2018/09/23:彼岸中日

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彼岸花が咲き乱れている。蛇の舌を抜いて寄せ集めたような不気味な花弁が、その赤色であちらこちらを燃やしている。

 

今日は墓参りをした。我が家の墓は山の中にある。墓地には十数基の墓石が並んでいる。明和、文政、天保。聞いたことがないような元号が墓石に刻まれている。途方もなく長い時間の中をこの血は流れてきたのだ、と思い知る。

花立に菊や鶏頭、榊などを差し込み、供え物としておはぎや団子を置く。

墓前で手を合わせる。手を合わせる時に何を考えたら良いのかいつも分からない。仏さんに願い事はしてはいけないということは知っているので、とりあえず「会いに来ました。僕は元気です。ありがとうございます」と伝える。

最近、墓参りをする度に河鹿蛙に遭遇する。この墓地に住み着いているのだろうか。近くに小さな渓流があるものの、そこで繁殖しているようには思えないのだが、どこからやって来たのだろうか。

 

墓参りから帰った後、特にやることもなく暇だったので、車に乗って、なんとなく滝を見に行く。地元の山奥は渓谷で、渓流には大小の滝が流れている。一番有名な滝は高さが約80メートルもある大きなもので、滝の前に赤い吊り橋が架かっており、そこから全体を見ることができる。吊り橋もかなり高い場所に架かっており、見下ろすと40メートルほど下に渓流が見える。現在は、落石や崩落で吊り橋までの林道が通行止めになっており、その滝を見ることはできなかったが、他に小さな滝がいくつもあるので、それらを見に行った。道中に宿泊施設や休憩所として使われていた建物がある。建物の前には大きな窪みがある。以前、釣り堀として使われていた窪みだ。幼い頃に父に連れてきてもらったことがある。自分たちの他に数組の客がいた。カップルや親子連れ、おじさん。僕がヤマメを釣りあげると、隣にいたおじさんが「大きなの釣ったなぁ、すごいがな」と褒めてくれた。賑わっているというほどでもなかったが、釣り堀を囲む客たちは皆、とても楽しそうだった。

水の抜かれた釣り堀の底には黒く湿った泥が積もっている。伸び切った雑草が、使われなくなってから何年も経っていることを教えている。

ふと、耳障りな音が鳴っていることに気づく。建物の中で何かが鳴っている。目覚まし時計か黒電話が鳴っているような音。建物に近づいてみると。建物の入り口には閉鎖中の張り紙が貼ってある。平成31年3月末まで、と書いてあるが本当なのだろうか。

そこを立ち去るまで、誰もいない室内で音は鳴り続けていた。

 

渓流に降りる。岩と岩の間を縫うように透明な水が流れている。手を浸けてみる。恐ろしく冷たかった。流れの激しい部分は川底が削られ深くなっている。そういったところは、水面が深い緑色をしている。手で掬う水は、透明なのに不思議だ。透明は無色ではないらしい。

 

帰り道、少し脇道に入る。しばらく進むと、かなりの山奥であるにも関わらずポツリポツリと民家が現れる。こんな場所にも集落がある。きっと、限界集落に分類される集落なのだと思う。おじいさんが庭先で農機具をいじっているのが見える。小さな小屋に「館民公」という木の看板がぶら下がっていた。

右手に集落を見ながら山道を進む。民家が見えなくなって数分後、ある場所に辿り着く。

そこには巨木が聳え立っている。幹周12メートル、樹高40メートル、樹齢は500年以上と言われている大カツラの樹。この辺りでは「山の神さん」と呼ばれている。東西へ伸ばした枝は、周りに生えている木々の幹よりも太く、長い。龍が空へ飛び立つ姿のようにも見える。

今、この世にいる全ての人間が生まれるずっと以前からこの樹はここで静かに生きていた。見上げると、龍が空を覆い隠している。

自分が生きていることが取るに足りないことだと感じる。自分にとって自分の生が全てのはずなのに、その全てを取るに足りないと感じる。全ては取るに足りないことだ。

吸い込む空気が湿っている。この土地は湿っている。吐き出した呼気も、湿っている。

この土地が僕を産み落としたのだ。

この身体を流れる血のことを想う。全ての取るに足りなかった血液が、今、この渓谷で流れ続けている。

自分の全てがここにあることが、どうしようもなく苦しくて、愛しい。

僕の神様はこの土地にしかいないと知る。