憂き世話

誰かが自分の名前を呼んだような気がして振り返ると、クラスで一番可愛いと言われている女子と目が合った。僕は2秒ほど彼女を見つめていたが、目が合った途端に彼女の眉間にはその端正な顔に似合わぬ、深々とした皺が生み出された。自分のことを不審に思っているのがその表情に現れている。彼女が自分の名を呼んだのではないことは明白であった。


僕は目を逸らして黒板に向き直る。白いチョークで文豪の文章を黒板にでかでかと書き写す国語教師は、白髪と黒髪の混じった頭を手の動きと連動させるようにして揺らしている。


いったい誰が僕の名を呼んだのか。周りを見渡してみても、皆、黒板に目を向けているか、机に顔を沈めて眠っているかのどちらかで、この中に僕の名を呼ぶ理由をもった人間がいるとは思えなかった。それは当然のことでもあるように思える。僕の名を呼んで何の意味があるのだろうか。僕はいじめられているわけでもなく、クラスの中心で騒ぐほどの気概もない。強い人間が弱い人間に、理不尽な敵意を向けるのをただ傍観して、日々を過ごしている。強い人間は、強い。誰もが彼らを見上げているように思える。裏で文句を言う奴もいるが、当人を目の前にすると、にこにこと笑みを浮かべている。弱い人間は教室の隅に影を潜め、1日が平穏の内に終わっていくことを望んでいる。ただし、その心の中には平穏なんかではなくて、平穏のふりをした不安や恐怖が巣食っている。僕は強い人間でも弱い人間でもない。ただ、ここにいるだけの人間だ。誰からも見られることはない。弱い人間は、見られることで弱い人間として生きていくことができるが、僕は誰にも見られない。筆箱の中のペンのようなもので、普段は気にもかけず入れっぱなしにしているくせに、無くなった時だけ少し気にかけて探してみるのだ。探して見つからなかったら、まぁいいか、なんて新しいペンを買って、僕は忘れられてしまう。無くなったことにすら気づかれない場合もある。そんな存在。


「修治」


教師の体の向こう、白い文字で埋め尽くされた黒板の中ほどに僕の名前が書かれていた。あぁ、そうか。この教室には僕の名前を呼ぶ人間なんて一人もいない。