湿気

ジメジメとしたこの土地の性質が、土地に生きる人々の性質を侵し、人々の心象も土地と同じく湿り気の強い腐葉土のような不快な柔らかさを携え始めたのはいつのことなのだろうか。


 

彼が生まれた土地は、山と山に挟まれた谷であった。集落の中心を流れる川の水は緑色をしている。流れは激しく、水流が水底を削り滑る音がひっきりなしに集落に響いている。
彼は幼い頃から孤独を感じていた。過疎化の進む集落には子どもは彼を含めて数えるほどしかおらず、道を歩けば皺の寄った老人たちが畑を闊歩する姿ばかりが目についた。
彼は、集落の子どもたちの中で一番歳が下だった。誰もが彼を可愛がったし、遊びの仲間に入れてくれたが、彼はいつもどこか上の空で、楽しさと同じほどに重くのしかかる寂しさとどのように付き合っていくべきなのか思案していた。遊びの誘いを断ることも多かった。自分から寂しさを深めることを選択したのだった。楽しさはたしかに捨てるには勿体無く感じたが、しかし、寂しさを内包する楽しさを希求することを好きにはなれなかった。どうせならばもっと寂しさに溺れてみたいと、何故だかそう考えた。


彼はひとりで散歩をするのを好んだ。長い階段を上がり、社の縁の下に蟻地獄の巣を探すのが好きだった。地面にすり鉢型に空いた穴を探し、掘り起こす。すると、すり鉢の中心、穴の底に他のどの生物にも似つかない生物を見つけることができる。二本の角、三角形の身体。触るとそれはぶよぶよと柔らかく、力を入れると潰れてしまいそうだった。恐々とつまみ上げ、手のひらの上に乗せると、ぴくりぴくりと身体を痙攣させるように動かして後退しようとする。この虫は穴を掘る際、尻の方から身体を地面に食い込ませていく。手のひらは地面ではないので、いつまでも穴を掘ろうとする虫の動きに抵抗し続ける。彼はそれを眺め、こいつらは前には進めないのだな、そう思った。

 

蛙の皮を剥ぐ、という残酷な遊びをしたことがある。アマガエルではなくツチガエルの皮を剥いだ。水田の横を流れる細い用水路には、多くのツチガエルが跳ねている。一匹捕まえる。何処からか見つけてきた木の枝を、ツチガエルの口に差し込む。ツチガエルは苦しそうに両腕をばたつかせる。木の枝を蛙の中心にぐっと押し込み、固定する。ツチガエルはまだ死なない。適当な小石を拾い、ごつごつとしたそれを蛙の身体に突き立てる。赤い血。茶色い皮の内側には、桃色の肉。ツチガエルの伸び切った後脚が痙攣を始める。脚全体、膝から先、足首から先、そして指先、というように震えの範囲は小さくなり、やがて終息していく。最後に枝から蛙を引き抜いて、水路へと戻す。何度も捕まえては皮を剥ぐことを繰り返した。数匹に一匹は、皮を剥いで痙攣が終わり、水路へと戻そうとした時に、突然、ぴょこりと跳ねた。死んだと思っていた蛙が跳ねるのであった。血液を滲ませた桃色の蛙は此の世の生き物ではなく、地獄を体現していた。この地獄を創ったのは自分で、そして自分を創ったのはこの土地で、そこに巣食う人間たちで、ここは地獄なのだ。

 

彼は度々同じ夢を見た。
彼の家を出て、すぐ右手に青い欄干の橋がある。夢の中で彼は欄干の上に立って、眼下に流れる水流を見下ろしている。街灯の少ない集落は闇に包まれていて、橋の下には黒い水が流れているように見える。数十メートル先に光る街灯の明かりが視界の端で揺れる。耳に入る音は、木の葉が風に擦れる音と水流の音、そして自分の呼吸音だけだった。夜の冷気が舌の上を滑り、喉元を下る。肺まで到達したそれは身体の何処かへ流れていく。体温を纏った生ぬるい不快な感触と共に吐き出されるものは、夜の闇そのもののようだった。
不意に、足元から感覚が消える。
落下する身体をどうすることも出来ずに、彼は手を伸ばし欄干に掴まろうとする。届かない。落ちていく。
川面は黒く、何処からか飛んできた光をチラチラと揺らすように反射させる。
見上げると橋の上に誰かが立っている。闇を背負って立つその姿が誰のものなのか判断出来ない。その顔は闇に溶け、闇よりも深い黒色の影となった身体を彼の視界に映す。闇より深い黒色。そんなものが存在して良いのだろうか、彼は考える。考えている間も落下は続く。水面に触れる瞬間、一瞬、眩しさを感じる。
目を開くとそこは、ベッドの上で、カーテンの隙間から朝日が細く室内へ侵入しているのが見える。
彼はいつも、同じところで目を醒ます。眩しさの正体も、闇より深い黒色の正体も、彼はいつまでも知ることができない。

 

畦道を歩いていると、ひとりの男が向こうから歩いてくるのが見えた。この集落の住民だ。何度も見たことのある顔。短髪の白髪頭に、二日前に剃ったような中途半端な長さの髭、皺の寄った目尻にそぐわない大きな目。正確な年齢は知らないが、六十代後半位ではないだろうか。ちらりちらりとこちらを見たり見なかったりしながら歩いてくる。明らかにこちらを気にしている。目を合わせようとすると慌てて反らす。
仕方なく挨拶をしようと口を開きかけたところで、向こうが先に声を発した。


「おい、ありゃあ、お前の車か?」


男の人さし指が指す方に目を向けると、田圃がひとつ、ふたつ、みっつ、その向こうの畦道に白い軽自動車が停まっていた。


「いや、違います」


そう言うと男は、返事もせずに歩き去った。
男の声には不信感と怒りのようなものが含まれていた。男は蔑むようにこちらを見ていた。
理由はすぐに分かった。男は他所者が自分の土地を歩き回っていると勘違いしたのだろう。それが気に食わなかったのだろう。自分が生まれ育った神聖な場所を踏み荒らして欲しくないのだろう。
ただ、男は勘違いしていた。僕はこの土地の人間だ。何度も顔を合わせたことがあるはずなのに、なぜ分からない?
自分の土地に十数年間生きていた人間を、男は他所者のように扱った。何の疑いも持たず、他所者だと判断し、他所者のように扱った。男にとってのこの土地は、男の自意識の中にある。自分がこの土地の人間だという誇りは、自分がこの土地を支配しているかのような錯覚へといつの間にか変貌し、それが男の自意識となる。自分の意識外のものは、この土地のものではないと思い込んでいる。しかし、この土地は男がいてもいなくてもこの土地のまま在り続けるだろう。土地において、男の自意識は、羽虫のはばたきと何ら変わらない。
しかし、紛れもなく男はこの土地の生き物で、僕もそれは同じである。

 

それが猫の死骸だと気付くまでに数秒かかった。無数の蛆が、猫だった物の表面を波打つように蠢いている。嫌な臭いがする。死を餌にして生き延びる生物のグロテスクな生。蛆の波に時折、亀裂が走る。亀裂の中に赤黒い肉と、その赤黒さと不釣り合いな白色をした骨がちらりと覗く。知らぬ間に繰り返される生と死。土地は血を吸ってぶくぶくと太っていく。生き物と物体の境目に、蛆が湧く。蛆はそのうちに蝿となって、飛び去るのだろう。猫の白く濁った瞳が、何処か遠くを見つめ続けていた。

 

十一月の空は灰色をしていることが多い。


彼は、考える。自分の居場所は何処にあるのか。


もうじき雪が降り積もって、集落を白く染める。春はまだ先のようで、しかし、すぐに訪れるだろう。


空き家の荒れ果てた庭。叢と化した田圃。畑には無数の山の動物の足跡。喪服を身に纏った人々の行列。イタチの糞。崩れた物置小屋。


彼は、考える。
生きるということは、死ぬということとどう異なるのか。