長袖

 高校へ続く道は桜並木になっていて、春になると花は鮮やかに咲き乱れ、そして一週間ほどで散っていく。落ちた花弁が道路の端の方へと追いやられて茶色く腐っていく間に、木々は生命力が透けて見えるほどに濃い緑色をした葉を育て、自らが落とした花弁のことなど忘れてしまう。人々も、花がまだ目線の上で輝いていた時には、あれほど綺麗だ綺麗だ、と騒いでおきながら一旦それが地面に落下してしまうと、とたんに興味を無くし、平然と踏みつける。
 今日から高校へ通い始めた若々しい生徒たちは新緑の葉をつけた木々のようで気味が悪い。中学を卒業する際に感じたであろう寂しさや虚しさ、新しい日々が始まる事への不安、そんなものはとうに忘れてしまい、高校という新しい居場所で新しい人々と新しい関係を築いていくことへの期待しか彼らの表情からは読み取ることができなかった。自分もその中の一人として見られてしまうのだ、ということが嫌で嫌で仕方ない。
 僕の席は窓側の後ろから三番目だった。斜め右前の席の男子は背が高く、僕の視界から、黒板のおよそ三分の一を隠してしまい、担任が何やら書いていたがなかなか見ることができなかった。
「とりあえず今は先生が君たちの名前を憶えやすいように出席番号で席を決めてあるけど、また一週間くらいしたら席替えをしますね」
    担任が言ったので、少し安心する。黒板を見ようとしても、目の前の背の高い刈上げ頭しか目に入らない生活も一週間くらいなら我慢できるだろう。
 自己紹介のとき、僕の印象に一番残ったのが美弥だった。長い髪を後ろで一つに括っていて、毛先が少しだけ茶色く痛んでいた。スカートから伸びる脚は透明といっても良いほどに白かった。美弥が立ち上がった瞬間に、この人は他の人とは違うと反射的に思った。何が違うのか、そんなことは分らなかったが、確かに違うのだという確信は頭の中に煙のように立ち昇り、僕はその煙を吸い込んで酸欠を起こしそうになったのだ。それに美弥の言葉は、他のクラスメイトのものとは比べ物にならないくらいに馬鹿らしくて、最高に浮いていた。だから、この人はやっぱり他の人とは違うのだと確信した。
「はじめまして。西沢美弥といいます。みんな出身地のことしか言わなくて面白くないので少し違う話をします。みなさん、蛙は好きですか? 私は昔から蛙が好きで、昔は捕まえて飼ってみたり、田んぼから卵を採って来て孵化させたりしました。シュレーゲルアオガエルが特に好きです。シュレーゲルアオガエルは泡状の卵を産みます。蛙の卵って、どろどろしたゼリー状のイメージがあるかもしれませんが、全部が全部そういうものってわけじゃないんです。人間だってそうなんじゃないかな、と思います。あなたも私も違う人間であって、みなさんが持っている「人間」というイメージなんて本当は当てにならないんじゃないか、って思います。イメージに凝り固まらない学校生活を送りましょう。よろしくお願いします」
 
 美弥は夏になっても長袖のカッターシャツを着ていた。周りに半袖の生徒が増え始めて、教室内の生徒全員が半袖のカッターシャツを着るようになっても、美弥だけは長袖を捲ることもせずに着続けていた。
「美弥ちゃん、ずっと長袖着てるけど暑くないの? 体育のときも一人だけジャージ着てるよね。もう夏なんだし、半袖着ないと熱中症で倒れちゃうよ?」
 ある日の昼休憩、ひとりの女子が美弥に言った。生徒たちは二人や三人の小さなグループに分かれて机を付き合わせ、それぞれ楽しそうに弁当を食べている。美弥も佐伯と水沢という女の子ふたりと机を合わせて楽しそうに昼食を摂っていた。美弥に「長袖暑くないの?」と訊いたのは、水沢だった。水沢は明るくて愛嬌のある女の子で、クラスの男子の話題にもよくのぼるような子だ。肩に触れるか触れないかという長さの髪の毛をいつも後ろで一つに結んでいる。
「暑いけど、長袖って可愛いと思うの」
 美弥は水沢にそう答えていた。僕は少し離れたところで友人と弁当を食べながら、その様子をなんとなく眺めていた。
「半袖も可愛いよ? 暑いのに辛くないの?」
水沢が問い詰めるように美弥に訊ねる。美弥は少し困ったような表情を浮かべて、水沢と目を合わせないように弁当箱の中身をつついている。その様子から僕は、ああ、彼女が長袖を着ているのには何らかの事情があるのだな、と判断したが、水沢は何が彼女をそこまでさせるのか、美弥の表情にも気づかず、執拗に「なんで? 暑いのに」と美弥に詰め寄る。美弥は「うーん」とか「べつに理由はないよ」とか簡単な言葉でその場を収めようとするのだが、水沢ははっきりとした答えが聞けずに納得がいかない様子で、美弥に「半袖着なよ」と言い続けている。佐伯が一人何もしゃべらずにこにこと二人の会話に自然に溶け込んでいて、僕はその技術はかなり高等なものなのではないかと考える。空気の読めない女子と、その空気の読めない女子に問い詰められ身動きが取れなくなっている女子の間で、あんな風に自分を隠しながらもそこにしっかり所属している。僕にはできない。
 そうこうしているうちに美弥の表情から困惑が消えたのを僕は見た。すっ、と一瞬のうちに消えたのだった。それまでの困った表情が、一瞬にして何の感情も持っていないかのような無表情へと変貌し、弁当箱の中ばかり見つめていた目が水沢の二重の大きな目に向けられた。
「別にいいじゃない」
 美弥の口調はそれまでのものとは別人のように鋭かった。
「私が長袖を着てることであなたに迷惑はかからないし、私に半袖を着ることを強制する権利はあなたにはないでしょう? 長袖が着たいから長袖を着ることの何が悪いの?」
 水沢の顔面が、まるで硬い岩になったかのように固まる。恐怖と驚きと戸惑いが混ざり合って、水沢の顔面をぶわぁっ、と覆い尽くす。しかし、それはほんの数秒のことで、水沢の顔には怒りの色がふつふつと滲み出てくる。赤い。
「強制しようなんて思ってないし、私はただ暑くないのかなって心配してるだけじゃん。なんでそこまで言われなきゃいけないの? なに? ほんとはあんた、半袖が着れないわけでもあるんじゃないの?」
 水沢がさっきよりも少し大きな声で叫ぶように美弥に言葉を投げた。周りに聞こえるように大きな声を出したようにも見えた。猫が威嚇しているみたいだと僕は思う。佐伯が、ついさっきまで隣で微笑んでふたりの会話を聞いていたのが嘘のように身体をこわばらせていた。
「あるよ」
 美弥の言葉に水沢はまた一瞬だけ岩になる。岩になった後で、
「なによ、その長袖が着れないわけって」と美弥をまた威嚇する。威嚇するが、数秒前ほどの勢いはない。美弥が怠そうに口を開く。
「私、腕を切ってるから、その傷を見せないようにしてるんだよ。傷を見せたらみんなどうせうるさくするでしょ? 腕に切り傷がある女がいるって噂するでしょ? あいつはメンヘラだから気を付けろとか、あいつは精神病だとか、そんな風に。べつに良いんだけど、面倒くさいじゃない。私が面倒なだけじゃなくて、みんながそんなことに捉われてしまうのって相当面倒くさくて無駄なことだと思うのね。だから隠してる。それだけ」
 教室内の空気がざわざわと揺れる。「まじ?」「やばくない?」そんな言葉たちが誰に聞かれるでもなく空中に漂って消えていく。水沢が美弥の袖口に手を伸ばして、小さなボタンを外し、袖を捲りあげた。美弥は特に抵抗することもなくそれを受け入れる。
美弥の腕には無数の傷跡があった。黒く伸びる線が何本も並び、交差して、腕の表面を埋め尽くしていた。まだ赤いものもあった。
水沢は自分でそれを露わにさせたにもかかわらず、ひっと喉から声を漏らして目を反らす。教室内に漂う音が大きく空気を揺らし始める。僕は美弥の腕から目を反らすことができなかった。ようやく美弥の腕から僕の目玉が逃げ出すことができそうな気がしたので、一度目を閉じてみる。その後、いつもの倍、瞼に力を入れて目を開く。
 美弥と目が合った、ような気がした。美弥は表情のない顔で小さく唇を動かし、何かを呟いて教室から出ていった。僕はその後ろ姿を目で追うことしかできなかった。僕の心臓はいつもよりも激しく血を吐き出していた。
 
  中学一年の頃から乗り続けている自転車のかごはぐらぐらと安定しない。僕は毎日時間割に沿った教科書を持ってきて、そして持って帰るので鞄はいつも膨らんでいて重く、かごの中にそれを投げ込むと自転車のかごはさらに安定感を失い、金属でできているはずなのにふにゃふにゃと揺れる。教科書なんて学校に置いとけばいいのに律儀だね、と友人には言われるのだが、朝起きて学校に行くための支度をしているときに手元にその日使う教科書がないと安心できないので僕は教科書を置いて帰ることができない。目の見えるところにあるべきものがないと安心できないこの性格は、昔からのものだった。
 幼い頃のある朝、母親が珍しく泊りがけの出張だったために家にいなかったことがある。僕は母親の不在が無性に不安になって大きな声で泣いた。父が「母さん、今日の夜には帰って来るよ」といつまでも泣き止まない僕を慰めようとしたが、無駄だった。その日は父が幼稚園まで送ってくれたがその間も僕は泣き続けた。幼稚園でもずっと泣いていたらしいがよく覚えていない。夜になって母が帰宅した途端に僕は泣き止み、一日中泣いていたのが嘘のように笑っていたと父が言っていた。目を覚ませばそこにいて当然と思っていた母がいないということが幼い僕を不安にさせ、混乱させた。あるべきものが目に見える場所にないという事態は、僕にとって、あの母の不在と同じほどの不安を感じさせるのだ。もちろん、高校生になった今では母の不在などなんということもないのだが、あの日に感じた不安は僕の中にまだうっすらと靄のように残っている。
「あ、洲上くんだ」
 ふと背後から声を掛けられたので振り返ると、そこには美弥が立っていた。昼間教室を出ていってから、美弥は戻ってこなかったのでもう家に帰ってしまったのだと思っていたが、まだ学校にいたらしい。落ち着いていた心臓がまた、少しずつ勢いを増して脈打つのを感じる。鼓動を美弥に悟られないように、僕はなんでもないふりをして口を開く。目を合わせることはできなくて、うつむき、自分の足元、去年から毎日履き続けて薄汚れたスニーカーを見てしまう。
「帰ったのかと思ってた」
「ううん、ずっと屋上にいたの。面倒くさいことになったから、ちょっと落ち着こうと思って空を見ながら寝転がってた。空ってすごいんだよ。形が変わってくの。一瞬たりとも同じ形をしている瞬間なんてないんだよ。知ってたけど、改めて眺めてみて感動したな。曇ってるから雲ばかりだったけど、楽しかった」
 美弥の声は小鳥のさえずりのようだと僕は思う。美弥はあまり大きな声を出さない。誰と話すときも相手に聞こえるぎりぎりの大きさの声で話している。声質は柔らかく、少し鼻の詰まったような喋り方だ。声と喋り方と音量のバランスが良い。
「屋上に上がる扉って、鍵がかかって入れないようになってなかったっけ?」
「ああ、あれね、実は鍵が壊れてて開けることができるんだ。ちょっとコツがいるんだけどね」
「まじか、知らなかった」
「たぶん知ってるの私だけじゃないかな? 今まで屋上で誰にも会ったことないし、私以外が出入りしてる話も聞いたことないからなあ。開けかた、教えてあげようか?」
 僕の前を美弥が歩いている。階段を一段、また一段と踏みしめる美弥の足は驚くほどに白く、紺色のはずのスカートが真っ黒に見えた。
 校舎は三階建てで、東棟と西棟のふたつからなっている。僕たち一年の教室があるのは東棟の三階だ。二年生が二階、三年生が三階と学年が上がるにつれて教室は下の階へと下がっていく。三年生は忙しいから玄関から近い方が良いのだ、だから一階に教室を設けられているのだ、と毎朝三階まで階段を上がるのがしんどいと不満を言った生徒に担任が言っていた。「今の三年生も一年生の時は同じ思いをしていたんだから我慢しろ」そんな風にも言っていた。
 三階が最上階なのだが、階段は三階よりも上へと伸びていて、その階段の先に屋上への扉がある。美弥は右手でドアノブを握ると「見ててね」と、左手で前髪を留めていたヘアピンを外してカギ穴に差し込み、上下に数回動かした後、ドアノブを左右にガチャガチャと揺らし、思い切り左に捻った。がちり、と鈍い金属音がした。
「よし、開いたよ。扉開けてみなよ」
 美弥に言われ、ドアノブを回すと扉が開き、開けた空間が視界に飛び込んできた。
「ほんとに開いた。すごいね、初めて屋上に来た」
「すごいでしょ、秘密の場所なんだよ」
 美弥が得意げに鼻を鳴らし、扉の先へと歩いていく。僕もそれに続いて屋上へと足を踏み出した。なるほどここからなら空がよく見える。空と自分との間を遮るものは何もなく、こんなに広い空を見たのは初めてのことだった。例えば校庭のような広い場所でも空は大きく見えるが、視界の端にはどうしても建物や木や電線が映ってしまう。純粋な空というのはこんなにも広大なものであったのか、と僕は少し驚いた。
「憂鬱な時にはね、ここに来てぼーっとするんだ。誰もいなくて落ち着くの」
 フェンスにもたれ掛るようにして立つ美弥の横に歩いていき隣に並ぶ。緑色のフェンスはところどころ塗装が剥がれ、剥がれた部分は金属が空気に侵されたかのように錆びている。見下ろすと下校中の生徒が数人ぱらぱらと歩いていた。
「洲上くんさ」
 名前を呼ばれて横を見ると美弥も地上に目を向けて、下校中の生徒を眺めているようだった。
「お昼に教室で私と水沢ちゃんが言い合ってるの見てたでしょう。私が腕を出した時、出したっていうか出されたんだけどね、あの時、みんな面白そうにこっちを見てたの。見ちゃいけないものを見るような目で。興味と軽蔑と恐怖とが入り混じったような色をした沢山の目玉が私のこと見てた。私ね、人間のそういうところが嫌いなんだけど、洲上くんだけは違う目をしてた。洲上くんの目には興味も軽蔑も恐怖も、そんなものどこにも映ってなかった。あ、って、洲上くん、人間にあまり興味ないのかなって思ったの」
 僕は少し考える。人間に興味がないというのは正しくないな、と思う。人間に興味がないわけではない。優しくしてもらうと嬉しいし、嫌われると辛い。誰かに好かれたいとも思う。ただ、僕はあの時、あの教室の空気に辟易としたのも事実で、悪趣味だなと思いながら周りの声を聞くともなしに聞いていた。美弥が言うようにそこに軽蔑の感情など欠片もなく、ただ馬鹿らしいと思っただけであった。そこまで考えて「面倒くさい」と美弥が言っていたのを思い出した。
「人間に興味がないのかどうかは自分でもよくわかんないけど、面倒くさいとは思うね」
 そう僕が答えると、美弥は「だよね、面倒くさい」と顔をしかめた。
「ねぇ、私の傷見てどう思った?」
 耳の中で血液を運ぶ音が響き始める。今日は心臓がうるさい。僕は美弥の腕を見てどう思ったのだろうか。思い出してみる。彼女の皮膚の上を走る無数の傷。
「綺麗だと思った」
 美弥はふふっと小さく笑った。綺麗か、と呟いた。なんだか、いたたまれなくなって「なんで腕を切るの?」僕は、それをごまかすために訊ねてみる。訊ねてみたは良いけれど、これは訊ねても良いことだったのか、訊ねた後に気づく。でも、美弥は特に気にする様子もなく答えてくれる。
「始めて切ったのは中学一年のときで、ただカッターナイフがお父さんの机の上に置いてあるのをたまたま見つけたから、なんとなく切ってみよう、って思ったの。切ってみたら痛くて、うわあもうこんなこと絶対しないよ、って思ったのに、何日か経って、気づいたらまた切ってた。なんていうか、人間ってご飯食べるでしょ? 一日三回食べる。そんな感じなの。回数なんて決まってないけど、切らなきゃって思ったときに切るの。ご飯食べなきゃ死んじゃうみたいに、切らなきゃ死んじゃうのかもね、私って」
切らなきゃ死んじゃう。そんなこと、あるわけがない。あるわけがないけれど、でも、美弥はもしかしたら、切らなきゃ死んじゃうのかもしれない。それを信じさせる何かが美弥にはある。
僕は腕を切る人は、往々にして死にたがっているのだと思っていた。そういう人たちは、生きることに絶望している人としか見ることができていなかった。この子は生きるために自分を切っている。あるわけない理屈を、傷として目に見える形に変えて、それを信じて、そうやって生きているのだ。だから、それはあるわけなくても、ちゃんとあるのだ。切らなきゃ死んじゃう、は本当なのだ。
「触ってもいい?」
 美弥がこちらを向く。少し驚いているようだった。
「いいよ。触って」
 美弥が右手で左の袖口のボタンを外し、腕を出す。僕は傷をひとつひとつなぞっていく。
 遠くで十七時を知らせるチャイムが鳴るまで、それを続けた。
「五時だ」僕がチャイムに気づいて呟くと、美弥はフェンスから離れ、扉の方へと歩き出しながら
「付き合ってくれてありがとうね。洲上くんとはなんだか仲良くなれそうな気がするよ」
 またね、と手を振って美弥は階段を下っていった。
 
ふにゃふにゃと、かごを揺らしながら自転車を漕ぐ。指先にはまだ美弥の感触が残っている。空を見上げてみる。視界の両脇をアパートや住宅に遮られて空はさっきの半分ほどの大きさに見える。自分の住んでいる世界は狭いな、そう感じた。