憂き世話

僕はウサギだ。これは比喩でもなんでもなく、近所の遊園地でウサギの着ぐるみを着て風船を配っている。バイトの求人を探していたら、たまたま見つけた仕事だった。なんとなく楽しそうだと思い、なんとなく応募したら、数日後には、僕はウサギになっていた。
大学生活はうんざりするほどに退屈だ。入学したての頃はできたばかりの友達の家に押しかけたり、講義をサボって遊びに行ったりしていた。入学して2年経った今でも友人達は同じ様な生活をしている。僕はというと、ある日、いつも通り友人4人と缶チューハイ発泡酒の空き缶の転がる部屋の中で「今日もオールで酒飲むぞぉぉ!」みたいなテンションの中、ふと、あれ?僕はこんな生活を楽しいと思ってるのか?なんて考え始めたが最後、もうその部屋に行くことはなくなった。友人達はしばらくは遊ぼうと誘ってきたが、僕がなにかと理由をつけて断っていると、誘われる回数も減っていき、今では話すことも滅多になくなった。僕は勉強も好きな方ではないので、休みの日に勉強するということもない。何か、生活に刺激が欲しいなぁ、バイトでもしてみるか、ということで今、僕はウサギをしている。

風船を配るのは思っていたよりも楽しい。特に、いろいろな子供がいるのを見るのが楽しい。自分から近寄って風船を受け取りに来る子もいれば、怖がって親に促されても近寄って来ない子もいる。そういう子は怖がっているわりにずっとこっちを見つめ続ける。手を振ると「うわぁぁ」と叫んで親にしがみつく。見ていて楽しい。僕は案外子供が好きなのだということにウサギになって初めて気が付いた。
ひとりの男の子が僕の方にずんずん近寄って来て、着ぐるみをペタペタ触っているうちに背中のファスナーの存在に気付きハッとした顔をした。笑いをこらえながら風船を渡すと、その子はなんとも言えぬ顔をしながら立ち去っていった。

冷蔵庫を開けて冷やしていた缶ビールを取り出し、ベランダへ出る。ポケットから煙草を取り出して火を点ける。風船を配るのは楽しいが、疲れる。疲れを癒すために、帰宅してからのビールと煙草は日課のようなものになっている。子供達はまさかウサギがビールを飲みながら煙草を吸うなんて思ってもいないだろう。ぼーっと煙草から立ち上る紫色の煙を眺めていると、隣の部屋の窓が開いて、ベランダに人が出てくる音がした。その後隣のベランダからカチカチと火打石を鳴らす音がして、小さな溜め息が聞こえた。
「すいません」
僕は、不意に声をかけられてビクッと身体を揺らした。
「すいません、ライター点かないんで、貸してもらえませんか?」
横を見ると、若い女が隣のベランダから少し身を乗り出して、こちらのベランダを覗き込んでいる。茶色くて肩に掛かる程度の長さの髪が風に揺れている。見た感じ、自分と同じくらいの年齢なので大学生だろう。隣に女の子が住んでいるなんて初めて知った。断る理由も特にないので、
「あぁ、はい、どうぞ。」
僕は彼女にライターを渡す。
「ありがとう、助かります。」
彼女はライターを受け取ると一旦、ベランダの中に消えた。5秒くらいして、またひょこっと顔を出して、ライターを返してきた。薄い唇には火を点けたばかりの煙草をくわえている。
「なんで僕が煙草吸ってるの分かったんですか?」
と尋ねると、彼女はきょとんとした顔をした。
「なんでって、煙草の匂いがしたからだよ。」
と答えた。なんだこいつ、タメ口を使うのが早いな。僕はビールを一口飲んで、ああ、そうなんですか、と適当に相槌を打った。
「あなた大学生?なんか死んだような顔してるけど。」
今度は女が尋ねてきた。尋ねるのは良いけれど、失礼すぎるぞ、僕のライターがなかったらお前は煙草を吸えてないんだぞ、分かってんのか。
「大学生ですよ。バイト終わりで疲れてるから死んだような顔してるんじゃないですかね。」
イライラしながら、それでもちゃんと答えるのは、この状況を少しだけ楽しく感じているからである。突然、隣のベランダから若い女の子にライターを貸してくれと頼まれることなんてそうそう無いし、ましてや、その女の子がこんなに癖のある人間であることなんてもっと無いだろう。
「へぇ、バイトか…。お疲れ様です。あたしはバイトしてないよ、しなきゃ金無いんだけどね、なんせ面倒でね、バイト何してんの?」
彼女はさほど興味のなさそうな口調で、また質問をしてきた。僕の情報を聞き出して楽しいのだろうか、いや、口調からしてべつに楽しくはないんだろうな。たまたま喫煙中に話す相手がいるから話してるだけだろう。よし、少しだけ楽しませてあげようじゃないか。
「ウサギしてます。」
僕は、少し得意げに言った。ウサギしてます。こんなに意味の分からない響きはなかなか聞くことはできないだろう。相手はどんな反応をするだろうか。彼女へ視線を向ける。
「へぇ、ウサギしてるんだ、ふぅん。楽しそうだね。」
素っ気ないものだ。彼女には冗談が通じないのだろうか。渾身の冗談がスルーされたので不貞腐れながら、言い訳の意味も含めて言う。
「ウサギって言っても、着ぐるみのウサギですけどね。遊園地で子供たちに風船を配ってるんです。」
僕が言うと、彼女はなぜかニコッと笑った。その笑顔が以外にも可愛らしくて僕は少し照れてしまう。
「いいね、幸せを配ってるみたいだね。あたしにはライターを貸してくれたし。子供たちはいつか、君のこと思い出して、幸せな気持ちになるだろうし、あたしはまた君にライターを借りるよ。あたしお金ないからライター買うのも勿体無いし。」
なんだか、またライターを貸せという圧力をひしひしと感じる発言だが、彼女のこの言葉に僕はハッとした。子供たちは、いつかウサギのことを思い出して幸せな気持ちになってくれるのだろうか。こんな煙草臭いウサギでも、子供たちに幸せを配ることができているのだろうか。なんだか泣きそうになる。
彼女の煙草はもうかなり短くなっている。
「それなら、このライター、あげるよ。」
涙をこらえながらライターを渡すと、彼女は嬉しそうな顔をしながら部屋の中に去っていった。