憂き世話

夕立に降られた。

傘を持っていなかったので、服も鞄も靴も、びしょ濡れだ。あぁ、こんなに濡れてしまったら今更急いで走ったところで意味ないなぁ、と思い、不貞腐れながらゆっくりゆっくり歩いて帰ったら、身体が冷えてしまった。寒い。

 

帰宅して、すぐに服を脱いで洗濯機に投げ入れる。浴槽にお湯を溜めたいところだけれど、こんなに冷えた身体で、しかも裸のままで、お湯が溜まるのを何分も待ってはいられないので、とりあえずシャワーを浴びることにする。温度を少し高めに設定し、蛇口をひねる。

「あつっ」

冷えた身体には、温度設定高めのお湯は熱すぎて声が出てしまう。でも、すぐに温度に慣れる。気持ち良い。ゆっくりと身体が温まっていく。

 

お湯って偉大だなぁ。同じ水なのに、雨はとても冷たかった。夕立に降られてびしょ濡れの身体は冷たかったのに、シャワーのお湯に降られてびしょ濡れの身体は温まっていく。

そんなことを考えていて、ふと、人間もそんな感じなのかもしれないな、と思う。例えば、知り合いの双子の聡くんと隆くん。私は、聡くんは苦手だけど、隆くんは好きだ。聡くんは言葉がきついし、何より人を馬鹿にする態度が許せない。一方で隆くんは、いつでも朗らかで、誰にでもよく気を遣っていてすごい。見た目は似ていても、冷たい人と温かい人がいるのだ。きっと、そうだ。

 

そういえば、人間の六割は水だという。やっぱり、水と人間って同じようなものなんだ。そんな風に一人で納得して、シャワーのお湯を浴び続けていると、なんだか、身体がお湯に溶けていっているような気がし始める。

足元に排水口が見える。抜けた髪の毛が集まっていて、汚い。自分の一部だったものなのに、なんでこんなに汚く見えるのだろうか。

私は、冷たい人なのか、温かい人なのか、どちらなのだろう。自分では分からない。でもどちらでも良い気もする。だって私の六割は水で、威張っている人も偉ぶっている人も六割は水で、みんな似たようなものなのだ。それに、冷たい水も温まればお湯になる。それはきっと、誰でも、冷たくも温かくもなれる可能性を持っているということだ。少し安心する。

でも、それって、本当に私なのだろうか。冷たくも温かくもなれるっていうのは、私の中の水の部分の話であって、それは誰もが普遍的に持っている部分で、だから、きっと私の本質はそこにはない。それは水の本質でしかない。

じゃあ、私ってなんなのだろう。考える。これまでの人生なんて、薄っぺらくて大したものじゃないけれど、私にとっての全てがきっとそこにあるので、思い出してみる。

嬉しかったこと。辛かったこと。忘れたいこと。忘れたくないこと。あの人に言われた言葉。あの子に言ってしまった言葉。もう聞けない声。もう会えない人。薄れていく過去。流れていった日々。

思い出しているうちに、なんだか泣けてきて、私は涙を流す。シャワーのお湯が涙を溶かして、私は泣いているのに涙が頰を流れることはない。その代わり、たくさんのお湯が身体の表面を流れていく。涙だって私の一部なのに、私の一部は簡単にお湯に溶けていく。

 

私はお湯に溶けていく。

 

私の汚い部分はお湯に溶けていかないようで、それらは排水口の網目に絡まって固まっていく。汚い。とても、汚い。

私の六割は水で、私はどんどん排水口に流されていく。

排水口の網目に絡まって残るのは私の何割なのだろう。

あぁ、どうか、網目に絡まらずに、流れに磨かれて丸くなった小石のように、排水口の上にポツリと私の綺麗な部分が残っていれば、それで良い。私の一割にも満たなくても、それが私の中にあったのならば、とても嬉しい。