帰省

実家から離れてまだ1年と少ししか経っていないのに、たまに実家に帰ると色々な変化を身に染みて感じる。少しだけ、1人だけ取り残されたような気分。


リビングにソファが増えたこと、風呂場のドアノブが帰る度にグラグラになっていくこと、弟の身長が伸びていくこと、観葉植物の蔓が伸びていくこと、向かいの家のお爺さんが亡くなったこと、祖母の歩き方がぎこちなくなっていくこと。
 
祖母は運動が好きで、僕が中学生の頃までは毎日夕方になるとウォーキングに行っていた。たまに一緒に歩きに行くと、あの家は誰々の家で誰々の息子はこんな仕事をしているだとか、あの家のお婆さんは身体を悪くしていて今は施設にいるだとか、僕はそれらの話に興味は無かったけれど、祖母はずっとそういった田舎臭い話をした。僕は適当に相槌を打ちながら、耳を傾けるか傾けないか位に聞いていた。それでもなぜか興味の無い話たちは心地良く耳を通り抜けていった。僕はいつでも祖母の話し相手で、祖母はいつでも僕に話をしたがる。歳のわりに歩くのが早かった祖母は今はもう、その辺のお婆さんよりも歩くのがゆっくりになった。身体が動き辛くなってからは、なんだか少し生気が薄くなったようにも感じる。同じ話を何度もするようにもなった。それでも別に僕は祖母の話をまともには聞いていないから、何度聞いても、あ、聞いたことあるな、くらいにしか思わない。ただ話を聞く。
 
時間の経過を意識するようになった。日に日に小さく見えて来る背中に、いつかは死んでしまうんだという暗い実感がまとわりついて、今日はもう西暦2015年9月1日。祖父は二人とも亡くなってしまったけれど、彼らが亡くなった時、僕は泣けなかった。小学校低学年の頃にはクラスメイトの女の子も亡くなった。その時も僕は泣けなかった。みんなの啜り泣く声が響く教室で、ひとり訳も分からずにただ座っていた。隣に座っていた女の子になんで泣かないの?なんて聞かれたことを覚えている。なんでみんな人の死をそんなにすぐに受け入れられるのだろうと思った。死の実感も、生きている実感も、まだ分かってなかったのだと思う。今でも分かってないかもしれない。でも、死んで欲しくないと思う。
 
あと何度、今と変わらないような夏を過ごせるだろうか。「足が痛い」と言いながら祖母が揚げていた、冷めて油のまわった天婦羅を食べながら考えたけれど、考えてもわかるものじゃないので、考えるのはやめて、祖母の口から溢れる僕にとっては興味の湧かない話を聞くことにした。