憂き世話

憂き世話

幼い頃から通っていた駄菓子屋が営業を辞めるらしい。 「清水商店」 見慣れた看板。もう、なんて書いてあるのか判別もできないほどに古ぼけた看板。 清水商店をやってるのは、八〇歳くらいのお婆さんで、夏のぬるい風に綺麗な白髪を揺らしている。会計の計算…

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ライターで火をつけた煙草、久々に吸う煙草。咥えて、そして、吸う。普段の呼吸よりも強めに吸う。深呼吸よりは浅めに吸う。 クソ不味い。 よくこんなモンを、毎日、いや、毎時間、飽きずに吸ってられんな、オッサンら。と思う。口には出さない。口に出すの…

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目が覚めたら、右手の薬指がボールペンになっていたのだけれど、僕は左利きだし、薬指って一番指の中で扱いづらいので、めちゃくちゃ微妙な気分になった。せめて左手の薬指であって欲しかったな、そしたら、練習すれば普通に字を書けるようになって便利かも…

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「あの人と復縁する気はもうないですよ。あの人がどう考えているのか分からないですけど、僕はもうあの人とどうこうってのは考えてないです。振ったのは向こうだし、僕は振られた側でもあるので。あの人はたぶん愛されたい人なんです。愛されたい、って感情…

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文章で人を生かしてみたかった。 僕の書く文章が、誰かの心(そんなものが存在するのだとしたら)に、薬物のように作用して(たとえ副作用があったとしても)、たとえば喜び、もしくは怒り、哀しみ、楽しみになれば、そして、それらがその誰かの生活にとって…

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頭痛。内臓が腐っている。 融解する。固体と液体の狭間。融解。液体が流れる。黒が赤へ。 昼下がりの雑踏。夜行性の動物が一匹。目を開くことが困難だった。声。街に溢れる音。僕の呼吸音は街の一部と化す。匿名の命が蠢く街。僕に名前は無い。手を握ること…

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天井を見上げている。頭の中は騒音と言葉の海。放心できない。放心できないまま、ただただ天井と向き合っている。 馬鹿野郎。世界はおまえの脳味噌で完結してしまうんだよ。おまえの見てる世界はおまえのもんだ。分かるか? あの太陽も、あの美人も、あの花…

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河蜻蛉が、舟人が櫂を漕ぐような動きで羽を振り、初夏の川縁の空中を泳いでいる。緑掛かった虹色の体躯に四枚、漆黒の羽。夏の虫の体色に虹色が多いのには何か理由があるのだろうか。金蚉、黄金虫、玉虫、黒蝿、河蜻蛉。時に、日の光は、彼らの表面を滑り、…

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分裂する。 分裂する? 意味が分からないけれど、確かに僕は、これから分裂するのだ。と思う。 世界はひとつの塊だ、と言う人と、世界は多数の個の集合体だ、と言う人がいる。僕は、どちらでもよいと思う。どちらでもよいと言う。 あ、そういえば、明日は日…

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如何なる文明においても、人々は、踊り、歌い、言葉を話してきた。それらは各地でそれぞれに自然発生し、そして現在、それらは、混ざり合い、排除し合いながら、所謂「ひとつの世界」を築く重大な要素となっていること。 伝播者がいなかった、とは言い切れな…

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友人と酒を飲んだ帰り、ふと目を開くと夜空が見えた。 自分は何をしているんだ? と思考を巡らす。あ、寝ていたのか、では、ここは? 背中にゴツゴツとした硬い感触。心なしか鉄臭い風が鼻を掠める。夜空から視線を地平の方向へ送る。首を回すと耳元でジャリ…

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どうしようもなくなったときには文章を書く。思ったことをただただ形にする作業。僕の脳から生み出された感情がフニャフニャとした線の集合体となり、意味を含んで他人の脳内に流れ込み他人の感情を揺らす。僕の脳とこれを読んでいる人の脳が、ある意味繋が…

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父さんはいつも私に言った。 「お前は、母さんによく似てるな」 母さんが死んで、父さんとふたりで暮らし始めてからというもの、周りに頼れる人もいない私の生活は父さんと二人で閉じていた。 幼稚園の迎えはいつも七時を過ぎてからだった。五時を過ぎると先…

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「あなたのその薄くて可愛らしい上唇を、私のこの少し黄ばんだ、でも、矯正治療をしたおかげで綺麗に並んだ歯で、ぱくり、と噛む。そして、噛み締める。あなたの体温が舌先に触れる。ぬるい。私は更に咬筋に力を込める。ブチ、という不快な音が口の中、いい…

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集落の中心を焼鳥の串の如く真っ直ぐに抜ける市道脇の、人ひとりがやっと歩ける程度の幅しかない歩道を歩いていると、いつもの夜には決して聴こえることのない賑やかな話し声が、幾戸もの民家の窓から漏れ聞こえてくる。 盆の連休の間、集落には人間の気配が…

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六月二日、曇り 寝室の電灯はずいぶん前に力尽きてしまって、しかし、寝室なので特に不便も感じず、長い間、取り替えずに放置している。寝るだけの部屋に、灯りはいらない。暗い部屋の中、布団にくるまって色々なことを考えるのが日課になってから何年が経っ…

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「人生は単なる付属品だ」 とあなたは言った。 「生まれたというその事実だけが、僕たちが生きている唯一の理由で、人生がああだこうだなんて後付けの娯楽みたいなもんなんだよ」 あなたの人生の一部にでもこうやって私が存在している。それも、あなたにとっ…

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普段は家にこもっていたいと思っているくせに、いざ「外に出るな」と言われると、なぜだか無性に外に出たくなるのは、私だけではないはずだ。人間は誰しも心の中に天邪鬼を飼っている。心の中の天邪鬼たちも、政府からの自粛要請を受けて、天邪鬼だから、外…

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「こんばんは、起きてる?」 僕たちの会話は、毎回、その言葉から始まる。それは電話だったり、SNSのメッセージ機能だったり、玄関先でだったり、状況は違えど、いつだってそうだった。アシちゃんの家だったり、駅前だったり、適当な場所で落ち合って、ふ…

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中国地方の小さな地方都市、都市だなんて呼んでしまうのも恥ずかしいくらいのここにある国立大学には、受験に失敗してランクを下げて行き場もなくて仕方なくここを選んだという学生ばかりが多く通う。なんでこの大学を選んだの? と訊くと大抵、苦笑いを浮か…

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「そう、あの時から僕の性格はこんなに卑屈でどうしようもない匂いを漂わせ始めたんだと思います。どこか一点が腐り始めてしまった果物、そうだな、蜜柑とか梨とかそういうものを思い浮かべていただければ分かりやすいかもしれません。それまでは綺麗な色や…

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猫が交尾中に出す声は、赤ん坊の泣き声に似ている。猫も夜中に交尾をする。人間と同じ。深夜に窓の外から聴こえてくる声は不気味で、猫が鳴いてるのか、赤ん坊が泣いてるのか、猫が鳴きながら交尾をして、それで、雌猫から赤ん坊が泣きながら生まれたのか、…

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吉本くんはいつも「楽して暮らして100歳で死にたい」と言っていたけど、中学を卒業してすぐ働き始めて、その仕事は全然楽なものではなくて、過酷な肉体労働。重いものを運んで、組み立てて、分解して、高い所の狭い足場をせせこましく歩き回るような感じの仕…

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「死んでしまえ」 ふと、口から出た言葉。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないけれど、死んでしまえ、確かに今、私はそう思って、そう口にした。 「死んでしまえ」 いつだったかな。元カレに言われたことがあった。 酔った勢いで居酒屋で知り合った知…

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溜め息を吐いた。何か悪いものが、この薄い不恰好な唇の隙間から、ふっ、と流れ出していく想像。しかし、何も変わらない。あの男はここにいない。今頃どこかで適当に会える適当な女と適当に酒を飲んで適当な相槌をうっているんだろう。 仕事帰りに買ったコン…

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空き缶が机の上に溜まっていく。机の上から淘汰された奴らは転がり落ちて床に横たわっている。窓を開けていると得体の知れない小さな虫が入ってくるし、浴槽の四隅は掃除しきれなかった水垢でぬめっている。脱ぎ散らかした服。雑然と積まれたCDや文庫本。 彼…

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某駅構内。 「殺すぞ!」 女性の張り上げるような声が聞こえた。それぞれ違う方向へ向かって歩いていた人々が一斉に同じ方向に顔を向ける。無数の目が向く先にはひとりの女子高生がいる。右手には、制服に似つかわしくない包丁。彼女の近くを歩いていた人た…

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「おー、久しぶりー」 仕事終わりにコンビニで買い物をしていると、大学の同級生だった吉岡から電話が掛かってきた。 「久しぶり、なに?どうした?」 吉岡とは大学を出てからほとんど連絡を取ることがなくなっていたので、電話が掛かってくるなんて何事だろ…

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夕立に降られた。 傘を持っていなかったので、服も鞄も靴も、びしょ濡れだ。あぁ、こんなに濡れてしまったら今更急いで走ったところで意味ないなぁ、と思い、不貞腐れながらゆっくりゆっくり歩いて帰ったら、身体が冷えてしまった。寒い。 帰宅して、すぐに…

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運動会を明日に控えて、教室の中はいつもより少しだけ、そわそわと落ち着かない。 お弁当のオカズは何だろうね、おやつも持っていこうよ、飴食い競争楽しみだなぁ、飴食い競争は小麦粉で真っ白になるから嫌だなぁ、小麦粉美味しくないよねぇ…。 僕は、運動会…