憂き世話

ぴいぴいと鳴く小さな生き物が、うちへやって来た。やって来たというか、風呂から上がって、火照った身体を冷やそうとミネラルウォーターを飲むために冷蔵庫の扉を開くとちょこんと座っていた。私が「うわっ」と叫ぶと、ぴい、と鳴いた。そっと手を伸ばして恐る恐る触れてみると、ふわふわとしていて、柔らかすぎるマシュマロのようだった。

私は、二階建ての古アパートの二階の一番端の部屋に住んでいる。隣には化粧の濃いおばさんが住んでいて、毎朝階段の下のところで野良猫に餌をやっている。私が家を出るのはだいたい午前8時頃なのに、おばさんは毎朝ばっちり化粧をして猫に餌をやっている。「おはようございます」と挨拶をすると、ニコニコしながら「おはようさんさん」と返してくる。毎朝、変な挨拶だなぁと思う。
 
私はふわふわの生き物の正体をおばさんが知っていないだろうかと思い、おばさんの部屋を訪ねた。がちゃりとドアが開いて、おばさんがひょこっと顔を出す。
「遅くにすみません」
ドアの間から顔を出すおばさんはこんな時間なのにまだばっちり化粧をしていた。
「いいのよ、どうしたの?」
おばさんはピンクと白のチェックのパジャマを着ている。
「昨日、冷蔵庫を開けたらふわふわの生き物がいたんですけど、あれはなんなのでしょうか?」
「あぁ、あれが出たのね」おばさんはさも当たり前のことのようにそう言って、ドアをガッと開くと、私の耳元に口紅で真っ赤に塗られた唇を近づけて囁いた。
「あれが出たってことは、あんた、ふふふ、良いわねぇ」
「良いことなんですか?」私はわけもわからず、聞き返したが、おばさんは、ふふふっと笑いながらドアをぱたっと閉めてしまった。呆気にとられて突っ立っていると自分の部屋から、ぴいぴいと大きな鳴き声がしたので、はっと我にかえり、自分の部屋へ向かった。
ドアを開けると足元にふわふわがいた。ぴい、ぴい、とこっちを見上げて鳴いている。私はふわふわをそっと手の中に包む。少しでも力を入れるとぐしゃっと潰れてしまいそうなほどに、ふわふわはふわふわしている。机の上にふわふわを置いてやろうと、ふわふわを包んでいた手を開くと、もう、すやすやと眠っていた。
こいつはいったいなんなのだろうか。冷蔵庫の中から現れたことを考えると、もしかして冷蔵庫内の卵が孵化したのだろうか?と思い付いて冷蔵庫を開け、卵の数を数えた。十個入りのパックの中から、昨日、目玉焼きに使ったひとつが消えているだけであった。卵から生まれたわけではないらしい。では、どこからやってきたのだろう?いや、もしかして冷蔵庫の妖精?などと首をひねっていると、ふわふわが急に「ぴい」と声を上げた。見てみると、ふわふわはさっきと変わらない場所で、すやすや眠っていた。寝言だったらしい。
風呂から上がって冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中には夕飯の残りのほうれん草のおひたしや、ニンジンやレタスやチョコレートや缶チューハイが雑然と詰め込まれている。ふわふわが新しく生まれていないことにほっと胸をなでおろして、ミネラルウォーターを取り出して、飲む。喉をひやりした液体が下っていく感覚が心地良い。
「私も眠ろうかな」
ベッドに入ると、今日は疲れていたのかすぐにウトウトしてきて、明日のことを考えている内に眠ってしまった。
 
なんだか喉の辺りがむずむずして目が覚めた。窓の外はまだ黒くて、月の光が部屋の中を薄く照らしている。覚めない頭で、ぼうっと部屋の中を見渡してみて、はたと気づいた。机の上で眠っていたはずのふわふわがいない。気づいた瞬間、喉に感じる違和感が、猛烈な不安感と共に再び私を襲った。
喉の中に何かいるのだ。
私は飛び跳ねるように起き上がって、洗面所へ走った。鏡に向かって口を大きく開くと、舌の上に乗る白いふわふわした尻尾が映った。尻尾より先は私の身体の中へ続いている。私はぞっとして、尻尾を指先で掴んで引っ張り出そうとした。びくともしない。もう一度、さっきより力を入れて引っ張ってみる。「ぴい」と私の首の付け根の辺りから鳴き声が聞こえた。その後、尻尾は私の親指と人差し指の間をすっと抜けて、滑り落ちるように私の中へ消えていった。同時に私の背筋をひやりとした感覚が下っていった。信じられない気持ちで、もう一度、鏡に向かって口を開いてみたが、そこにはいつもより赤くなった舌とあまり整っていない歯並びが映るだけであった。
 
そういえば、おばさんが何か知っていそうな雰囲気だったのを思い出し、次の日、眠れないまま朝を迎えた私は、おばさんの部屋の扉をノックして「相談があるのですが」と近所の喫茶店へ向かった。この喫茶店は、50歳くらいのおじさんがやっている小さな店で、珈琲が苦い。窓際に、よくわからない金髪の女の子の人形や、木でできた鴨の置物や、色々なものが統一性もなく並べられている。
私が話している最中、おばさんは終始ニコニコとしていた。いつもニコニコしているが、いつもとは違う、なんというか孫を見ている時のおばあさんのようなニコニコであった。今日も相変わらず化粧が濃い。
「あれはなんなんでしょうか?」昨日のことを思い出して、少しだけ手が震えている。
「あれはね、なんというか、私にもよくわからないのよね。でもね、私、あのアパートに二十年住んでるんだけどね、あれを食べちゃったのはあなたで四人目。」
おばさんはニコニコしながらそう言った。
「私は四人目なんですか」
「そう、四人目」そう言って、おばさんは珈琲を一口飲んだ。「苦いわねぇ」と顔をしかめる。
「ふわふわを食べてしまった人達はどうなったんですか?病院とか行かなくても大丈夫なのでしょうか?」
真剣に尋ねたのだけれど、おばさんは、あっはっはと笑った。
「病院なんて行かなくても大丈夫よ、あれはそんなに悪いもんじゃないわよ。あれを食べちゃった女達はね、みんな、一年も経たない内に良い男を見つけて、結婚して幸せになります、なんて言って、どっか行っちゃった。私も食べたいなぁと思って、ずっとあのアパートに住んでるんだけどね。」
結婚という言葉を聞いて、私は動揺していた。結婚。今の私には、縁のないはずの言葉である。でも何故だか、あ、私、結婚するのか、という確信が頭に浮かんだ。
「私のところにも出てこないかしら」
おばさんは、窓の外を眺めながら小さな声で呟いた。
 
ふわふわは私の中のどこにいるのだろうか。ふわふわを食べる前と食べた後とで私の体調は特に変わることもなく、私はいつも通りの生活を送った。
二ヶ月後、私はある人とお付き合いを始め、その半年後にはプロポーズをされ、そして結婚することが決まった。おばさんの言っていたことは本当だった。私には兄も弟もいて、相手はひとりっ子だったこともあり、私は相手の家へ嫁ぐことになった。私は、おばさんにこのことを報告しようと思い、おばさんの部屋を訪れた。がちゃりとドアを開けておばさんがひょこっと顔を出す。
「おばさん、おばさんが言っていた通り、私、結婚することになりました。幸せになります。」
おばさんは慣れた様子で「あら、おめでとう。お幸せにね、また遊びに来てね」と言った。おばさんの化粧は相変わらず濃かった。
 
いよいよ彼の家へ嫁ぐ日が来た。私は彼の車の助手席で、これから始まる生活について想いを巡らせていた。お義母さんと円満に過ごせたら良いなぁ、お義父さんは少し頑固そうな人だけどうまくやっていけるかなぁ、そんなことを考えている内に眠くなって、眠ってしまった。
 
大きな音がしたような気がして目が覚めた。なにやら様子がおかしい。辺りは真っ暗で、何も見えない。それになんだか、寒い。
彼は?
彼のいるはずの方向へ手を伸ばすと何か硬いものに触れた。なんだろう。少なくとも彼でないことは分かった。人間にしては硬すぎるし、冷たいのだ。きっとこれは、生き物ではない。
彼はどこに行ったのだろう。というか、ここはどこなのだろう。何が起きたんだろう。彼はどこに行ったのだろう。怖くて、不安で、私は彼の名前を叫ぼうとした。
そのとき、ぴい、と自分の中から鳴き声が、聞こえた。