憂き世話

彼は硝子で作られた兎である。彼を見るものは声を揃えて綺麗だ、と言った。しかし、彼には色彩が無かった。透明なその身体の内側を光は貫通し、彼はその様子を見て、憂えていた。彼の身体を貫通し切ることのできなかった光の欠片達は、彼の足元に彼の影を薄く落とし、その僅かな光の模様によって、彼は、自分が存在していることを確認し、安堵していた。それ故に、夜は彼を不安と恐怖で飲み込んだ。彼は夜の暗闇の中では、自身の存在を確認する術を持たず、自分は此処に存在していないのではないか、と毎夜、泣きたくなった。流す涙も持たないことが恐怖を増幅させ、彼の存在を更に希薄なもののように感じさせた。
ある日、彼は自分と同じ形をした生き物を目にした。その生き物は、長い後脚で地面を蹴り、自らによって、一瞬、世界から離脱し、そして再び世界へと飛び込んでいく、その様な動きを繰り返していた。まるで踊っているようだ、と彼は思った。命というものの美しさを垣間見たような気にもなった。自分も、あの様に世界へ飛び込むことができるのではないか。そして命を感じる事ができるのではないか。そうすれば、自分が此処に存在しているという事実を信じることができるのではないか。私はあの美しい生き物と同じ形を持っているのだから。
彼は、力を振り絞り、身体を動かそうとした。思っていたよりも簡単に身体は動いた。前脚も、後脚も、今まで動かそうとしたことは無かったので気付かなかったが、まるで血が通っているかのように熱を含み、自分の身体をしっかりと支える力を持っていたのであった。気付いてしまえば、あとは踏み出すだけである。力を入れる。彼の後脚はしっかりと地面を捉え、そして、次の瞬間にはまるで拒絶するように地面を、離れた。
古びた棚の三段目に静かに座っていた彼が飛び込んだ先は、汚らしい黄ばんだ床で、彼は、硝子で作られた兎であった。