メモ

例えば、二人で歩いている時に「この景色とか話している内容とか、きっと忘れてしまうんだろうなぁ」と思ってどうしようもなく切なくなることがある。思い出ってのは、重要なところとか印象深いところ以外は殆どカットされて再生されるものだって知ってるからだ。
どういう話をしただとか、どういう服を着ていただとか、細かいことはすぐに忘れてしまう。忘れたいわけではないはずなのに忘れてしまう。一方で、あの時あんなことを言われて傷付いたとか、あんなことをされて辛かったとか、忘れたいことほど覚えている。そんなもんだ。
過去に囚われるのもそのせいで、忘れたいことばかりが頭の中を駆け巡って、心の弱いところをガンガン叩くから、悲しくなるし、苦しくなる。
見ていたいのはいつだって今だし、その先の未来なのに、実際に経験したことのある過去だけが自分の生きてきた明確な証拠だから、気づけば過去ばかり見てしまう。今も未来も未知だから、怖いのだと思う。過去だけは、経験として残っているから安心してしまうのだと思う。というか、そこに縋ってしまうのだと思う。生きてきた自分を語るには過去しかないから。
でも、さっきも言ったみたいに、思い出せる過去っていうのは「忘れたいけど忘れられないこと」の集合体みたいなもので、本当は自分によってかなり捻じ曲げられているのかもしれない。良くも悪くも。それだけじゃなくて「忘れたくないこと」が「忘れたいけど忘れられないこと」を補強する役割を担っていて、「忘れたいけど忘れられないこと」はその対比によって色付けされて、より「忘れられな」くなってしまうんじゃないか。それに縋るしかできないのが人間の弱さなのだろう。「自分に都合よく捻じ曲げられた、自分だけの思い出=自分」になってしまうのは仕方のないことだ。
でも、それで今持っている大切なものを壊してしまうのは悲しい。なかなか捨てられないものを捨てなければいけない時もある。大切だったものを大切じゃなくしなくてはいけない時もある。新しくできた大切なもののために、だ。美化された過去も、腐敗した過去も、切り捨てなければいけない。これまでの自分に拘っていてはいけない。大切なものを大切にするためには、大切だったものを大切なまま持っていてはいけない。だってそれは、大切「だった」もので、今、大切にしたいものではない。人間、同時に沢山のものを大切にできないんだとおれは思っている。おれは、できない。だから、本当に大切にしたいものを大切にしたい。ひとつ、でいい。