憂き世話

 「怖いから見たくない!」

そう言って絢子はトイレから走って出ていく。

検査窓に赤紫色の線がうっすらと浮かんでくる。段々と色が濃くなっていく線の左側には真っ白な空白。線は一分ほどではっきりと現れた。まだなんとなく安心できず、そのまま数分、小さな検査窓を見つめていたが、現れた線は一本だけだった。

「大丈夫だったよ」

僕は大きな声で言う。

妊娠検査薬を持って、トイレを出る。絢子はベッドの上に座っている。

「大丈夫、陰性だったよ」

僕は、絢子というよりも絢子の不安そうな目に話しかけるように言う。

「良かったぁ」

僕は手に握っていた検査薬を絢子に渡す。絢子が検査窓をじっと見つめる。

「ほんとだ、陰性だ。赤ちゃんいなかったね」

絢子がホッとした様子で立ち上がり、検査薬をゴミ箱に捨てる。かさり、と検査薬がゴミ箱の中のゴミと触れ合って小さく音が鳴った。

 

「安心したらお腹減っちゃった。なんか買いに行こうよ」と絢子が言うので、近所のスーパーへ向かった。

平日の夜のスーパーには人がまばらで、仕事帰りなのかスーツを着た中年男性が商品を手にとっては首を傾げ、棚に戻すことを繰り返していた。

五歳くらいだろうか、ピンクのリボンがついたヘアゴムで髪を二つに結んだ女の子が、嬉しそうにペットボトルのオレンジジュースを抱えて、買い物カゴを持つ若い母親の後ろを歩いている。僕が女の子の後ろ姿を見つめていると、横から絢子が

「もし赤ちゃんができてたら、女の子だったかもしれないね」

と言って、微笑んだ。

 

僕たちはまだ大学生で、子どもを産むなんてことを真面目に考えたこともない。出産どころか結婚についてすら、真面目に考えたことがない。

 

家に帰って、スーパーで買った豚肉と白菜を使ってミルフィーユ鍋を作った。毎年、寒い季節になると、ふたりで喜々として近所のスーパーまで豚肉と白菜を買いに行き、週に三回以上のペースでミルフィーユ鍋を作る。美味しくて簡単なのだ。しかし、毎回同じ味だとさすがに飽きてしまうので、出汁は何種類か用意しておいて、その日の気分に合わせたものを使う。今日はキムチ味にした。

「辛いもの食べて、身体が暖まって、遅れてる生理も来るかもねぇ」

冗談めかした口調で絢子が言う。妊娠していなかったことに安心したのだろう。顔からは昨日からの不安気な色は消えていた。絢子は辛いものを食べると顔がすぐに赤くなる。それもあって、顔色は良すぎるくらいだ。

「そうだね、きっと明日には来るよ。ていうか妊娠してなかったのにここまで遅れてると逆に心配になってくるな」

僕も冗談めかした口調で、絢子に言う。

 

もしも、絢子が妊娠していたとして、僕はどうしていたのだろうか。

男は子供を産むことができない。産むのは女だけだ。出産の痛みを味わうのは女の人だけだ。絢子は僕以上に不安だったはずだ。きっと僕には計り知れないくらいに。

まだまだ大人になりきれないままの僕たちは、大人のフリをして少しずつ覚えてきた生き方で拙く生きている。

絢子が妊娠していたとして、僕は素直に喜べただろうか。未来への不安や心配なんて気にせずに、ちゃんと喜べただろうか。

絢子が妊娠しているかもしれないと知って、僕はただただ不安だった。絢子も不安だっただろう。赤ちゃんが生まれたら、お金はどうするのか、とか、結婚するのか、とか、そんなことばかり考えていた。

絢子が妊娠していたとして、僕は、その不安の先にあるであろう幸せと向き合うことができていたのだろうか。

命が生まれるということは、不安なことではないはずなのに、僕は不安に飲み込まれてしまうのではないだろうか。

覚悟が足りない。大人になる覚悟。いや、大人になってしまったことを受け入れる覚悟だ。

大人になりきれないまま、大人になってしまったのだ。拙くても生きていくことに、責任が伴うようになってしまったのだ。

誰も、いつまでも子どものふりをしてはいられない。

 

絢子が帰った後、ゴミ箱の中から検査薬を取り出して、検査窓を眺めてみた。赤紫の線は一本だけで、どれだけ見つめても二本目は現れないままだった。検査完了を示す赤紫の線の左側は白い空白のままだった。

僕は、その空白に安心すると同時に、少しだけ寂しさも感じた。いつか、もう一本の線が現れるその日に、僕たちはどんな顔をしているのだろうか。絢子が真っ赤な顔をしていれば良いな、と思った。

そして、二日間の不安を放り投げるようにゴミ箱に検査薬を捨てる。

 

 

 

 

憂き世話

 高校へ続く道は桜並木になっていて、春になると花は鮮やかに咲き乱れ、そして一週間ほどで散っていく。落ちた花弁が道路の端の方へと追いやられて茶色く腐っていく間に、木々は生命力が透けて見えるほどに濃い緑色をした葉を育て、自らが落とした花弁のことなど忘れてしまう。人々も、花がまだ目線の上で輝いていた時には、あれほど綺麗だ綺麗だ、と騒いでおきながら一旦それが地面に落下してしまうと、とたんに興味を無くし、平然と踏みつける。

 今日から高校へ通い始めた若々しい生徒たちは新緑の葉をつけた木々のようで気味が悪い。中学を卒業する際に感じたであろう寂しさや虚しさ、新しい日々が始まる事への不安、そんなものはとうに忘れてしまい、高校という新しい居場所で新しい人々と新しい関係を築いていくことへの期待しか彼らの表情からは読み取ることができなかった。自分もその中の一人として見られてしまうのだ、ということが嫌で嫌で仕方ない。


 僕の席は窓側の後ろから三番目だった。斜め右前の席の男子は背が高く、僕の視界から、黒板のおよそ三分の一を隠してしまい、担任が何やら書いていたがなかなか見ることができなかった。
「とりあえず今は先生が君たちの名前を憶えやすいように出席番号で席を決めてあるけど、また一週間くらいしたら席替えをしますね」
    担任が言ったので、少し安心する。黒板を見ようとしても、目の前の背の高い刈上げ頭しか目に入らない生活も一週間くらいなら我慢できるだろう。
 自己紹介のとき、僕の印象に一番残ったのが美弥だった。長い髪を後ろで一つに括っていて、毛先が少しだけ茶色く痛んでいた。スカートから伸びる脚は透明といっても良いほどに白かった。美弥が立ち上がった瞬間に、この人は他の人とは違うと反射的に思った。何が違うのか、そんなことは分らなかったが、確かに違うのだという確信は頭の中に煙のように立ち昇り、僕はその煙を吸い込んで酸欠を起こしそうになったのだ。それに美弥の言葉は、他のクラスメイトのものとは比べ物にならないくらいに馬鹿らしくて、最高に浮いていた。だから、この人はやっぱり他の人とは違うのだと確信した。
「はじめまして。西沢美弥といいます。みんな出身中学のことしか言わなくて面白くないので少し違う話をします。みなさん、蛙は好きですか? 私は昔から蛙が好きで、昔は捕まえて飼ってみたり、田んぼから卵を採って来て孵化させたりしました。シュレーゲルアオガエルが特に好きです。シュレーゲルアオガエルは泡状の卵を産みます。蛙の卵って、どろどろしたゼリー状のイメージがあるかもしれませんが、全部が全部そういうものってわけじゃないんです。人間だってそうなんじゃないかな、と思います。あなたも私も違う人間であって、みなさんが持っている「人間」というイメージなんて本当は当てにならないんじゃないか、って思います。イメージに凝り固まらない学校生活を送りましょう。よろしくお願いします」
 

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 美弥は夏になっても長袖のカッターシャツを着ていた。周りに半袖の生徒が増え始めて、教室内の生徒全員が半袖のカッターシャツを着るようになっても、美弥だけは長袖を捲ることもせずに着続けていた。
「美弥ちゃん、ずっと長袖着てるけど暑くないの? 体育のときも一人だけジャージ着てるよね。もう夏なんだし、半袖着ないと熱中症で倒れちゃうよ?」
 ある日の昼休憩、ひとりの女子が美弥に言った。生徒たちは二人や三人の小さなグループに分かれて机を付き合わせ、それぞれ楽しそうに弁当を食べている。美弥も佐伯と水沢という女の子ふたりと机を合わせて楽しそうに昼食を摂っていた。美弥に「長袖暑くないの?」と訊いたのは、水沢だった。水沢は明るくて愛嬌のある女の子で、クラスの男子の話題にもよくのぼるような子だ。肩に触れるか触れないかという長さの髪の毛をいつも後ろで一つに結んでいる。
「暑いけど、長袖って可愛いと思うの」
 美弥は水沢にそう答えていた。僕は少し離れたところで友人と弁当を食べながら、その様子をなんとなく眺めていた。
「半袖も可愛いよ? 暑いのに辛くないの?」
水沢が問い詰めるように美弥に訊ねる。美弥は少し困ったような表情を浮かべて、水沢と目を合わせないように弁当箱の中身をつついている。その様子から僕は、ああ、彼女が長袖を着ているのには何らかの事情があるのだな、と判断したが、水沢は何が彼女をそこまでさせるのか、美弥の困惑に気付いているのかいないのか、執拗に「なんで? 暑いのに」と美弥に詰め寄る。美弥は「うーん」とか「べつに理由はないよ」とか簡単な言葉でその場を収めようとするのだが、水沢ははっきりとした答えが返ってこないことに納得がいかない様子で、美弥に「半袖着なよ」と言い続けている。佐伯が何もしゃべらずにこにこと二人の会話に自然に溶け込んでいて、僕はその技術はかなり高等なものなのではないかと考える。空気の読めない女子と、その空気の読めない女子に問い詰められ身動きが取れなくなっている女子の間で、あんな風に自分を隠しながらもそこにしっかり所属している。僕にはできない。
 そうこうしているうちに美弥の表情から困惑が消えたのを僕は見た。すっ、と一瞬のうちに消えたのだった。それまでの困った表情が、一瞬にして何の感情も持ち合わせていない無表情へと変貌し、弁当箱の中ばかり見つめていた目が水沢の二重の大きな目に向けられた。
「別にいいじゃない」
 美弥の口調はそれまでのものとは別人のように鋭かった。
「私が長袖を着てることであなたに迷惑はかからないし、私に半袖を着ることを強制する権利はあなたにはないでしょう? 長袖が着たいから長袖を着ることの何が悪いの?」
 水沢の顔面が、まるで硬い岩になったかのように固まる。恐怖と驚きと戸惑いが混ざり合って、水沢の顔面をぶわぁっ、と覆い尽くす。しかし、それはほんの一瞬のことで、数秒後には水沢の顔には怒りの色が強くふつふつと滲み出た。
「強制しようなんて思ってないし、私はただ暑くないのかなって心配してるだけじゃん。なんでそこまで言われなきゃいけないの? なに? ほんとはあんた、半袖が着れないわけでもあるんじゃないの?」
 水沢がさっきよりも少し大きな声で叫ぶように美弥に言葉を投げた。わざと周りに聞こえるように大きな声を出したようにも見えた。猫が威嚇しているみたいだと僕は思う。佐伯が、ついさっきまで隣で微笑んで二人の会話を聞いていたのが嘘のように身体をこわばらせていた。
「あるよ」
 美弥の言葉に水沢はまた一瞬だけ岩になる。岩になった後で、
「なによ、その長袖が着れないわけって」と美弥をまた威嚇する。威嚇するが、数秒前ほどの勢いはない。美弥が怠そうに口を開く。
「私、腕を切ってるから、その傷を見せないようにしてるんだよ。傷を見せたらみんなどうせうるさくするでしょ? 腕に切り傷がある女がいるって噂するでしょ? あいつはメンヘラだから気を付けろとか、あいつは精神病だとか、そんな風に。べつに良いんだけど、面倒くさいじゃない。私が面倒なだけじゃなくて、みんながそんなことに捉われてしまうのって相当面倒くさくて無駄なことだと思うのね。だから隠してる。それだけ」
 教室内の空気がざわざわと揺れる。「まじ?」「やばくない?」そんな言葉たちが誰に聞かれるでもなく空中に漂って消えていく。水沢が美弥の袖口に手を伸ばして、小さなボタンを外し、袖を捲りあげた。美弥は特に抵抗することもなくそれを受け入れる。
美弥の腕には無数の傷跡があった。赤黒いケロイドとなり立体的に浮き上がった皮膚と瘡蓋で黒く固まった血液が描く直線が何本も並び、交差して、腕の表面を埋め尽くしていた。
水沢は自分でそれを露わにさせたにもかかわらず、ひっ、と喉から声を漏らして目を反らす。教室内に漂う無数の声が大きく空気を揺らし始める。僕は美弥の腕から目を反らすことができなかった。心臓が耳元で鳴っていると錯覚するほどの動悸が僕を襲う。深呼吸を三度繰り返して、ようやく美弥の腕から僕の目玉が逃げ出すことができそうな気がしたので、一度目を閉じてみる。その後、いつもの倍、瞼に力を入れて目を開く。
 美弥と目が合った、ような気がした。美弥は表情のない顔で小さく唇を動かし、何かを呟いて教室から出ていった。僕はその後ろ姿を目で追うことしかできなかった。僕の心臓はいつもよりも激しく血を吐き出していた。

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  中学一年の頃から乗り続けている自転車のかごはぐらぐらと安定しない。僕は毎日時間割に沿った教科書を持ってきて、そして持って帰るので鞄はいつも膨らんでいて重く、かごの中にそれを投げ込むと自転車のかごはさらに安定感を失い、金属でできているはずなのにふにゃふにゃと揺れる。教科書なんて学校に置いとけばいいのに律儀だね、と友人には言われるのだが、朝起きて学校に行くための支度をしているときに手元にその日使う教科書がないと安心できないので僕は教科書を置いて帰ることができない。目の見えるところにあるべきものがないと安心できないこの性格は、昔からのものだった。
 幼い頃のある朝、母親が珍しく泊りがけの出張だったために家にいなかったことがある。僕は母親の不在が無性に不安になって大きな声で泣いた。父が「母さん、今日の夜には帰って来るよ」といつまでも泣き止まない僕を慰めようとしたが、無駄だった。その日は父が幼稚園まで送ってくれたがその間も僕は泣き続けた。幼稚園でもずっと泣いていたらしいがよく覚えていない。夜になって母が帰宅した途端に僕は泣き止み、一日中泣いていたのが嘘のように笑っていたと父が言っていた。目を覚ませばそこにいて当然と思っていた母がいないということが幼い僕を不安にさせ、混乱させた。あるべきものが目に見える場所にないという事態は、僕にとって、あの母の不在と同じほどの不安を感じさせるのだ。もちろん、高校生になった今では母の不在などなんということもないのだが、あの日に感じた不安は僕の中にまだうっすらと靄のように残っている。


「あ、洲上くんだ」


 ふと背後から声を掛けられたので振り返ると、そこには美弥が立っていた。昼間教室を出ていってから、美弥は戻ってこなかったのでもう家に帰ってしまったのだと思っていたが、まだ学校にいたらしい。落ち着いていた心臓がまた、少しずつ勢いを増して脈打つのを感じる。鼓動を美弥に悟られないように、僕はなんでもないふりをして口を開く。目を合わせることはできなくて、うつむき、自分の足元、去年から毎日履き続けて薄汚れたスニーカーを見てしまう。
「帰ったのかと思ってた」
「ううん、ずっと屋上にいたの。面倒くさいことになったから、ちょっと落ち着こうと思って空を見ながら寝転がってた。空ってすごいんだよ。形が変わってくの。一瞬たりとも同じ形をしている瞬間なんてないんだよ。知ってたけど、改めて眺めてみて感動したな。曇ってるから雲ばかりだったけど、楽しかった」
 美弥の声は小鳥のさえずりのようだと僕は思う。美弥はあまり大きな声を出さない。誰と話すときも相手に聞こえるぎりぎりの大きさの声で話している。声質は柔らかく、少し鼻の詰まったような喋り方だ。声と喋り方と音量のバランスが良い。
「屋上に上がる扉って、鍵がかかって入れないようになってなかったっけ?」
「ああ、あれね、実は鍵が壊れてて開けることができるんだ。ちょっとコツがいるんだけどね」
「まじか、知らなかった」
「たぶん知ってるの私だけじゃないかな? 今まで屋上で誰にも会ったことないし、私以外が出入りしてる話も聞いたことないからなあ。開けかた、教えてあげようか?」


 僕の前を美弥が歩いている。階段を一段、また一段と踏みしめる美弥の足は驚くほどに白く、紺色のはずのスカートが真っ黒に見えた。
 校舎は三階建てで、東棟と西棟のふたつからなっている。僕たち一年の教室があるのは東棟の三階だ。二年生が二階、三年生が三階と学年が上がるにつれて教室は下の階へと下がっていく。三年生は忙しいから玄関から近い方が良いのだ、だから一階に教室を設けられているのだ、と毎朝三階まで階段を上がるのがしんどいと不満を言った生徒に担任が言っていた。今の三年生も一年生の時は同じ思いをしていたんだから我慢しろ、そんな風にも言っていた。
 三階が最上階なのだが、階段は三階よりも上へと伸びていて、その階段の先に屋上への扉がある。美弥は右手でドアノブを握ると「見ててね」と、左手で前髪を留めていたヘアピンを外してカギ穴に差し込み、上下に数回動かした後、ドアノブを左右にガチャガチャと揺らし、思い切り左に捻った。がちり、と鈍い金属音がした。
「よし、開いたよ。扉開けてみなよ」
 美弥に言われ、ドアノブを回すと扉が開き、開けた空間が視界に飛び込んできた。
「ほんとに開いた。すごいね、初めて屋上に来た」
「すごいでしょ、秘密の場所なんだよ」
 美弥が得意げに鼻を鳴らし、扉の先へと歩いていく。僕もそれに続いて屋上へと足を踏み出した。なるほどここからなら空がよく見える。空と自分との間を遮るものは何もなく、こんなに広い空を見たのは初めてのことだった。例えば校庭のような広い場所でも空は大きく見えるが、視界の端にはどうしても建物や木や電線が映ってしまう。純粋な空というのはこんなにも広大なものであったのか、と僕は少し驚いた。
「憂鬱な時にはね、ここに来てぼーっとするんだ。誰もいなくて落ち着くの」
 フェンスにもたれ掛るようにして立つ美弥の横に歩いていき隣に並ぶ。緑色のフェンスはところどころ塗装が剥がれ、剥がれた部分は空気と湿気に侵され茶黒く錆び付いている。見下ろすと下校中の生徒が数人、ぱらぱらと歩いていた。
「洲上くんさ」
 名前を呼ばれて横を見ると美弥も地上に目を向けて、下校中の生徒たちを眺めているようだった。
「お昼に教室で私と水沢ちゃんが言い合ってるの見てたでしょう。私が腕を出した時、まぁ、出したっていうか出されたんだけどね、あの時、みんな面白そうにこっちを見てたの。見ちゃいけないものを見るような目で。興味と軽蔑と恐怖とが入り混じったような色をした沢山の目玉が私のこと見てた。ホラー映画でも観るような感じっていうと分かりやすいかな? 私ね、人間のそういうところが気持ち悪くて大嫌いなんだけど、洲上くんだけは違う目をしてた。洲上くんの目には興味も軽蔑も恐怖も、そんなものどこにも映ってなかった。あ、洲上くんって人間にあまり興味ないのかな、って思ったの」
 僕は少し考える。人間に興味がないというのは正しくないな、と思う。人間に興味がないわけではない。優しくしてもらうと嬉しいし、嫌われると辛い。誰かに好かれたいとも思う。ただ、僕はあの時、あの教室の空気に辟易としたのも事実で、悪趣味だなと思いながら周りの声を聞くともなしに聞いていた。つまり、美弥以外の他の誰にも興味はなかった。だから人間に興味がない、というのは少し違うと思う。しかし、美弥が言うように、美弥への軽蔑や恐怖の感情なんてものは欠片もなかった。強いて言えば、よく分からない感情。まだ自分が向き合ったことのなかった感情が、あの時の僕を支配していた。でも、あの感情を言葉にすることは、今の僕の頭ではできなかった。なんと答えるべきか、考えている内に、教室で水沢に向かって「面倒くさい」と美弥が言っていたのを思い出した。
「人間に興味がないわけではないんだけど、考えてもみてもよく分からない。うまく説明できない。ただ、人間って色々と面倒くさいとは思うね」
 そう僕が答えると、美弥は「だよね、面倒くさい」と顔をしかめた。そして、しかめ面を解いて、
「ねぇ、私の傷を見てどう思った?」
 耳の中で鼓動が響き始める。今日は心臓がうるさい。僕は美弥の腕を見てどう思ったのだろうか。思い出してみる。彼女の皮膚の上を走る無数の傷。


「……綺麗だと思った」


 美弥はふふっと小さく笑った。綺麗か、と呟いた。なんだか、いたたまれなくなって「なんで腕を切るの?」僕は、それをごまかすために訊ねてみる。訊ねてみたは良いけれど、これは訊ねても良いことだったのか、訊ねた後に気づく。でも、美弥は特に気にする様子もなく答えてくれる。
「始めて切ったのは中学一年のときで、ただカッターナイフがお父さんの机の上に置いてあるのをたまたま見つけたから、なんとなく切ってみよう、って思ったの。切ってみたら痛くて、うわあもうこんなこと絶対しないよ、って思ったのに、何日か経って、気づいたらまた切ってた。なんていうか、人間ってご飯食べるでしょ? 一日三回食べる。そんな感じなの。回数なんて決まってないけど、切らなきゃって思ったときに切るの。ご飯食べなきゃ死んじゃうみたいに、切らなきゃ死んじゃうのかもね、私って」
 切らなきゃ死んじゃう。そんなこと、あるわけがない。あるわけがないけれど、でも、美弥はもしかしたら、切らなければ死んでしまうのかもしれない。それを信じさせる何かが美弥にはある。
 これまで僕は、腕を切る人は往々にして死にたがっているのだと思っていた。そういう人たちは、生きることに絶望している人としか見ることができていなかった。この子は生きるために自分を切っている。あるわけない理屈を、傷として目に見える形に変えて、それを信じて、そうやって生きているのだ。だから、それはあるわけなくても、ちゃんとそこにあるのだ。切らなきゃ死んじゃう、は本当なのだ。
「触ってもいい?」
 美弥がこちらを向く。少し驚いているようだった。
「いいよ。触って」
 美弥が右手で左の袖口のボタンを外し、腕を出す。僕は傷をひとつひとつなぞっていく。
 遠くで十七時を知らせるチャイムが鳴るまで、それを続けた。
「五時だ」僕がチャイムに気づいて呟くと、美弥はフェンスから離れ、扉の方へと歩き出しながら
「付き合ってくれてありがとうね。洲上くんとは、なんだか仲良くなれそうな気がするよ」
 またね、と手を振って美弥は階段を下っていった。
 
ふにゃふにゃと、かごを揺らしながら自転車を漕ぐ。指先にはまだ美弥の感触が残っている。空を見上げてみる。視界の両脇をアパートや住宅に遮られて、空はさっきの半分ほどの大きさに見える。自分の住んでいる世界は狭いのだ、そう感じた。

憂き世話

あんたの、ふとした一言にどうしようもなく悲しくなってしまうことがある。
でも、おれは、あんたの抱える過去を忘れろとか忘れるなとかそんなことを言いたいとは全くと言っていいほど思ってない。

だって、過去って一人ひとり違っていて、その過去があってのあんただし、おれがあんたと一緒に居ることができているのも、あんたがあんただったからだし。
今日に色が付いていたとして、同じ空間で過ごした今日がいつか過去になったとき、やっぱりおれとあんたでその色は違って見えるのだと思う。
違う目で見た違う色した同じ日を重ね合わせて、濁った色でも良いから、二つの色を重ねて生まれた新しい色でまた一日を過ごしていきたい、とおれは思う。

何度も何度もそれを繰り返して、ドロドロに混ざった汚ねえ色を幸せだって呼びたいと思う。

憂き世話

夕方くらいから、日が暮れて数時間経った今まで、ずっとずっと同じ問題を考え続けている。

 

自分の頭が相当に悪いと気づいたのは最近のことで、「宿題面倒臭いよ〜」なんて台詞が、教室のあちこちから毎日聞こえてくるものだから、私は勝手に勘違いをしていたのだ。プリントを1枚終わらせるのにみんな8時間くらい使うものだとあたしは思っていたのだけれど、プリント1枚に8時間使っているというのは異常なことらしいと、みっちゃんのこれでもかと真ん丸に見開かれた目を見て気づいてしまったのだ。

「昨日、寝るの遅くなっちゃったんだ〜、眠いよ〜」

と、みっちゃんが言ったので

「宿題? 昨日のプリント難しかったもんね、あたしも終わらせるのに12時間かかったから徹夜して学校来たんだー」

と言うと、みっちゃんは、なるほど眼球って本当に真ん丸い球体だから眼球っていうんだ、へぇ〜すごいなぁ、って思ってしまうくらいに目を真ん丸にして、

「12時間もかかったの? あたし40分で出来たよ。昨日は録り溜めてたドラマ一気見したから寝れなかったんだよ、え、12時間って、すごいね、そんなに難しかったかな、うん、まぁ、難しかったけど」

そこであたしは気づいてしまったのだった。

 

あれ? あたし、もしかしてめちゃくちゃに頭が悪いのかな?

 

みっちゃんはプリント1枚を40分で終わらせると言う。みっちゃんだけではない。「えぇ〜、40分なんて嘘だ〜、ねぇ、8時間はかかるよねぇ?」と近くにいたトシくんとあきちゃんに同意を求めると、トシくんもあきちゃんも、何言ってんだこいつ、って顔をしながら「40分あればいける」と言った。40分でプリント1枚を終わらせることができるなんてあたしにはにわかに信じられない。驚きの速さだ。爆速。あたしはプリント1枚に8時間かかる。だから、宿題にプリントが2枚出てしまった時は大変だ。単純に計算して16時間掛かる。この「単純な計算」をするのにも10分かかった。なんで今まで自分がめちゃくちゃに頭が悪いことに気づかなかったのだろう。少なくとも、家族は気づいていたんじゃないのか。教えてくれよ。父さんも母さんも「トモちゃんは、頭がいいねぇ〜」って言ってるのはなんなんだよ。

そこでまた、あたしは気づく。

父さんも母さんも、本当はあたしがめちゃくちゃ頭が悪いと分かっているのだ。分かっているけど、認めたくないのだ。父さんも母さんも特別頭が良いわけではないけど、まさか自分の子供がこんなにも頭が悪いだなんて信じたくなくて、だから、「頭がいいねぇ〜」なんて、わざと呑気に笑って見せて、あたしはまんまとそれに騙されて、そうやって父さんと母さんは現実を見ないふりしているのだ。その証拠に、あたしが毎回0点のテストを持って帰ると、母さんは「あれ、おかしいね、1と0が足りないね」とか言って、0の前に1と0を付け足して「100」を作り出す。それを見てめちゃくちゃに頭が悪いあたしは「やった100点だ、あたしって賢いなぁ」と思ってしまっていた。

 

15年生きてきて、やっと、やっと、自分がめちゃくちゃに頭が悪いと気づいてしまったあたしの絶望たるや言葉にできない。なんてったって、15年間も自分がめちゃくちゃに頭が悪いことに気づかないくらいめちゃくちゃに頭が悪いのだ。なんてことだ。15年もかけてやっと解き明かした答えがこれだなんて、名探偵コナンもビックリ、身体は大人、頭脳は猿以下。じっちゃんの名にかけて!なんて口が裂けても言えない。じっちゃんマジごめん。

 

あれ? でも、めちゃくちゃに頭が悪いあたしは今までちゃんと勉強してきて、それでもこうやってめちゃくちゃに頭が悪いのだから、これから先、勉強したところで人並みに頭良くはなれない、つまり底が知れてるってことで、あたしは今までプリントを解くのに使っていた8時間を自由に使ったところで何の問題もないのでは? 8時間もあれば、ちょっと遠出して帰ってくることもできる。あれあれ? めちゃくちゃ自由じゃん、あたし。だから、あたしはもう問題を解くのをやめる。

 

 

数年経って、あたしは「本当の自由」をみつける。「本当の自由」をこれまでたくさんの人々が探し求めてきたけれど、それを見つけた人はひとりとしていなかった。でも、あたしは見つけた。めちゃくちゃに頭が悪いあたしは、誰にも見つけられなかった答えを見つけた。そう、めちゃくちゃに頭が悪いあたしは、実は誰よりも頭が良かったのだ。えっへん。だからといって、あたしは他の人を馬鹿にしたりはしない。だってあたしはめちゃくちゃに頭が悪いけれど、それでも、みんなそれぞれ必死なのだということくらいはちゃんと知っているからだ。

みんな「自分の生きる意味」とか「1番大切な何か」とか「自分という存在の証明」とか、そういうものを必死に探し求めているのだ。あたしはめちゃくちゃに頭が悪かったことで、たまたま「本当の自由」を見つけることができたけれど、それって運が良かっただけだ。めちゃくちゃに頭が悪い故に、自由に自由を追い求めることができて、その結果、たまたま「本当の自由」を見つけてしまっただけなのだ。あたし以外のみんなは、ちゃんと必死に考えて、必死に今まで誰にも解けなかった超難問を解こうとしている。そうやって人間は分かることをどんどん増やしてきたし、これからも増やしていくのだと思う。

「分かること」ってのは、全て、元々人間の頭の中のどっかに存在していて、「分かる」ってのは「分かること」を人間が自分たちの頭の中から頭の外へアウトプットする方法を見つけたってだけの話で、つまり、人間の頭の中に全ての答えはあって、それを例えば文字とか図形とか言葉とかを使って説明するという作業を経て、あたしたちはやっとそれを答えとして受け止めることができる。「生きる意味」とか「1番大切な何か」とか「自分の生きる意味の証明」とかの、人生をかけて探すべきとされるそれらは、あたしたちが人間として生まれた時から誰に教えられたでもなく探し始めたであろうそれらは、絶対にあたしたちの頭の中のどっかに転がっているはずだ。あたしたちは、それを何千年、何万年と探し続けているのだ。

 

あたしたちは、何千年、何万年前から今まで、ずっとずっと同じ問題を考え続けている。

 

あたしは、たまたま、本当にたまたま、「本当の自由」を見つけることができたけれど、あたしはめちゃくちゃに頭が悪いから、それをみんなに分かるように伝えることができない。アウトプットがクソなのだ。だから、これは人類の答えとしては機能しない。あたしにしか機能しない「本当の自由」なのだ。あたしのあたしによるあたしのためだけの答えなのだ。そう、けっきょくのところ、あたしはめちゃくちゃに頭が悪いだけの、ただの馬鹿でしかないのだ。

湿気

ジメジメとしたこの土地の性質が、土地に生きる人々の性質を侵し、人々の心象も土地と同じく湿り気の強い腐葉土のような不快な柔らかさを携え始めたのはいつのことなのだろうか。


 

彼が生まれた土地は、山と山に挟まれた谷であった。集落の中心を流れる川の水は緑色をしている。流れは激しく、水流が水底を削り滑る音がひっきりなしに集落に響いている。
彼は幼い頃から孤独を感じていた。過疎化の進む集落には子どもは彼を含めて数えるほどしかおらず、道を歩けば皺の寄った老人たちが畑を闊歩する姿ばかりが目についた。
彼は、集落の子どもたちの中で一番歳が下だった。誰もが彼を可愛がったし、遊びの仲間に入れてくれたが、彼はいつもどこか上の空で、楽しさと同じほどに重くのしかかる寂しさとどのように付き合っていくべきなのか思案していた。遊びの誘いを断ることも多かった。自分から寂しさを深めることを選択したのだった。楽しさはたしかに捨てるには勿体無く感じたが、しかし、寂しさを内包する楽しさを希求することを好きにはなれなかった。どうせならばもっと寂しさに溺れてみたいと、何故だかそう考えた。


彼はひとりで散歩をするのを好んだ。長い階段を上がり、社の縁の下に蟻地獄の巣を探すのが好きだった。地面にすり鉢型に空いた穴を探し、掘り起こす。すると、すり鉢の中心、穴の底に他のどの生物にも似つかない生物を見つけることができる。二本の角、三角形の身体。触るとそれはぶよぶよと柔らかく、力を入れると潰れてしまいそうだった。恐々とつまみ上げ、手のひらの上に乗せると、ぴくりぴくりと身体を痙攣させるように動かして後退しようとする。この虫は穴を掘る際、尻の方から身体を地面に食い込ませていく。手のひらは地面ではないので、いつまでも穴を掘ろうとする虫の動きに抵抗し続ける。彼はそれを眺め、こいつらは前には進めないのだな、そう思った。

 

蛙の皮を剥ぐ、という残酷な遊びをしたことがある。アマガエルではなくツチガエルの皮を剥いだ。水田の横を流れる細い用水路には、多くのツチガエルが跳ねている。一匹捕まえる。何処からか見つけてきた木の枝を、ツチガエルの口に差し込む。ツチガエルは苦しそうに両腕をばたつかせる。木の枝を蛙の中心にぐっと押し込み、固定する。ツチガエルはまだ死なない。適当な小石を拾い、ごつごつとしたそれを蛙の身体に突き立てる。赤い血。茶色い皮の内側には、桃色の肉。ツチガエルの伸び切った後脚が痙攣を始める。脚全体、膝から先、足首から先、そして指先、というように震えの範囲は小さくなり、やがて終息していく。最後に枝から蛙を引き抜いて、水路へと戻す。何度も捕まえては皮を剥ぐことを繰り返した。数匹に一匹は、皮を剥いで痙攣が終わり、水路へと戻そうとした時に、突然、ぴょこりと跳ねた。死んだと思っていた蛙が跳ねるのであった。血液を滲ませた桃色の蛙は此の世の生き物ではなく、地獄を体現していた。この地獄を創ったのは自分で、そして自分を創ったのはこの土地で、そこに巣食う人間たちで、ここは地獄なのだ。

 

彼は度々同じ夢を見た。
彼の家を出て、すぐ右手に青い欄干の橋がある。夢の中で彼は欄干の上に立って、眼下に流れる水流を見下ろしている。街灯の少ない集落は闇に包まれていて、橋の下には黒い水が流れているように見える。数十メートル先に光る街灯の明かりが視界の端で揺れる。耳に入る音は、木の葉が風に擦れる音と水流の音、そして自分の呼吸音だけだった。夜の冷気が舌の上を滑り、喉元を下る。肺まで到達したそれは身体の何処かへ流れていく。体温を纏った生ぬるい不快な感触と共に吐き出されるものは、夜の闇そのもののようだった。
不意に、足元から感覚が消える。
落下する身体をどうすることも出来ずに、彼は手を伸ばし欄干に掴まろうとする。届かない。落ちていく。
川面は黒く、何処からか飛んできた光をチラチラと揺らすように反射させる。
見上げると橋の上に誰かが立っている。闇を背負って立つその姿が誰のものなのか判断出来ない。その顔は闇に溶け、闇よりも深い黒色の影となった身体を彼の視界に映す。闇より深い黒色。そんなものが存在して良いのだろうか、彼は考える。考えている間も落下は続く。水面に触れる瞬間、一瞬、眩しさを感じる。
目を開くとそこは、ベッドの上で、カーテンの隙間から朝日が細く室内へ侵入しているのが見える。
彼はいつも、同じところで目を醒ます。眩しさの正体も、闇より深い黒色の正体も、彼はいつまでも知ることができない。

 

畦道を歩いていると、ひとりの男が向こうから歩いてくるのが見えた。この集落の住民だ。何度も見たことのある顔。短髪の白髪頭に、二日前に剃ったような中途半端な長さの髭、皺の寄った目尻にそぐわない大きな目。正確な年齢は知らないが、六十代後半位ではないだろうか。ちらりちらりとこちらを見たり見なかったりしながら歩いてくる。明らかにこちらを気にしている。目を合わせようとすると慌てて反らす。
仕方なく挨拶をしようと口を開きかけたところで、向こうが先に声を発した。


「おい、ありゃあ、お前の車か?」


男の人さし指が指す方に目を向けると、田圃がひとつ、ふたつ、みっつ、その向こうの畦道に白い軽自動車が停まっていた。


「いや、違います」


そう言うと男は、返事もせずに歩き去った。
男の声には不信感と怒りのようなものが含まれていた。男は蔑むようにこちらを見ていた。
理由はすぐに分かった。男は他所者が自分の土地を歩き回っていると勘違いしたのだろう。それが気に食わなかったのだろう。自分が生まれ育った神聖な場所を踏み荒らして欲しくないのだろう。
ただ、男は勘違いしていた。僕はこの土地の人間だ。何度も顔を合わせたことがあるはずなのに、なぜ分からない?
自分の土地に十数年間生きていた人間を、男は他所者のように扱った。何の疑いも持たず、他所者だと判断し、他所者のように扱った。男にとってのこの土地は、男の自意識の中にある。自分がこの土地の人間だという誇りは、自分がこの土地を支配しているかのような錯覚へといつの間にか変貌し、それが男の自意識となる。自分の意識外のものは、この土地のものではないと思い込んでいる。しかし、この土地は男がいてもいなくてもこの土地のまま在り続けるだろう。土地において、男の自意識は、羽虫のはばたきと何ら変わらない。
しかし、紛れもなく男はこの土地の生き物で、僕もそれは同じである。

 

それが猫の死骸だと気付くまでに数秒かかった。無数の蛆が、猫だった物の表面を波打つように蠢いている。嫌な臭いがする。死を餌にして生き延びる生物のグロテスクな生。蛆の波に時折、亀裂が走る。亀裂の中に赤黒い肉と、その赤黒さと不釣り合いな白色をした骨がちらりと覗く。知らぬ間に繰り返される生と死。土地は血を吸ってぶくぶくと太っていく。生き物と物体の境目に、蛆が湧く。蛆はそのうちに蝿となって、飛び去るのだろう。猫の白く濁った瞳が、何処か遠くを見つめ続けていた。

 

十一月の空は灰色をしていることが多い。


彼は、考える。自分の居場所は何処にあるのか。


もうじき雪が降り積もって、集落を白く染める。春はまだ先のようで、しかし、すぐに訪れるだろう。


空き家の荒れ果てた庭。叢と化した田圃。畑には無数の山の動物の足跡。喪服を身に纏った人々の行列。イタチの糞。崩れた物置小屋。


彼は、考える。
生きるということは、死ぬということとどう異なるのか。

吸水性

終わりがくる度に、自分の中に空洞がぽこりと生まれる様な心持ちになる。必死に立ち向かっていた対象がある日急に無くなってしまうことなんて、生きていく中では珍しいことではないのだけれど。


自分の中に生まれた空洞は、徐々に広がっていって、今まで生まれてきた空洞とひとつになったり、交わらないままに広がり続けたりする。
普段は気にしないのだけれど、新しく終わりが訪れた次の日には、僕の意識はそれらに集中される。そんな時、僕は自分はスポンジの様だと思う。スカスカの中身。外から見る形だけは変わらないままなのが虚しい。


スポンジは色々なものを吸い取る。洗剤とか水とか、大抵の液体ならば否応なしに吸収してしまう。僕が吸い取っているのは、寂しさや虚しさで、空洞の中を満たすそれらを搾り出す術を僕は知らない。誰かが僕を抱きしめる様にして力を加えてくれれば、搾り出せるのだろうか。
吸い取ったものを溜め込んで腐らせて、そんな身体で明日について考える。そんな日々を繰り返しては、また空洞が生まれ、僕はそこに新たな寂しさと虚しさを溜め込んでいく。


空洞を何か別のもので満たしたいだけなのだ。


抱きしめられて、ぎゅっと小さくなった身体を元の大きさに戻す時、寂しさでも虚しさでもない何かを吸い取って、そうやって、満たされたいだけなのだ。

憂き世話

たまたま街中であなたを見つけると、それだけで嬉しいような悲しいような変な気持ちになって、思考が停滞してしまいました。


あなたがここを去ってから、もう何度夜が来て、その度、私は何度暗闇へ浸されたのか、もう分かりません。身体を濡らす暗闇が乾く前に、また新しい暗闇が私をひたひたと飲み込んでいくので、いつまで経っても糊の利いたパリパリのシャツを着ることができません。


私たちは5年近い間、隣にいたのに、あなたは呆気なく他の人のところへ行ってしまいましたね。私ひとりがあなたの側から離れるのを嫌がって、迷惑をかけてしまいました。


本当は今でも、まだ、縋り付きたいと思ってしまうことがあります。でも、そんなことを望んでも、何も、良い方向へは向かわないし、あなたが幸せになれないと知っているので、我慢します。


私には、あなたの幸せを創ってあげることができなかったのです。私は幸せだったけれど、あなたの幸せはここにはなくて、だから、あなたはここを去ったのですね。
私が苦しむだけ、それだけのことで、あなたの幸せが保証されるのなら、それで良い。あなたの幸せは私の幸せでもあります。だから私は苦しんでも大丈夫。
私はあなたの幸せを創っている一部になれたのです。隣にいては創れなかったそれを、今は、少しだけ支えることができているのです。私は、幸せなのです。

 

今日、見つけてしまったあなたは楽しそうに笑っていました。
あなたが私を思い出すことがあるならば、あなたの選んだ道が間違っていないということだけ覚えていてください。

間違いなんて、どこにもないのだということを忘れないでください。


そして、あなたが嫌じゃなければ、で良いので、あなたがどこにいるとしても、私のことを忘れないでいてください。

2016年10月21日のこと

僕の住む街で大きな地震が起きた。 揺れ始めた時に何をしていたのか、もうあまりよく覚えていない。ベッドに座って、振動する部屋の中で、棚から空き瓶や小銭をためていた小箱や木で出来た蛙の置物や、いろいろなものがポロポロと落下していくのを見ていた。スマホが耳障りな緊急地震速報を鳴らし始めたのは、揺れが始まってから数秒後で、これじゃただの事後報告じゃないか、と思った。

 

幼い頃にも地震を経験したことがある。たしか震度3くらいだった。保育園のお昼寝の時間に、突然窓がガタガタと音を立て始めたのだった。みんな、起き上がってぼうっとしていた。先生たちだけが深刻な顔をして、何か僕たちに話しかけ続けていたけれど、それを聞いている園児なんていなかったと思う。揺れが収まってから、隣に座っていた麗ちゃんに「ゴジラが来たのかと思った」と言うと、麗ちゃんは笑っていた。先生が部屋の隅に設置されていたテレビをつけて、「怖いなぁ」と言っていた。

 

揺れは5分位続いた。いや、5分に思えただけで、実際は3分だったかもしれないし 、30秒だったかもしれない。非日常に投げ込まれたときの時間の感覚なんて曖昧なものだ。 Twitterを開くと、地震に関するツイートばかりが画面を覆い尽くしていた。「揺れてる、怖い怖い」なんて、本当に怖いと思っている人がTwitterなんて開いて投稿している場合かよ、と少し面白く感じた。数分前まで、授業が退屈だとか、バイトが面倒だとか、そんな呟きばかりだったのに、揺れが始まった時間帯からは、スイッチが切り替わったかのように、地震のことしか呟かれていなかった。

 

余震は数分に一回のペースで続いた。祖母に電話をしてみると、繋がらなかった。サーバーが混み合っているのだと思った。しばらくしてからかけ直すと、息を切らした祖母の声が電話口から聞こえてきた。動揺しているようだったので、少しでも安心させようと、楽しげな声で話してみた。両親は共働きだし、弟は高校に行っている。姉は県外の大学院に通っている。祖母は昼間、家に一人なのだった。寂しがりやで、最近は足の具合が悪く歩くのも辛そうにしている祖母が一人で揺れに耐えたのだと考えると胸が痛んだ。怖かったよな、と声には出さずに言ってみる。

 

ガスの点検は予定通り行われたので少し驚いた。数日前に「21日金曜日にお伺いします」という内容の手紙がポストに入っていた。ガス会社のおじさんは何事もなかったかのように「こんにちわー」とやって来た。点検してもらっている最中にも大きめな余震が来て、また、棚から小物が落下した。おじさんと僕は苦笑いをしながら顔を見合わせた。「余震、けっこう来ますね」なんて馬鹿みたいな会話をおじさんと交わした。

 

夕方、また祖母と電話をした。近所の家を訪ねてみたら、焦っている自分とは裏腹にその家族はみんな平気な顔をしてた、と言っていた。やっぱり祖母は一人が怖かったんだな、と僕は思った。話をしているうちに、祖母がいつも通りの世間話を始めたので、僕は安心する。しばらく話を聞くともなしに聞いて電話を切った。

 

余震は回数を減らしながらも、やはり続いている。揺れの強かった地域では今後1週間程度は大きな地震が起こる恐れがある、とテレビで言っていた。現実味のない現実が続く。

ピアスを開けるのは完全に自己満足です。べつに誰かに見られたいとか、お洒落したいとかそんなんじゃなくて、自分の身体を自分のものだって確認するための行為。自傷行為。腕を切ることにはまだ抵抗があって、というか腕を切るのはあらかさま過ぎる気がするのと、自分の中で合法的ではないので罪悪感がまだ勝っているから、腕は切らないのですね。

 

耳に穴を開けるのは痛いです。毎回、痛過ぎてニードル通す最中もあぁもう嫌だぁとか思いながら通すんですけど、一ヶ月くらい経つとまた開けたくなってまたニードルをぶっ刺します。痛みに依存してるのかもしれないですね。 でもあまり耳に穴開けまくるのも避けたい。もうこれ以上は開けたくないと思っていて、じゃあ次、また開けたくなったときに僕はどうすれば良いのか今から不安になってます。 不安を消すための行為に不安になって、どこにも行けないまま、生きていくのかと考えてまた不安になります。 血を流したいわけじゃなくて、自分を自分に繋ぎ止めていたいだけなんです。腕は二本、脚も二本、胴体もあります。次はどこを、そんな風に考えて怖くなります。

 

僕を僕に繋ぎ止めてくれる人を探しているけれど、そんな人はまだここにはいなくて、どこかにいる保証も無くて、ここはなんて虚しいところなんでしょう。 喪失感も孤独感も消えない今日を、明日も明後日も続けていくしかないのでしょうか?

 

小学生の時に、卒業式から帰ったら父方の祖父が硬くなっていたことや、遊んでいたら父親が切羽詰った様子で迎えに来てそのまま病院に向かい、母方の祖父が死ぬ瞬間を見たこと、クラスメイトが棺の中で花に埋もれているのを見たこと、死というものを知ってしまったことが僕を此の世に繋ぎ止めようと必死にさせます。怖いとは思わなかったけれど、現実感のないあの光景たちが幼い僕の現実に割り込んできたのでした。それがどのようにいまの僕の中、残っているのか自分でもよくわからないのですが、確実に残っていて、消えることはないのだという確信もあります。消えて欲しいわけではないけれど、たまに思い出すと自分もいつか、あの子もいつか、とどうしようもないふわふわとした感情が胸を締めつけるのです。

 

生きている間は生きていなきゃいけないのだ。生きている間に幸せにならなきゃいけないのだ。そんな脅迫概念が僕の中に巣食っていて、だから生きていることを確認したくなるのです。身体に穴を開けて、自分を繋ぎ止めなければ、どこかへふわふわと自分が溶け出していってしまいそうで、精一杯繋ぎ止めるのです。こんな方法しか知らないのが恥ずかしいけれど。こんな生き方しかできないのが悔しいけれど。 明日の僕もこの身体でしかないので、どうしようもないのです。

憂き世話

美咲先生は大学生で、毎週火曜と木曜に僕の家へやって来て国語を教えてくれる。僕は文章を読むのが嫌いで、小説ならまだ少しは楽しいと思えるのだけれど、評論なんて何が楽しいのか分からないし、細かな字が整然と並んでいる様を眺めているとなんだか頭の中がふわふわして、読んでも読んでも、内容が頭に入ってこない。勉強は嫌いだ。なんのために自分がこんなことをしているのか、そう考えると馬鹿らしくなって、そして眠くなってしまう。


美咲先生は本を読むのが昔から好きだったと言っていた。僕には理解できない。本なんて読まなくたって生きていけるし、楽しいことなんて本を読む以外にも沢山あるのに、なんでわざわざ長い時間を消費して本を読むだろうか。
本を読むのが好きな美咲先生は、国語教員を目指していて、大学では文学部に所属しているらしい。
「本って、自分の知らない世界を見せてくれるのよ」
美咲先生はそう言った。自分の知らない世界は、知らないままでも良いと僕は思った。知ってしまえば、それはもう知らない世界ではなくて知識の一部になってしまうだけで、知らなかったことすらそのうち忘れてしまって、そんなことになんの意味があるのだろう。単に賢くなりたいのだろうか。知識豊富な自分に恍惚としたいのだろうか。

それでも先生が熱心に僕の勉強を世話してくれるので、少しずつだけれど、僕は文章を読むことができるようになっている。この前の期末テストでは、前回のテストよりも良い点が取れた。もちろん嬉しかった。だけど文章を読むのはやはり楽しいことではない。

 

美咲先生の耳にはピアスの穴が空いている。先生が僕の家に初めて来た時には空いていなかった。先生の耳にピアスが光っているのに僕が気づいた日、先生は少し悲しそうな顔をしていた。


「先生、ピアス空けたんだね」


もの珍しそうに僕が言うと


「空けちゃったの」


と先生は言った。その顔はやはり少し悲しそうに見えた。


「痛くなかった?」


「痛かった。すごく」


先生が悲しそうな顔をしているのは、きっとピアスの穴がまだ痛むからなのだろうと、僕は勝手に思った。痛いと悲しいよね、そんな風に思った。
しばらくして、先生のピアスがまた増えた。それまで耳朶に一つだけだったピアスが、今度は耳朶より少し上の軟骨と耳朶の境になっているあたりにもう一つ増えた。

「痛いのにまた空けたんだね」


僕は不思議に思った。痛いことなんてしたくないし、ましてやそれを自分から行うなんて僕には考えられない。自分の身体に穴を開けるなんて、怖い。


「痛いからまた空けたの」


先生はそう言った。そこで僕はまた先生が悲しそうな顔をしていることに気づいた。


「痛いのが好きなの? 先生泣きそうな顔してるけど痛いの嫌なんだったら空けない方が良いんじゃないの?」


先生はもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「痛いから、また空けたの」

 

僕はいじめられるようになった。国語の成績が伸びたからだ。親は喜んでくれる。先生も喜んでくれる。だけど、同級生たちは気に食わなかったようだった。いままでろくに勉強もできなかった僕が急に成績を伸ばすものだから、みんな悔しかったんだろう。そんなことでいじめは始まるのだ。馬鹿みたいだと思う。でも僕が彼らを馬鹿にしたところで良い方向には向かわないのだろう。いじめってそんなものだ。

最初はなんてことなかった。無視されたり、机に落書きされたり、それくらいのことが続くくらいのことならいくらでも我慢できた。でも、机の中に虫の死骸が入れられたり、上靴がゴミ箱に投げ捨てられていたりしたあたりから僕は我慢できなくなっていった。何をしていても頭はぼーっとしているし、身体は重くて、ゾンビになったような気がしていた。

家に帰って部屋でひとり勉強していると、机の上のペン立てにカッターナイフが刺さっているのが目に付いたので、僕はそれを使って腕を切ってみた。リストカットって話には聞いたことあったのだけれど、まさか自分がそんなことするなんて思ってもいなかったのに、腕を切った。自分のものでないような気がしていた身体が自分の元へ戻ってきたような感覚だった。傷口から血が溢れて、血の雫が腕をつーっと伝って机に落ちた。なぜか美咲先生のことを思い出した。悲しそうな顔。僕はいまどんな顔をしているのだろうか。

 

僕が腕を切った次の日、美咲先生が国語を教えにやって来た。 先生の耳にはピアスが全部で四つ光っている。


「痛いから空けるんだね」


僕が呟くと、先生は少しだけ僕の顔を見つめた後、


「痛いから空けるの」


と言って、問題集を開いた。