憂き世話

ふっ、とすぼめた口から息を吹く。目の前にぶら下がる小さな蜘蛛が、呼気に当てられて、ふらふらと揺れる。私は空気中の酸素を消費してその分、二酸化炭素を多く吐く。そういえば昨日、炭酸水をたくさん飲んだから今日の呼気にはいつもより多めに二酸化炭素が含まれてるかもな、なんてぼーっと考えて、考え終わってもまだ蜘蛛はふらふら揺れている。こいつがふらふらしてるのは、私の吐く、酸素が薄くて二酸化炭素が濃い呼気に酸欠になってしまったからかもしれない、なんて、はぁ、我ながら馬鹿らしくて悲しくなる。

 

あいつは虫が嫌いだった。部屋の中に小さなよく分からない羽虫やら蚊やらハエやらが現れる度に「脚が六本あるなんて!」といつも喚いていた。蜘蛛には脚が八本もあるんだよな。そういえばこの部屋で蜘蛛を見るのは初めてかもしれない。少なくとも、あいつがここにいた間には見たことがない。天井からするすると糸を伸ばして目の前に現れたチビ。

あいつは蜘蛛を見たらちゃんと「脚が八本あるなんて!」と喚いたのだろうか。それとも、いつもみたいに「脚が六本あるなんて!」と喚いて、私が「いや蜘蛛は八本ね」とあいつの発言を訂正し、指摘されたことに不機嫌になってしばらく黙り込むのか、自分の間違いが恥ずかしくて照れるだけで終わるのか、それはあいつ次第なんだけど、多分、あいつは恥ずかしくて照れながら「でも虫は虫だから!」なんて叫ぶんだろうな。

思えば蟹も脚が八本あるしわりと見た目が虫っぽいけど、あいつは蟹が大好物だったな。もしかしたら八本脚はイケるクチなのかな。あいつは、六本脚っていう形態に何かしらのトラウマがあるのかもしれない。六本脚だけがどうしても無理とかそんなの意味わかんないけど、大抵の動物は四本脚で、まぁ人間も四本脚みたいなもんで、たしかに二本違うと結構違ってくるのかもな。知らんけど。そうか、蟹って動物の二倍の数の脚が生えてるんだな、すごいな。とか思いながら、なんとなーくカニの画像をググってみると、なんと脚が十本もあって、ビビる。バケモンじゃん。さらに調べてみると、タラバガニは八本でズワイガニは十本らしい。あいつ、六本でヒィヒィ言ってたくせに、十本も脚が生えてるモンよく喜んで食えてたな。

 

あいつが今どこで何をしてるかなんて知らない。興味がないわけではないけど、わりとどうでも良い。もし、教えてくれるなら教えてもらおうかなって感じ。もし、知る機会があれば知るのもまあ良いかもなって感じ。

私はあいつが六本脚が大嫌いなことを知ってる。別に、だからどうってことはないけれど、知らないよりは知ってる方が楽しいのかもな、と思う。そして、あ、案外楽しかったのかもな、あの頃、と思う。