2018/09/29

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雨が降る。

草木は濡れて葉先から雫を滴らせる。地面を無数の水滴が叩く音。それが雨音なのか、見渡す限りの樹々がその葉から水滴を落とす音なのか、判断できない。音は川のせせらぎのようにも聴こえる。そういえば近くに小さな渓流がある。空から降る水が地に落下する音と地から湧く水が流れる音が混ざり合って、聴覚全てを埋め尽くす。

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今日もまた神様に会いに行った。先週以降、僕は完全に魅せられたようで、生活の中のふとした瞬間にこの苔むした樹皮や躍動する枝を思い出すようになった。

雨の中、ただ聳え立つ巨樹。晴れていても曇っていても雨が降っていても、そんなことは問題ではないのだろう。明日は台風が来るらしい。そんなこともきっと問題ではない。巨樹はこの場所に、じっと聳え立っている。

雨音以外に聴こえる音は自分の呼吸音とぬかるんだ地を踏む足音だけで、時間など初めから無かったかのように錯覚する。あるのは森と自分と巨樹だけだった。今ここで蠢くあらゆる感情は全て自分の中から湧き出している。それらは圧倒的な無に包まれている今、不純物のようにしか思えない。くだらないものを持って生まれてしまったな、と思う。

 

巨樹はただただ聳え立っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

憂き世話

空き缶が机の上に溜まっていく。机の上から淘汰された奴らは転がり落ちて床に横たわっている。窓を開けていると得体の知れない小さな虫が入ってくるし、浴槽の四隅は掃除しきれなかった水垢でぬめっている。脱ぎ散らかした服。雑然と積まれたCDや文庫本。

 

彼女はいつだって無垢な笑顔で男を転がしていたんだろう。俺だって転がされた中の一人なんだろう。彼女がどんなつもりだったのかなんて今更わからないし、わかる必要もない。ただ、触れた彼女の身体は温かかった。彼女はちゃんと人間だった。くだらねえ物語のヒロインなんかじゃない。だから、俺と彼女は分かり合えなかった。分かり合えなかったけれど身体を合わせて、分かり合えないから満たされないと会わなくなった。あの頃、間近に見た白い肌に生える細くて透明な産毛、それすら愛しかった。愛しくてどうしようもなくて、舌先で彼女の輪郭をなぞった。くすぐったい、と笑う彼女は俺の唾液で濡れてキラキラと輝いていた。

 

無造作に積まれた漫画本の中から、適当な一冊を抜き出して適当なページを開く。胸とクビレが異常に強調された女がよくわからない怪物に襲われている。リアリティもクソもないけれど、べつにこれを読む人はリアリティなんて求めてないんだろう。なんならリアルから逃れるためにページを開いてこの胸とクビレのお化けに会いに行くのだろう。こいつの二の腕とか背中にも産毛が生えてるのだろうか、とか考える。舌で舐めると、くすぐったいと笑うのだろうか、とか考える。馬鹿らしくなってページを閉じる。

 

ノートパソコンを開いて、エロサイトを漁る。こんなにたくさんの女性が裸になって画面の向こうで喘いでいるのに、そこに彼女の姿は見つけられない。あんなにたくさんの男と関係を持っていたくせに、画面の向こうに彼女の姿は見つけられない。彼女がどこにいて、何をして、誰に舐められて、誰にあの笑顔を見せているのか、俺はもう一生知ることはない。だから仕方なく、俺は知らない女が喘ぐ姿を眺めて、現実感のない汚ねえ部屋の中で、果てる。あんたわりと可愛いからまた会いにくるよ、そんな風に投げやりに、果てる。

 

 

2018/09/23:彼岸中日

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彼岸花が咲き乱れている。蛇の舌を抜いて寄せ集めたような不気味な花弁が、その赤色であちらこちらを燃やしている。

 

今日は墓参りをした。我が家の墓は山の中にある。墓地には十数基の墓石が並んでいる。明和、文政、天保。聞いたことがないような元号が墓石に刻まれている。途方もなく長い時間の中をこの血は流れてきたのだ、と思い知る。

花立に菊や鶏頭、榊などを差し込み、供え物としておはぎや団子を置く。

墓前で手を合わせる。手を合わせる時に何を考えたら良いのかいつも分からない。仏さんに願い事はしてはいけないということは知っているので、とりあえず「会いに来ました。僕は元気です。ありがとうございます」と伝える。

最近、墓参りをする度に河鹿蛙に遭遇する。この墓地に住み着いているのだろうか。近くに小さな渓流があるものの、そこで繁殖しているようには思えないのだが、どこからやって来たのだろうか。

 

墓参りから帰った後、特にやることもなく暇だったので、車に乗って、なんとなく滝を見に行く。地元の山奥は渓谷で、渓流には大小の滝が流れている。一番有名な滝は高さが約80メートルもある大きなもので、滝の前に赤い吊り橋が架かっており、そこから全体を見ることができる。吊り橋もかなり高い場所に架かっており、見下ろすと40メートルほど下に渓流が見える。現在は、落石や崩落で吊り橋までの林道が通行止めになっており、その滝を見ることはできなかったが、他に小さな滝がいくつもあるので、それらを見に行った。道中に宿泊施設や休憩所として使われていた建物がある。建物の前には大きな窪みがある。以前、釣り堀として使われていた窪みだ。幼い頃に父に連れてきてもらったことがある。自分たちの他に数組の客がいた。カップルや親子連れ、おじさん。僕がヤマメを釣りあげると、隣にいたおじさんが「大きなの釣ったなぁ、すごいがな」と褒めてくれた。賑わっているというほどでもなかったが、釣り堀を囲む客たちは皆、とても楽しそうだった。

水の抜かれた釣り堀の底には黒く湿った泥が積もっている。伸び切った雑草が、使われなくなってから何年も経っていることを教えている。

ふと、耳障りな音が鳴っていることに気づく。建物の中で何かが鳴っている。目覚まし時計か黒電話が鳴っているような音。建物に近づいてみると。建物の入り口には閉鎖中の張り紙が貼ってある。平成31年3月末まで、と書いてあるが本当なのだろうか。

そこを立ち去るまで、誰もいない室内で音は鳴り続けていた。

 

渓流に降りる。岩と岩の間を縫うように透明な水が流れている。手を浸けてみる。恐ろしく冷たかった。流れの激しい部分は川底が削られ深くなっている。そういったところは、水面が深い緑色をしている。手で掬う水は、透明なのに不思議だ。透明は無色ではないらしい。

 

帰り道、少し脇道に入る。しばらく進むと、かなりの山奥であるにも関わらずポツリポツリと民家が現れる。こんな場所にも集落がある。きっと、限界集落に分類される集落なのだと思う。おじいさんが庭先で農機具をいじっているのが見える。小さな小屋に「館民公」という木の看板がぶら下がっていた。

右手に集落を見ながら山道を進む。民家が見えなくなって数分後、ある場所に辿り着く。

そこには巨木が聳え立っている。幹周12メートル、樹高40メートル、樹齢は500年以上と言われている大カツラの樹。この辺りでは「山の神さん」と呼ばれている。東西へ伸ばした枝は、周りに生えている木々の幹よりも太く、長い。龍が空へ飛び立つ姿のようにも見える。

今、この世にいる全ての人間が生まれるずっと以前からこの樹はここで静かに生きていた。見上げると、龍が空を覆い隠している。

自分が生きていることが取るに足りないことだと感じる。自分にとって自分の生が全てのはずなのに、その全てを取るに足りないと感じる。全ては取るに足りないことだ。

吸い込む空気が湿っている。この土地は湿っている。吐き出した呼気も、湿っている。

この土地が僕を産み落としたのだ。

この身体を流れる血のことを想う。全ての取るに足りなかった血液が、今、この渓谷で流れ続けている。

自分の全てがここにあることが、どうしようもなく苦しくて、愛しい。

僕の神様はこの土地にしかいないと知る。

メモ

例えば、二人で歩いている時に「この景色とか話している内容とか、きっと忘れてしまうんだろうなぁ」と思ってどうしようもなく切なくなることがある。思い出ってのは、重要なところとか印象深いところ以外は殆どカットされて再生されるものだって知ってるからだ。
どういう話をしただとか、どういう服を着ていただとか、細かいことはすぐに忘れてしまう。忘れたいわけではないはずなのに忘れてしまう。一方で、あの時あんなことを言われて傷付いたとか、あんなことをされて辛かったとか、忘れたいことほど覚えている。そんなもんだ。
過去に囚われるのもそのせいで、忘れたいことばかりが頭の中を駆け巡って、心の弱いところをガンガン叩くから、悲しくなるし、苦しくなる。
見ていたいのはいつだって今だし、その先の未来なのに、実際に経験したことのある過去だけが自分の生きてきた明確な証拠だから、気づけば過去ばかり見てしまう。今も未来も未知だから、怖いのだと思う。過去だけは、経験として残っているから安心してしまうのだと思う。というか、そこに縋ってしまうのだと思う。生きてきた自分を語るには過去しかないから。
でも、さっきも言ったみたいに、思い出せる過去っていうのは「忘れたいけど忘れられないこと」の集合体みたいなもので、本当は自分によってかなり捻じ曲げられているのかもしれない。良くも悪くも。それだけじゃなくて「忘れたくないこと」が「忘れたいけど忘れられないこと」を補強する役割を担っていて、「忘れたいけど忘れられないこと」はその対比によって色付けされて、より「忘れられな」くなってしまうんじゃないか。それに縋るしかできないのが人間の弱さなのだろう。「自分に都合よく捻じ曲げられた、自分だけの思い出=自分」になってしまうのは仕方のないことだ。
でも、それで今持っている大切なものを壊してしまうのは悲しい。なかなか捨てられないものを捨てなければいけない時もある。大切だったものを大切じゃなくしなくてはいけない時もある。新しくできた大切なもののために、だ。美化された過去も、腐敗した過去も、切り捨てなければいけない。これまでの自分に拘っていてはいけない。大切なものを大切にするためには、大切だったものを大切なまま持っていてはいけない。だってそれは、大切「だった」もので、今、大切にしたいものではない。人間、同時に沢山のものを大切にできないんだとおれは思っている。おれは、できない。だから、本当に大切にしたいものを大切にしたい。ひとつ、でいい。

2018/09/16

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数年ぶりに会った幼馴染は、髪の毛が長くなっていて、化粧も上手になっていて、服もお洒落になっていたけれど、相変わらず気さくに笑っていた。

 

この集落には、僕と同じ学年の子は一人しかいない。その子は小学生の頃に引っ越してきたので、それ以前には、僕と同じ年の子どもはいなかった。ひとつ上の学年の子が五人いて、僕はいつもその子たちと遊んでいた。その五人のうち、三人は三つ子だ。男の子ひとり、女の子ふたり。

幼い頃には、みんなで稲刈りの終わった田んぼを走り回ってケイドロをしたり、道端の雑草を食べてみて美味しくない!と吐き出して笑ったり、梅雨時の夜に蛍を捕まえたりした。

大人になるにつれて、学校も別々になり、その後の進路や就職先も別々になり、さらに僕は年下だということもあって、彼ら彼女らと話す機会はどんどんと減っていった。
久しぶりに会ってもなにを話したら良いか分からず、沈黙の方が多くなっていった。

それでも、彼女だけは不思議と気兼ねなく話せる唯一の存在だった。
三つ子のうちのひとりの彼女とは同じ高校に通った。彼女が一年早く、僕が一年遅く入学したのだった。
高校時代、僕はバスで駅まで出て、そこからは自転車で高校まで通っていた。彼女とは朝のバスで乗り合わせることがあり、駅から高校まで自転車で並んで向かうことも多かった。高校生の男女が毎朝並んで高校に通っているその様子を見た友人から「彼女?」と聞かれたこともあった。僕たちは決して付き合っていたわけではなく、お互いそういう気持ちもなく、純粋に幼馴染として並んで通学していただけだった。
彼女は卒業して、県外へ出ていった。僕は彼女より一年遅く卒業した。僕は県内の大学へ進学した。

僕は彼女のことを尊敬していた。
今も、している。
小学生五年生の頃、陸上大会で彼女が走り幅跳びの大会新記録を出しているのを見て、僕も走り幅跳びを頑張ってみたことがあった。何度跳んでも彼女の記録を超えることはできなかった。中学に入って陸上部に入部して、やっと、僕は彼女よりも遠くへ跳べるようになったけれど、その頃には彼女はバレー部で、走り幅跳びなんてもうしていなかった。

幼い頃、ある冬の日に、僕がひとり、庭で雪の怪獣を作っているところに彼女がやってきた。また怪獣の脚の部分しか作れていなかった僕に、彼女は「何作ってるん?」と聞いた。「怪獣」と答えると「一緒に作ろう」と、怪獣の脚に雪を付け足し始めた。彼女は器用で、庭に積もった雪は着実に怪獣の手脚となり胴体となっていった。ふたりで雪を集めては固めることを繰り返して怪獣を形作っていった。結局、頭を作っている途中で五時のチャイムが鳴って、彼女は帰って行った。作りかけの怪獣は一週間も経てば跡形もなく溶けて消えてしまった。完成しなかった怪獣でも、こうやって僕はふと思い出す。

来年の春、彼女は東京に就職するという。デザイン関係の仕事らしい。僕は今年、地元の金融機関に就職した。彼女は大学院に通っていたので僕の方が一年早く就職した。
「君は県外に出ると思ってたよ」と彼女は僕に言った。僕は見透かされているような気がして、一瞬黙ってしまった。
ここに残ることを選んだのは、自分に自信と勇気が無かったからだ。本当は、こんな場所にいたいとは思っていない。ここで育って、ここで死んでいくのが正しいという思考が、ここには溢れるほどに満ちている。僕はその思考に嫌気がさしていながらも、その"正しさ"に沈められてしまった、つまらない人間だ。
東京に行くんだね、僕がそう言うと、彼女は
「これで、こんな田舎とはさよならだ!」
笑いながらあっけらかんと言った。
いつまでも追いつけないなぁ、と思う。

彼女は、ここから去る。僕は、ここで咆哮することのなかった怪獣を想い、五時のチャイムを聞き続ける。
あの頭の無い怪獣は、ふたりの関係性そのものだったのかもしれない。

 

 

雑記

特に目的など持たずにつらつらと書き始める。が、同時に僕は、目的など持たない、という目的を持ってしまっている。矛盾はそこかしこに生まれ出でて、僕たちは矛盾の氾濫の中を泳ぐ泳ぐ。溺れ死んでしまうまで。

 

 

「書き始める時には何も考えていない」「物語が進むのに任せる」「推敲はするけれど、自分が何を書いているのか分からないまま書き終える」。そういうことを言っている小説家が好きだ。プロットのない小説は、まるで生活で、まるで日常で、心地良い。伏線は回収されなくて良い。僕たちの人生において、わからないまま死ななければならないことなんて沢山ある。あの子はいま何してるんだろうとか、あの本誰に貸してたんだっけとか、死んでしまった祖父の涙の理由とか。その他諸々。僕たちの人生に張り巡らされた伏線は、回収されることなく、僕たちは死ぬ。
何もかも全て理解して終わるなんて、フィクションでしかありえない。そんなリアルがあるとしたら、それは相当に気持ちが悪い。

 

 

猛暑も終わりに近づいたのか、今日は涼しかった。ちょこちょこ雨が降ったからか、ただでさえ高い湿度は、いつもより高かった。湿度の高いこの街は、いつだってジメジメしていて、この街の人々は、押入れの奥の角から生えたキノコみたいに見える。

 

 

酒を飲みながら、ネットを漁る。本を読む。こうやって文章を書く。つまんねえ日々だ。でも、それが僕の生活だ。アルコールに溶かされた僕の脳味噌が、流れ出して、こうやって文字として貴方の、貴女の、目に触れる。文章を書くとは、なんてグロテスクな行為なのだろうか。ツイッターやタンブラー、その他諸々のSNSなんて溶け出した脳味噌の溜まり場だ。ネットも、雑誌も、街中の広告も、そこら中が文章で溢れている。なんてグロテスクな世界。無数の、匿名の、脳味噌の氾濫の中を、僕たちは泳ぐ泳ぐ。溺れ死んでしまうまで。

憂き世話

某駅構内。

「殺すぞ!」

女性の張り上げるような声が聞こえた。
それぞれ違う方向へ向かって歩いていた人々が一斉に同じ方向に顔を向ける。
無数の目が向く先にはひとりの女子高生がいる。右手には、制服に似つかわしくない包丁。
彼女の近くを歩いていた人たちは驚き、彼女と距離をとる。

「殺すぞ!」

彼女はもう一度叫ぶ。誰に向かって叫んでいるのか、彼女の目線は床に向かっている。
誰も彼女が誰を殺そうとしているのかを聞かない。
殺そうとする相手がわからないことが、人々の中に「もしかしたら自分を殺そうとしているのかもしれない」という疑念を産む。「誰を殺そうとしているのですか?」という質問に、自分の名が返されるのではないかという疑念。
誰もが、殺されるのが自分ではないことを祈っている。自分が殺されるはずはないと思いながら、しかし、疑念は晴れることなく数十秒間が過ぎる。
誰もが、殺されるのが自分ではない誰かであることを切実に望んでいる。

彼女が腕を振り上げる。

悲鳴。誰かが倒れる音。

 

倒れたのは、包丁を振り上げた女子高生だった。

彼女は自分を刺したのだ。

 

誰もが、殺されるのが自分ではない誰かであることを切実に望んでいた。

彼女は彼女自身を殺したが、しかし、彼女を殺したのは、紛れもなくその場に居合わせた人々だった。

いつの間にか、子供ではなくなってしまっていて、つまらない責任とかつまらない常識が生活を蝕んで、生活はつまらない。

 

何もかも人間の創り出したつまらないシステムで、人間は、自分達が創り出したシステムを制御できなくなって、それに取り込まれてしか生きていけなくなっている。

言い換えれば、人間のためのシステムが、システムのための人間を創り出してしまっている。

僕もその一人なんだろう、と思う。

 

生きるということは、一体なぜ、これほど難解であるのか。本当は何もかも、こじつけられた意味で正当化された、人間本位の解釈でしかない。難解だと思うのは、そういう無意味な意味を重要だと感じてしまっているからだ。

ある対象に対して付与された意味なんてものは人間の創作で、そのほとんどが駄作なのに。

 

生まれたことに意味はない。生きることに意味はない。死ぬことに意味はない。

 

無くても生きていけるはずのものが無ければ生きていけない人々の、悲しい現実を今日も僕たちは生きる。

 

明日も、明後日も、抜け出せない。

 

 

 

 

 

憂き世話

「おー、久しぶりー」

仕事終わりにコンビニで買い物をしていると、大学の同級生だった吉岡から電話が掛かってきた。

「久しぶり、なに?どうした?」

吉岡とは大学を出てからほとんど連絡を取ることがなくなっていたので、電話が掛かってくるなんて何事だろうと不思議に思う。

「どうしたって、いやー、なんかさ、お前の子供がうちに来ててさー。なんで俺のこと知ってんのかなって。ていうか、なんでうちの場所まで知ってんのかなーって」

は?子供?

「いや、僕、子供いないんだけど?」

僕には子供なんていない。それに吉岡とは10年近く連絡を取っていないし、子供がいたとしても、我が子が吉岡の家を訪ねていく理由なんて思いつかない。

「いやいや、だって玉崎の息子です、って言ってたよ?  おれの知り合いに玉崎なんてお前しかいないし、今、電話かける時にお前の連絡先見せて確認したし、間違いないって」

待て待て、全く意味がわからない。

「間違いないって言われても、僕、子供いないし、なんなら結婚もしてねえって!」

「えー、じゃあ、あれだ、知らん間に子供できてたんじゃねえの?  気をつけろよな〜」

あ、それなら可能性あるか。そう思い、考えてみる。あの子か?  それともあの子?  心当たりがないわけではない。

いや、でも待て待て、その子は何歳くらいの子なんだ?  ひとりで吉岡の家を訪れることができて、ちゃんと喋れるってことは、ある程度の年齢の子なんだろう。僕が女遊びをし始めたのはここ3年で、それまでは彼女がいて、でも色々あって上手くいかなくなって別れてしまった。僕は、大好きだった彼女と別れて、なんか全部どうでもよくなって、いろんな女の子に手を出すようになったクズ男だけれど、彼女がいる頃には彼女一筋で、他の女の子に手を出したりはしていない。

「その子って何歳なの?」

「おお、わからんな。聞いてみるから、ちょっと待ってな」

電話の向こうで吉岡が「あんた、何歳なん?」と誰かに聞く声が聞こえる。遠くから男の子の声がそれに「8歳です」と応える。

「8歳だってさ」

じゃあ、その子は絶対に僕の子じゃない。

「えっと、なんかよくわからんから、その子と直接話したいんだけど、電話代わってもらえる?」

「おう、了解…あっ、ちょっとちょっと!おーい!…あー、ごめん、出て行っちゃったわ。ちゃんと帰れるかな?  送ってった方が良い?  てか、俺、お前の家知らないから送れないか、わっはっは」

わっはっは、と笑う吉岡は呑気で、なんだか考えてもよくわからなくなって、わっはっはと僕も笑う。

「お前、連絡取ってない間に子供できてたなんてな!  父さんの同級生ってだけの知らない奴の家まで1人で来るって、めちゃくちゃ変な子だな!  わっはっは」

わっはっは。

「いや、だからそれ僕の子供じゃないって言ってるじゃんか、わっはっは」

「いやお前の子供だって本人も言ってたし、お前の子供なんだって、わっはっは、まぁ、じゃあまたなー、そのうち飲みにでも行こうぜー」

「おう、またなー、わっはっは、あー意味わかんねー!  わっはっは」

電話を切っても、なんだかおかしくて笑いが止まらない。こんなおかしなことがあるもんなのか。

もう一度、考えてみる。やっぱり心当たりはないし、何度考えても僕に子供はいない。間違いない。でも、僕の子供は存在していて、10年も連絡を取ってなかった吉岡の家に現れたという。

よくわからない。よくわからないまま、終わる。

明日も仕事だ。

いいんだ、どうせ、僕にわかることなんて、ほんの少ししかない。僕の頭の中には、僕にわかることと僕の知ってることしか存在しない。

でも世の中には、僕にはわからないことや知らないことの方が多いのだ。僕は、そういうことをわからないまま、知らないまま死んでいく。人生に、伏線の回収なんてない。起こったことは、忘れていくか、ずっと覚えたままでいるかのどちらかで、僕はきっと、この電話のことを覚えたままでいるけれど、その子が一体誰なのかはわからないままで死んでいくのだろう。

投げかけられた謎が全て解けるとは限らないし、全部わかってしまう人生なんてつまらないさ、きっと。

 

 

 

 

憂き世話

夕立に降られた。

傘を持っていなかったので、服も鞄も靴も、びしょ濡れだ。あぁ、こんなに濡れてしまったら今更急いで走ったところで意味ないなぁ、と思い、不貞腐れながらゆっくりゆっくり歩いて帰ったら、身体が冷えてしまった。寒い。

 

帰宅して、すぐに服を脱いで洗濯機に投げ入れる。浴槽にお湯を溜めたいところだけれど、こんなに冷えた身体で、しかも裸のままで、お湯が溜まるのを何分も待ってはいられないので、とりあえずシャワーを浴びることにする。温度を少し高めに設定し、蛇口をひねる。

「あつっ」

冷えた身体には、温度設定高めのお湯は熱すぎて声が出てしまう。でも、すぐに温度に慣れる。気持ち良い。ゆっくりと身体が温まっていく。

 

お湯って偉大だなぁ。同じ水なのに、雨はとても冷たかった。夕立に降られてびしょ濡れの身体は冷たかったのに、シャワーのお湯に降られてびしょ濡れの身体は温まっていく。

そんなことを考えていて、ふと、人間もそんな感じなのかもしれないな、と思う。例えば、知り合いの双子の聡くんと隆くん。私は、聡くんは苦手だけど、隆くんは好きだ。聡くんは言葉がきついし、何より人を馬鹿にする態度が許せない。一方で隆くんは、いつでも朗らかで、誰にでもよく気を遣っていてすごい。見た目は似ていても、冷たい人と温かい人がいるのだ。きっと、そうだ。

 

そういえば、人間の六割は水だという。やっぱり、水と人間って同じようなものなんだ。そんな風に一人で納得して、シャワーのお湯を浴び続けていると、なんだか、身体がお湯に溶けていっているような気がし始める。

足元に排水口が見える。抜けた髪の毛が集まっていて、汚い。自分の一部だったものなのに、なんでこんなに汚く見えるのだろうか。

私は、冷たい人なのか、温かい人なのか、どちらなのだろう。自分では分からない。でもどちらでも良い気もする。だって私の六割は水で、威張っている人も偉ぶっている人も六割は水で、みんな似たようなものなのだ。それに、冷たい水も温まればお湯になる。それはきっと、誰でも、冷たくも温かくもなれる可能性を持っているということだ。少し安心する。

でも、それって、本当に私なのだろうか。冷たくも温かくもなれるっていうのは、私の中の水の部分の話であって、それは誰もが普遍的に持っている部分で、だから、きっと私の本質はそこにはない。それは水の本質でしかない。

じゃあ、私ってなんなのだろう。考える。これまでの人生なんて、薄っぺらくて大したものじゃないけれど、私にとっての全てがきっとそこにあるので、思い出してみる。

嬉しかったこと。辛かったこと。忘れたいこと。忘れたくないこと。あの人に言われた言葉。あの子に言ってしまった言葉。もう聞けない声。もう会えない人。薄れていく過去。流れていった日々。

思い出しているうちに、なんだか泣けてきて、私は涙を流す。シャワーのお湯が涙を溶かして、私は泣いているのに涙が頰を流れることはない。その代わり、たくさんのお湯が身体の表面を流れていく。涙だって私の一部なのに、私の一部は簡単にお湯に溶けていく。

 

私はお湯に溶けていく。

 

私の汚い部分はお湯に溶けていかないようで、それらは排水口の網目に絡まって固まっていく。汚い。とても、汚い。

私の六割は水で、私はどんどん排水口に流されていく。

排水口の網目に絡まって残るのは私の何割なのだろう。

あぁ、どうか、網目に絡まらずに、流れに磨かれて丸くなった小石のように、排水口の上にポツリと私の綺麗な部分が残っていれば、それで良い。私の一割にも満たなくても、それが私の中にあったのならば、とても嬉しい。