憂き世話

某駅構内。

「殺すぞ!」

女性の張り上げるような声が聞こえた。
それぞれ違う方向へ向かって歩いていた人々が一斉に同じ方向に顔を向ける。
無数の目が向く先にはひとりの女子高生がいる。右手には、制服に似つかわしくない包丁。
彼女の近くを歩いていた人たちは驚き、彼女と距離をとる。

「殺すぞ!」

彼女はもう一度叫ぶ。誰に向かって叫んでいるのか、彼女の目線は床に向かっている。
誰も彼女が誰を殺そうとしているのかを聞かない。
殺そうとする相手がわからないことが、人々の中に「もしかしたら自分を殺そうとしているのかもしれない」という疑念を産む。「誰を殺そうとしているのですか?」という質問に、自分の名が返されるのではないかという疑念。
誰もが、殺されるのが自分ではないことを祈っている。自分が殺されるはずはないと思いながら、しかし、疑念は晴れることなく数十秒間が過ぎる。
誰もが、殺されるのが自分ではない誰かであることを切実に望んでいる。

彼女が腕を振り上げる。

悲鳴。誰かが倒れる音。

 

倒れたのは、包丁を振り上げた女子高生だった。

彼女は自分を刺したのだ。

 

誰もが、殺されるのが自分ではない誰かであることを切実に望んでいた。

彼女は彼女自身を殺したが、しかし、彼女を殺したのは、紛れもなくその場に居合わせた人々だった。