憂き世話

美咲先生は大学生で、毎週火曜と木曜に僕の家へやって来て国語を教えてくれる。僕は文章を読むのが嫌いで、小説ならまだ少しは楽しいと思えるのだけれど、評論なんて何が楽しいのか分からないし、細かな字が整然と並んでいる様を眺めているとなんだか頭の中がふわふわして、読んでも読んでも、内容が頭に入ってこない。勉強は嫌いだ。なんのために自分がこんなことをしているのか、そう考えると馬鹿らしくなって、そして眠くなってしまう。


美咲先生は本を読むのが昔から好きだったと言っていた。僕には理解できない。本なんて読まなくたって生きていけるし、楽しいことなんて本を読む以外にも沢山あるのに、なんでわざわざ長い時間を消費して本を読むだろうか。
本を読むのが好きな美咲先生は、国語教員を目指していて、大学では文学部に所属しているらしい。
「本って、自分の知らない世界を見せてくれるのよ」
美咲先生はそう言った。自分の知らない世界は、知らないままでも良いと僕は思った。知ってしまえば、それはもう知らない世界ではなくて知識の一部になってしまうだけで、知らなかったことすらそのうち忘れてしまって、そんなことになんの意味があるのだろう。単に賢くなりたいのだろうか。知識豊富な自分に恍惚としたいのだろうか。

それでも先生が熱心に僕の勉強を世話してくれるので、少しずつだけれど、僕は文章を読むことができるようになっている。この前の期末テストでは、前回のテストよりも良い点が取れた。もちろん嬉しかった。だけど文章を読むのはやはり楽しいことではない。

 

美咲先生の耳にはピアスの穴が空いている。先生が僕の家に初めて来た時には空いていなかった。先生の耳にピアスが光っているのに僕が気づいた日、先生は少し悲しそうな顔をしていた。


「先生、ピアス空けたんだね」


もの珍しそうに僕が言うと


「空けちゃったの」


と先生は言った。その顔はやはり少し悲しそうに見えた。


「痛くなかった?」


「痛かった。すごく」


先生が悲しそうな顔をしているのは、きっとピアスの穴がまだ痛むからなのだろうと、僕は勝手に思った。痛いと悲しいよね、そんな風に思った。
しばらくして、先生のピアスがまた増えた。それまで耳朶に一つだけだったピアスが、今度は耳朶より少し上の軟骨と耳朶の境になっているあたりにもう一つ増えた。

「痛いのにまた空けたんだね」


僕は不思議に思った。痛いことなんてしたくないし、ましてやそれを自分から行うなんて僕には考えられない。自分の身体に穴を開けるなんて、怖い。


「痛いからまた空けたの」


先生はそう言った。そこで僕はまた先生が悲しそうな顔をしていることに気づいた。


「痛いのが好きなの? 先生泣きそうな顔してるけど痛いの嫌なんだったら空けない方が良いんじゃないの?」


先生はもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「痛いから、また空けたの」

 

僕はいじめられるようになった。国語の成績が伸びたからだ。親は喜んでくれる。先生も喜んでくれる。だけど、同級生たちは気に食わなかったようだった。いままでろくに勉強もできなかった僕が急に成績を伸ばすものだから、みんな悔しかったんだろう。そんなことでいじめは始まるのだ。馬鹿みたいだと思う。でも僕が彼らを馬鹿にしたところで良い方向には向かわないのだろう。いじめってそんなものだ。

最初はなんてことなかった。無視されたり、机に落書きされたり、それくらいのことが続くくらいのことならいくらでも我慢できた。でも、机の中に虫の死骸が入れられたり、上靴がゴミ箱に投げ捨てられていたりしたあたりから僕は我慢できなくなっていった。何をしていても頭はぼーっとしているし、身体は重くて、ゾンビになったような気がしていた。

家に帰って部屋でひとり勉強していると、机の上のペン立てにカッターナイフが刺さっているのが目に付いたので、僕はそれを使って腕を切ってみた。リストカットって話には聞いたことあったのだけれど、まさか自分がそんなことするなんて思ってもいなかったのに、腕を切った。自分のものでないような気がしていた身体が自分の元へ戻ってきたような感覚だった。傷口から血が溢れて、血の雫が腕をつーっと伝って机に落ちた。なぜか美咲先生のことを思い出した。悲しそうな顔。僕はいまどんな顔をしているのだろうか。

 

僕が腕を切った次の日、美咲先生が国語を教えにやって来た。 先生の耳にはピアスが全部で四つ光っている。


「痛いから空けるんだね」


僕が呟くと、先生は少しだけ僕の顔を見つめた後、


「痛いから空けるの」


と言って、問題集を開いた。