鳥の翼であった。少し恐ろしくなって、他の無数の小さな魚を1匹1匹、捕まえて、その体を眺める。あるものは猫の髭のようなものが生えていた。また、あるものは蛙の後ろ脚が生えていた。何万もの魚を捕まえたが、それら全てが異なる形をしていた。1匹だけ、魚と言い切れる形の魚がいた。女は、魚を産むのを止めて、水の底へ沈んでいく。小さな魚たちもそれに気付いてか、女の沈んでいく方向へ泳ぎ始める。自分だけが、女とは逆の方向へ向かって泳ぎ始める。自分の身体を見てみると、奇妙な形の鰭が4本生えていた。鰭の先は、5つに枝分かれしている。どんどんと身体が重くなる。沈みそうになる。沈まないように、泳ぐ。視界の先に、真黒な紙に針で穴を開けたような、点が見えた。誰かに呼ばれているような気がした。泳ぐ。泳ぐ。
ふと、身体の中を小さな魚が通過したような気がした。小さな魚はどんどんと数を増やし、身体の中を駆け巡った。あるものは男になり、あるものは女になった。2人は交合し、また小さな魚が増えていった。身体の中が熱かった。それでも、まだ泳ぎ続けていた。自分の意思ではなく、また、誰かの意志でもなく、きっとこれが本能というものなのだろうと、うっすらと感じた。点だったものは、だんだんと大きくなり、そして、大きな球体になった。魚たちが身体の中で暴れている。懐かしい匂いがした。誰かが呼んでいる。球体は女に形を変えた。女が手を差し出す。その手を掴もうと、手を伸ばす。手と手が触れた。
 
声が聴こえる。あの時と同じようで、少し違うような気がする。眼を開くと、そこは先程とは全く違う場所のように思えた。そして、僕は、呼吸ができることに気付いた。もうここは、液体の中ではないのだと知った。身体の中は静かになっていた。僕は、ひとつの動物であった。人々が僕を見下ろして、心配そうな顔をしている。その光景が、何故だか神々しいもののように思え、僕を見下ろしているのが、神や仏のように思え、僕は泣いた。
 
 
 

高校時代のある日

田舎町のこの辺りにしては大型の書店の駐車場の端の段々になったところに腰掛け、友人と2人何をするでもなく、自分たちの退屈な日常について話している。アスファルトの割れ目や継ぎ目から雑草が生えていて、風にゆらゆらと揺らされている。

学校帰りに、中学の頃から仲の良いこの友人とばったり出くわして、どこかで話でもしようと、なんとなく、この駐車場に来た。彼は僕の通う高校とは違う高校へ通っていて、授業でよく海に潜るらしい。僕の高校は自称進学校で、前も後ろも右も左も勉強勉強とうるさい。
海に潜る授業ってなんなのだろう、と僕が考えながら友人の話をぼーっと聞いていると、向こうから50歳くらいのおばさんが近付いてきた。停まっている車も少なくスカスカな駐車場の端で、ふらりふらりとこちらへ歩いてくるおばさんを僕たちは、何も言えずに注視する。百歩譲っても、不審者、としか言いようがなかった。
「すいません!!いま大丈夫ですか!?」
おばさんは、5メートルくらい先まで歩いてくると、そう叫んだ。百歩譲っても、不審者、としか言いようがなかった。
「まぁ、大丈夫ですけど…」
何が大丈夫か分からないが、僕はなぜかそう答えてしまう。昔から、そういうところがある。友人はこの状況に興味を持ったのか、口の端が笑いそうになるのをこらえている。
「あのね、私、いま、血液型を当てる練習をしているのだけれど、付き合ってもらえないかしら、すぐ終わるから」
おばさんがなんだか自信満々な顔で言うので、良いですよ、と承諾すると、おばさんは嬉しそうに笑った。
「それじゃ、右のあなたから。手のひらを見せてもらっても良いかしら」
まずは友人のターン。友人が手を差し出す。すると、おばさんもなぜか手のひらを差し出す。おばさんの手のひらには「ABABO」とひょろひょろとした字がボールペンで書かれていた。ちょっと掠れて消えかけている部分もあった。「そうね、うん、そうね」おばさんはぼそぼそと何かを言ったかと思うと、「ABABOABABOABABO…」
呪文を唱え始めた。僕と友人は必死に笑いを堪える。
「ABABOABABO…あなた、O型ですね!」
 
違う。友人はAB型だ。
「いやぁ、違いますねぇ…」
友人は勝ち誇った顔をして、おばさんに告げる。おばさんは悔しそうな顔をする。
「うーん、違いますか…おかしいな…じゃあ次はそこのあなたの血液型を当てます。」
いよいよ、僕のターンだ。なぜだか少し緊張する。
「それじゃ、手のひらを見せてもらっても良いかしら」
僕は手のひらを差し出す。すると、おばさんも手のひらを差し出す。おばさんの手のひらには…(略)
「ABABOABABO…あなた、B型ですね!」
おばさんは期待に満ち溢れてた目でこちらを見つめる。やってやった、そう顔に書いてあるかのような勝ち誇った表情。果たして僕の血液型はB型であるのだろうか。それとも、別の血液型であるのだろうか。
僕は、静かに口を開く。
「…いや、違いますね」
なんとおばさんは、2回ともハズしてしまったのだ。血液型を当てる練習をしているおばさんともあろう者が、2回ともハズしてしまったのだ。勝率ゼロパーセントなのだ。おばさんは泣きそうな顔をして「あれ、おかしいなぁ」と呟いた。なんなのだろう、このおばさんは。あれ、おかしいなぁ、じゃねぇよ。当ててくれよ、血液型を。他には何もいらないから、血液型を当ててくれよ。
「でも、まぁ、こういうこともあるけれどね、実はね…」
おばさんが、苦し紛れに何か言おうとしている。実はなんなのだろうか。僕たちは、言葉の続きを待つ。おばさんはこちらを見ることもなく続けた。
「実はね、この能力は誰にでもあるものなの。あなたにも、あなたにも、この能力はあるのよ。本当なのよ。この能力は誰にでもあるのよ…おかしいなぁ」
何を言っているのだろう?  言い訳ですらない謎の発言だった。誰にでもある能力なら、なおのこと当ててくれよ。
僕たちが呆れてものも言えずにいると、おばさんは申し訳無さそうな表情を浮かべて、
「付き合っていただいて、ありがとうございました。・・・この能力は誰にでもあるんですよ、あなたたちにもあるの、ありがとうございました」
そう言って、くるりと背を向けて歩いていった。切ない後ろ姿だった。
 

憂き世話

ぴいぴいと鳴く小さな生き物が、うちへやって来た。やって来たというか、風呂から上がって、火照った身体を冷やそうとミネラルウォーターを飲むために冷蔵庫の扉を開くとちょこんと座っていた。私が「うわっ」と叫ぶと、ぴい、と鳴いた。そっと手を伸ばして恐る恐る触れてみると、ふわふわとしていて、柔らかすぎるマシュマロのようだった。

私は、二階建ての古アパートの二階の一番端の部屋に住んでいる。隣には化粧の濃いおばさんが住んでいて、毎朝階段の下のところで野良猫に餌をやっている。私が家を出るのはだいたい午前8時頃なのに、おばさんは毎朝ばっちり化粧をして猫に餌をやっている。「おはようございます」と挨拶をすると、ニコニコしながら「おはようさんさん」と返してくる。毎朝、変な挨拶だなぁと思う。
 
私はふわふわの生き物の正体をおばさんが知っていないだろうかと思い、おばさんの部屋を訪ねた。がちゃりとドアが開いて、おばさんがひょこっと顔を出す。
「遅くにすみません」
ドアの間から顔を出すおばさんはこんな時間なのにまだばっちり化粧をしていた。
「いいのよ、どうしたの?」
おばさんはピンクと白のチェックのパジャマを着ている。
「昨日、冷蔵庫を開けたらふわふわの生き物がいたんですけど、あれはなんなのでしょうか?」
「あぁ、あれが出たのね」おばさんはさも当たり前のことのようにそう言って、ドアをガッと開くと、私の耳元に口紅で真っ赤に塗られた唇を近づけて囁いた。
「あれが出たってことは、あんた、ふふふ、良いわねぇ」
「良いことなんですか?」私はわけもわからず、聞き返したが、おばさんは、ふふふっと笑いながらドアをぱたっと閉めてしまった。呆気にとられて突っ立っていると自分の部屋から、ぴいぴいと大きな鳴き声がしたので、はっと我にかえり、自分の部屋へ向かった。
ドアを開けると足元にふわふわがいた。ぴい、ぴい、とこっちを見上げて鳴いている。私はふわふわをそっと手の中に包む。少しでも力を入れるとぐしゃっと潰れてしまいそうなほどに、ふわふわはふわふわしている。机の上にふわふわを置いてやろうと、ふわふわを包んでいた手を開くと、もう、すやすやと眠っていた。
こいつはいったいなんなのだろうか。冷蔵庫の中から現れたことを考えると、もしかして冷蔵庫内の卵が孵化したのだろうか?と思い付いて冷蔵庫を開け、卵の数を数えた。十個入りのパックの中から、昨日、目玉焼きに使ったひとつが消えているだけであった。卵から生まれたわけではないらしい。では、どこからやってきたのだろう?いや、もしかして冷蔵庫の妖精?などと首をひねっていると、ふわふわが急に「ぴい」と声を上げた。見てみると、ふわふわはさっきと変わらない場所で、すやすや眠っていた。寝言だったらしい。
風呂から上がって冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中には夕飯の残りのほうれん草のおひたしや、ニンジンやレタスやチョコレートや缶チューハイが雑然と詰め込まれている。ふわふわが新しく生まれていないことにほっと胸をなでおろして、ミネラルウォーターを取り出して、飲む。喉をひやりした液体が下っていく感覚が心地良い。
「私も眠ろうかな」
ベッドに入ると、今日は疲れていたのかすぐにウトウトしてきて、明日のことを考えている内に眠ってしまった。
 
なんだか喉の辺りがむずむずして目が覚めた。窓の外はまだ黒くて、月の光が部屋の中を薄く照らしている。覚めない頭で、ぼうっと部屋の中を見渡してみて、はたと気づいた。机の上で眠っていたはずのふわふわがいない。気づいた瞬間、喉に感じる違和感が、猛烈な不安感と共に再び私を襲った。
喉の中に何かいるのだ。
私は飛び跳ねるように起き上がって、洗面所へ走った。鏡に向かって口を大きく開くと、舌の上に乗る白いふわふわした尻尾が映った。尻尾より先は私の身体の中へ続いている。私はぞっとして、尻尾を指先で掴んで引っ張り出そうとした。びくともしない。もう一度、さっきより力を入れて引っ張ってみる。「ぴい」と私の首の付け根の辺りから鳴き声が聞こえた。その後、尻尾は私の親指と人差し指の間をすっと抜けて、滑り落ちるように私の中へ消えていった。同時に私の背筋をひやりとした感覚が下っていった。信じられない気持ちで、もう一度、鏡に向かって口を開いてみたが、そこにはいつもより赤くなった舌とあまり整っていない歯並びが映るだけであった。
 
そういえば、おばさんが何か知っていそうな雰囲気だったのを思い出し、次の日、眠れないまま朝を迎えた私は、おばさんの部屋の扉をノックして「相談があるのですが」と近所の喫茶店へ向かった。この喫茶店は、50歳くらいのおじさんがやっている小さな店で、珈琲が苦い。窓際に、よくわからない金髪の女の子の人形や、木でできた鴨の置物や、色々なものが統一性もなく並べられている。
私が話している最中、おばさんは終始ニコニコとしていた。いつもニコニコしているが、いつもとは違う、なんというか孫を見ている時のおばあさんのようなニコニコであった。今日も相変わらず化粧が濃い。
「あれはなんなんでしょうか?」昨日のことを思い出して、少しだけ手が震えている。
「あれはね、なんというか、私にもよくわからないのよね。でもね、私、あのアパートに二十年住んでるんだけどね、あれを食べちゃったのはあなたで四人目。」
おばさんはニコニコしながらそう言った。
「私は四人目なんですか」
「そう、四人目」そう言って、おばさんは珈琲を一口飲んだ。「苦いわねぇ」と顔をしかめる。
「ふわふわを食べてしまった人達はどうなったんですか?病院とか行かなくても大丈夫なのでしょうか?」
真剣に尋ねたのだけれど、おばさんは、あっはっはと笑った。
「病院なんて行かなくても大丈夫よ、あれはそんなに悪いもんじゃないわよ。あれを食べちゃった女達はね、みんな、一年も経たない内に良い男を見つけて、結婚して幸せになります、なんて言って、どっか行っちゃった。私も食べたいなぁと思って、ずっとあのアパートに住んでるんだけどね。」
結婚という言葉を聞いて、私は動揺していた。結婚。今の私には、縁のないはずの言葉である。でも何故だか、あ、私、結婚するのか、という確信が頭に浮かんだ。
「私のところにも出てこないかしら」
おばさんは、窓の外を眺めながら小さな声で呟いた。
 
ふわふわは私の中のどこにいるのだろうか。ふわふわを食べる前と食べた後とで私の体調は特に変わることもなく、私はいつも通りの生活を送った。
二ヶ月後、私はある人とお付き合いを始め、その半年後にはプロポーズをされ、そして結婚することが決まった。おばさんの言っていたことは本当だった。私には兄も弟もいて、相手はひとりっ子だったこともあり、私は相手の家へ嫁ぐことになった。私は、おばさんにこのことを報告しようと思い、おばさんの部屋を訪れた。がちゃりとドアを開けておばさんがひょこっと顔を出す。
「おばさん、おばさんが言っていた通り、私、結婚することになりました。幸せになります。」
おばさんは慣れた様子で「あら、おめでとう。お幸せにね、また遊びに来てね」と言った。おばさんの化粧は相変わらず濃かった。
 
いよいよ彼の家へ嫁ぐ日が来た。私は彼の車の助手席で、これから始まる生活について想いを巡らせていた。お義母さんと円満に過ごせたら良いなぁ、お義父さんは少し頑固そうな人だけどうまくやっていけるかなぁ、そんなことを考えている内に眠くなって、眠ってしまった。
 
大きな音がしたような気がして目が覚めた。なにやら様子がおかしい。辺りは真っ暗で、何も見えない。それになんだか、寒い。
彼は?
彼のいるはずの方向へ手を伸ばすと何か硬いものに触れた。なんだろう。少なくとも彼でないことは分かった。人間にしては硬すぎるし、冷たいのだ。きっとこれは、生き物ではない。
彼はどこに行ったのだろう。というか、ここはどこなのだろう。何が起きたんだろう。彼はどこに行ったのだろう。怖くて、不安で、私は彼の名前を叫ぼうとした。
そのとき、ぴい、と自分の中から鳴き声が、聞こえた。
 
 
 
 

日常

講義が終わって近所の書店に行った。岩波新書蔵出し祭というキャンペーンをしていて、キャンペーン中は岩波新書1冊購入につき1回福引きに挑戦できる。福引きの商品は岩波の限定グッズ(非売品)らしい。twitterでそのキャンペーンを知ったので、講義が終わってからすぐに書店に向かったのである。新書を普段は読まないくせにグッズが欲しいばかりに書店に来たので、何を買おうか考えながらしばらく本棚の前でじっと背表紙を眺めた。眺めたというより睨みつけた。やっと1冊選んで、ついでにうろうろして、他に3冊の本を手に取り、レジへ。
レジには書店がよく似合う40代くらいの女の人がいて、ワクワクしながらその人に本を手渡した。

カードはお持ちですか?
はい、持ってます
ありがとうございます
…文庫にカバーはご利用になりますか?
いえ、いらないです
わかりました
ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…
4冊で3,262円です…10062円お預かりします
ピッピッ ガチャン
それでは、お先に6000円と…800円のお釣りです
ありがとうございました、またお越しくださいませ…

あれ、福引きは???
心の中で、今か今か、どのタイミングで来るのか、まだか、あれ、まだなのか、という感じで福引きを待ちわびながら精算をしていたが、「福引き」の「ふ」の字すら店員さんの口が発することはなかった。こういう時に、あの、福引きを…という図々しさを僕は持ち合わせていない。あ、ありがとうございますぅ…と言ってレジを立ち去り、少し切ない気分になった。
店員さん、忘れてたのかな。それとも、もう景品無くなっちゃってたのかもな、なんて考えながら、弁当を買いにスーパーへ行った。弁当しか買うつもりがなかったので、買い物カゴは持って入らなかったけれど、見て回っている内になんだか久々に自炊をしてみたいような気になって、入り口へ買い物カゴを取りに戻る。入り口に戻ると、まるでカゴの番人のように両サイドに男性店員が立っていて、客が来ると「いらっしゃいませぇ〜」と野太い声で言い、客にカゴをサッ!と手渡していた。なんだかカゴを取りに行きづらい。なんのサービスだよ、と思いながら見つからないようにそっと忍び寄り、カゴを取ろうとすると、「いらっしゃいませぇ〜」という声と共にサッ!とカゴが差し出された。目ざとかった。

今日はそんなことがあった。




汽車

汽車に乗っている。田舎なので、電車ではなく汽車。通路を挟んだ向こうの席に老夫婦が座っている。老夫婦は、この汽車に乗り換える前の汽車にも同乗していた。もう車を運転していないのかもしれない。だから汽車に乗っているのかもしれない。それにしても、汽車を乗り継いでまで行きたい場所がこの田舎にあるのだなぁ。何もないようで素敵なものはわりと沢山あるのかもしれないなぁ。夫の紫色のアウトドアのリュックがパンパンに膨れているのと反対に、妻の青色のリュックは萎んでいる。二人は仲が良さそうにずっと話をしている。素敵だなぁ、と思う。いつまで経っても仲良くどこかへ出掛けられるような二人。窓の外を眺めて何を話しているのだろう。僕には山と田圃しか見えないけれど、二人には何かが見えているのだろう。

憂き世話

フルはウロを私に渡そうとビを伸ばした。私はそんなものにはもう飽きてしまったので、視線だけはウロの方に向けて、じっとその場に座っていた。フルは「アラ、ゴキゲンナナメカナ」なんて言って、ウロを、ことり、と置いて向こうへ行った。
ここには、フルの他にも2匹のフルがいる。大きなフルと小さなフルだ。「タダイマ」と大きな声で言ってさっきのフルよりもひとまわり小さなフルがバタバタと近づいてくる。私は、このフルが好きだ。小さなフルが2本のビを私に伸ばして抱きついてくるので、私は小さなフルをペロリと舐めてみた。小さなフルは大抵の場合、似たような匂いがする。散歩している時にすれ違う小さなフルも、今私に抱きついている小さなフルも、皆同じ様な匂いを発している。
私は1日1回は外に出る。外は気持ちが良い。外には沢山のフルがいる。大きいのから小さいのまで、どこを見てもフルだらけだ。そんな中で私は、たまに仲間とすれ違うことがある。「やぁ、今日も元気そうだね」なんて簡単に挨拶を交わしたり「君のフルはなんだかひょろ長いね」なんて笑い合ったりする。それにしても、すれ違う大半が仲間ではなくフルであるが、フルの繁殖力には驚くばかりである。世界にはどれ程のフルがいるのだろう。
ある日、私はフルのパニが膨らんでいることに気付いた。いつから膨らみはじめたのだろう?毎日眺めているので気づかなかったが、明らかに他のフルに比べてパニが膨らんでいる。小さなフルは、フルのパニにぺをくっつけては何かを話している。大きなフル(パニが膨らんでいない方のフル)はフルのパニに嬉しそうに声をかけている。
しばらくして、フルがいなくなった。大きなフルと小さなフルと私だけがここにいて、2匹のフルはソワソワしている。でも、2匹はなんだか嬉しそうにも見える。日も暮れて、私が眠りにつくかつかないかという時、突然、なんだかうるさい音が聞こえたかと思うと、大きなフルは小さなフルを連れてどこかへ行ってしまった。夜遅くに騒がしいなぁ、と思いながら私は眠りについた。
次の日、目を覚ますと大きなフルと小さなフルは帰ってきているようだった。フルはどこへ行ったのかまだ帰ってこない。
数日経って、フルが帰ってきた。膨らんでいたパニは元に戻っていた。大きなフルが何かを抱えている。小さなフルがそれをきゃあきゃあ言いながら眺めている。なんだろうと思い、私も大きなフルに近づいて様子を伺ってみる。大きなフルが2本のビを絡ませていて、2本のビの間から小さなピが覗いていた。驚いたことに、大きなフルは小さなフルよりもさらに小さなフルを抱えていたのだった。フルが増えたのだ。驚くべき繁殖力だ。
小さなフルよりもさらに小さなフルは自分で生活することが出来ないらしい。おそらく生まれたてなのだろう。もしかすると、膨らんでいたフルのパニから分裂して生まれたのかもしれない。パニの膨らみは、たしかこの小さな小さなフルと同じくらいだったような気がするし、あの膨らみがこの小さな小さなフルだったとしたならば、この小さな小さなフルがここに来たときにフルのパニが元に戻っていたのも納得できる。生命の神秘というやつか。
フルは分裂して増えるという結論に達したところで、私は眠くなって、ウォムを閉じた。





憂き世話

僕はウサギだ。これは比喩でもなんでもなく、近所の遊園地でウサギの着ぐるみを着て風船を配っている。バイトの求人を探していたら、たまたま見つけた仕事だった。なんとなく楽しそうだと思い、なんとなく応募したら、数日後には、僕はウサギになっていた。
大学生活はうんざりするほどに退屈だ。入学したての頃はできたばかりの友達の家に押しかけたり、講義をサボって遊びに行ったりしていた。入学して2年経った今でも友人達は同じ様な生活をしている。僕はというと、ある日、いつも通り友人4人と缶チューハイ発泡酒の空き缶の転がる部屋の中で「今日もオールで酒飲むぞぉぉ!」みたいなテンションの中、ふと、あれ?僕はこんな生活を楽しいと思ってるのか?なんて考え始めたが最後、もうその部屋に行くことはなくなった。友人達はしばらくは遊ぼうと誘ってきたが、僕がなにかと理由をつけて断っていると、誘われる回数も減っていき、今では話すことも滅多になくなった。僕は勉強も好きな方ではないので、休みの日に勉強するということもない。何か、生活に刺激が欲しいなぁ、バイトでもしてみるか、ということで今、僕はウサギをしている。

風船を配るのは思っていたよりも楽しい。特に、いろいろな子供がいるのを見るのが楽しい。自分から近寄って風船を受け取りに来る子もいれば、怖がって親に促されても近寄って来ない子もいる。そういう子は怖がっているわりにずっとこっちを見つめ続ける。手を振ると「うわぁぁ」と叫んで親にしがみつく。見ていて楽しい。僕は案外子供が好きなのだということにウサギになって初めて気が付いた。
ひとりの男の子が僕の方にずんずん近寄って来て、着ぐるみをペタペタ触っているうちに背中のファスナーの存在に気付きハッとした顔をした。笑いをこらえながら風船を渡すと、その子はなんとも言えぬ顔をしながら立ち去っていった。

冷蔵庫を開けて冷やしていた缶ビールを取り出し、ベランダへ出る。ポケットから煙草を取り出して火を点ける。風船を配るのは楽しいが、疲れる。疲れを癒すために、帰宅してからのビールと煙草は日課のようなものになっている。子供達はまさかウサギがビールを飲みながら煙草を吸うなんて思ってもいないだろう。ぼーっと煙草から立ち上る紫色の煙を眺めていると、隣の部屋の窓が開いて、ベランダに人が出てくる音がした。その後隣のベランダからカチカチと火打石を鳴らす音がして、小さな溜め息が聞こえた。
「すいません」
僕は、不意に声をかけられてビクッと身体を揺らした。
「すいません、ライター点かないんで、貸してもらえませんか?」
横を見ると、若い女が隣のベランダから少し身を乗り出して、こちらのベランダを覗き込んでいる。茶色くて肩に掛かる程度の長さの髪が風に揺れている。見た感じ、自分と同じくらいの年齢なので大学生だろう。隣に女の子が住んでいるなんて初めて知った。断る理由も特にないので、
「あぁ、はい、どうぞ。」
僕は彼女にライターを渡す。
「ありがとう、助かります。」
彼女はライターを受け取ると一旦、ベランダの中に消えた。5秒くらいして、またひょこっと顔を出して、ライターを返してきた。薄い唇には火を点けたばかりの煙草をくわえている。
「なんで僕が煙草吸ってるの分かったんですか?」
と尋ねると、彼女はきょとんとした顔をした。
「なんでって、煙草の匂いがしたからだよ。」
と答えた。なんだこいつ、タメ口を使うのが早いな。僕はビールを一口飲んで、ああ、そうなんですか、と適当に相槌を打った。
「あなた大学生?なんか死んだような顔してるけど。」
今度は女が尋ねてきた。尋ねるのは良いけれど、失礼すぎるぞ、僕のライターがなかったらお前は煙草を吸えてないんだぞ、分かってんのか。
「大学生ですよ。バイト終わりで疲れてるから死んだような顔してるんじゃないですかね。」
イライラしながら、それでもちゃんと答えるのは、この状況を少しだけ楽しく感じているからである。突然、隣のベランダから若い女の子にライターを貸してくれと頼まれることなんてそうそう無いし、ましてや、その女の子がこんなに癖のある人間であることなんてもっと無いだろう。
「へぇ、バイトか…。お疲れ様です。あたしはバイトしてないよ、しなきゃ金無いんだけどね、なんせ面倒でね、バイト何してんの?」
彼女はさほど興味のなさそうな口調で、また質問をしてきた。僕の情報を聞き出して楽しいのだろうか、いや、口調からしてべつに楽しくはないんだろうな。たまたま喫煙中に話す相手がいるから話してるだけだろう。よし、少しだけ楽しませてあげようじゃないか。
「ウサギしてます。」
僕は、少し得意げに言った。ウサギしてます。こんなに意味の分からない響きはなかなか聞くことはできないだろう。相手はどんな反応をするだろうか。彼女へ視線を向ける。
「へぇ、ウサギしてるんだ、ふぅん。楽しそうだね。」
素っ気ないものだ。彼女には冗談が通じないのだろうか。渾身の冗談がスルーされたので不貞腐れながら、言い訳の意味も含めて言う。
「ウサギって言っても、着ぐるみのウサギですけどね。遊園地で子供たちに風船を配ってるんです。」
僕が言うと、彼女はなぜかニコッと笑った。その笑顔が以外にも可愛らしくて僕は少し照れてしまう。
「いいね、幸せを配ってるみたいだね。あたしにはライターを貸してくれたし。子供たちはいつか、君のこと思い出して、幸せな気持ちになるだろうし、あたしはまた君にライターを借りるよ。あたしお金ないからライター買うのも勿体無いし。」
なんだか、またライターを貸せという圧力をひしひしと感じる発言だが、彼女のこの言葉に僕はハッとした。子供たちは、いつかウサギのことを思い出して幸せな気持ちになってくれるのだろうか。こんな煙草臭いウサギでも、子供たちに幸せを配ることができているのだろうか。なんだか泣きそうになる。
彼女の煙草はもうかなり短くなっている。
「それなら、このライター、あげるよ。」
涙をこらえながらライターを渡すと、彼女は嬉しそうな顔をしながら部屋の中に去っていった。







憂き世話

この部屋に居ると、落ち着くので、私はよくこの部屋を訪れます。私は几帳面な性格ではなく、どちらかというと大雑把な性格をしているせいもあって、この雑然とした空間を堪らなく心地良く感じるのです。今、私の周囲は様々な物で溢れて、少しでも手を触れたならばそれらが崩れ落ちて、生き埋めになってしまいそうで、私はきょろきょろと辺りを見回しては呼吸を整えて、大丈夫、此処はこんなにも居心地が良いのだから、と自分を慰めております。此処にある物たちは、きっとそれぞれに理由があってこの部屋に匿われているのでしょう。なんとなく、そんな気が致します。この手足の妙に長い猿のぬいぐるみも、きっと何か意味があってこの様な形をしているはずです。根拠はありませんが、私はそう思います。この部屋の広さはどれ程のものなのでしょうか。なにしろ沢山の物が積み重なって、見通しが悪いものですから、奥行きがどれくらいあるのか、私が今この部屋のどの辺りに居るのかすらも全く見当がつきません。あなたも、もしかしたら、この部屋の何処かにいるのではないですか。ほら、昔話してくれましたよね、手足の妙に長い猿のぬいぐるみの話。こいつは僕の母親みたいなものだから、と言って、あなたはどこへ行くにもそのぬいぐるみの手足をあなたの胴体に巻き付けて、嬉しそうな顔をしていましたね。入り口も出口もございません。私はこの部屋が好き、という訳ではございません。ただ、居心地が良いというだけです。ほら、あそこ、誰かがこっちを見ている。手を伸ばせば届きそうな距離です。でも、ほら、届かない。こんなにも物が溢れているのに、何処までも走っていけるのです。誰かが、泣いている、笑っている、怒っている、みんなみんな、息を吸って吐いている、たしか、私は少しの間息を止めてみようと思ったのでした。この部屋は落ち着くけれど、長居をしてしまうのは良くない様です。息を吸うと、また、私は外へ放り出されて、そして、いつも、息が詰まるのです。