海辺を想う

あの日の海を思い出してみる。 死んでも構わないと思いながら歩いていると、海に来ていたのだった。砂が足に纏わりつく鬱陶しさすらどうでも良く、ただ生きる事の不遇さや理不尽さをアルコールで溶かしながら歩いていた。波の音が思っていたよりも優しかったのが印象に残っている。死ねないなあ、と思った。親のため、友人のため、そんなことは正直どうでも良かったのだが、祖母の顔だけが脳裏に浮かんで死に向かう自分を温かく見つめてくれていたような気がする。

 

両親は共働きで家に帰ってくるのが遅く、幼い頃から祖母との時間の中で育ってきた。お袋の味、という言葉があるが、それも祖母が作った料理のことを指すような、そんな生活をしてきたのだ。祖父が亡くなってから、祖母は生きる活力を失っていったように思える。歳のせいもあり、身体が動かなくなってきている。同じ話を何度も繰り返すようにもなった。長年一緒にいても、食べ物の好き嫌いをなかなか覚えてもらえないのは、たぶん、歳は関係なく、そういう性格だというだけである。大学に合格した時に、泣いて喜んでくれたのも祖母だけだった。ホームページに自分の番号が載っているのを見て、ふたり、泣きながら抱き合ったのを覚えている。

 

祖母が悲しむのだろうな、と考えると生きていなければいけないと思ってしまう。幸せに生きる姿を見せなければいけない。幸せに生きていなくても、祖母が自分を見て幸せに生きているのだな、と感じてくれさえすればそれで良い。幸せなんて分からないので、幸せなふりをして生きていければ良い。祖母が死んでしまうまで、そうやって生きていければ良い。だから、今は実家に帰れない。こんな顔で祖母に会うわけにはいかないのだ。 生きることに希望を求めてはいけない。というか、そんなものはきっとどこにも無い。絶望も同じ。ここには何も無い。無いものばかりを求めて、手に入るものは一体何なのだろうか。ひとつ、確かなのは生まれてしまったということで、まだ死ぬ時ではないということだ。