憂き世話

吉本くんはいつも「楽して暮らして100歳で死にたい」と言っていたけど、中学を卒業してすぐ働き始めて、その仕事は全然楽なものではなくて、過酷な肉体労働。重いものを運んで、組み立てて、分解して、高い所の狭い足場をせせこましく歩き回るような感じの仕事だった。そんで、吉本くんは19歳で死んだ。高い所の狭い足場から落ちたらしい。落ちただけでも可哀想なのに、落ちた先に鉄骨や鉄の棒や鉄のワイヤーやなんやかんやの山があって、運悪くその山から突き出ていた1本が吉本くんの腹部に突き刺さってしまったらしい。百舌の速贄みたいな有様で吉本くんは息絶えた。

そうして、吉本くんの生きるはずだった残りの81年は、一瞬にして消えた。

吉本くんが死んでしまって、びっくりしたし、悲しかったけれど、でも人はいつか死ぬんだから仕方ないのかもしれない、とも思った。生まれたってことは、イコール、死んでしまうっていうことだ。私は、吉本くんとめちゃくちゃ仲が良かったわけではないからこういうことが言えるのかもしれないけれど、私だっていつか死ぬ。吉本くんは百舌の速贄みたいな死に方だった。私は挽肉にされた豚みたいな死に方で死ぬかもしれない。人生、何が起こるか分からない。でも、もっと愉快な死に方が良い。笑いながら死にたい。

吉本くんはどんなことを考えながら死んだのだろう。たぶん目の前の仕事に一生懸命で、気付いたら、お腹に鉄の棒が刺さっていて、血がたくさん出ていて、そして、死んでいたんだろう。悲しい。

吉本くん。楽して暮らせていなかったとしても、楽しく暮らせていただろうか。100歳じゃなくて19歳で死んでしまったけれど、たくさん笑っていたのだろうか。

私は、同い年だった吉本くんより年上になってしまった。毎年、誕生日が来るたびに、吉本くんと年齢が離れていく。私はどんどんオバさんになっていくのに、吉本くんは19歳のままだ。

死んでしまうって、どういうことなんだろう。私は、誰かの死を知っている。

おじいちゃんが死んだ時は、親族がみんな集まって、ベッドに横たわって必死に呼吸をしようとしているおじいちゃんを眺めていた。泣いていたり、泣いていなかったりしたけれど、誰ひとりおじいちゃんから目を離すことなく、じっと、全員が瞬きすら惜しいような様子で、じっと、おじいちゃんを見つめ続けていた。あの時、おじいちゃんは紛れもなく、おじいちゃんという舞台の主人公だった。空気を嚥下しようとしておじいちゃんの喉仏が上下する間隔がどんどん開いていって、数秒に1回だったのが、数10秒に1回になって、そして、動かなくなる。拍手喝采ではなかったけれど、会場は涙を流す人で溢れてたよ、おじいちゃん。

誰かが死ぬことは、自分にとって、どういう位置付けにあるのだろう。

小説を読み終わった感じ?

でも、人間の一生は物語ではないと思う。伝記になってる人も沢山いるけど、それは周りの人々が勝手に物語としてその人の死を消化したってだけのことで、その人自体は物語ではなくて、その人でしかない。

でも、やっぱり他人の死は客観的にしか感じることができないってのも分かる。というか、もうそれは避けようのないことだ。だって、主観なんてその人の中にしか存在しない。その人だけの世界で、その人は生きて、死んでいく。私は、私の感覚だけでしか生きることができないし、その延長で、私の感覚だけでしか死ぬことができない。

だから私の生は私だけのもので、私の死は私だけのものだ。

私は吉本くんの死を物語にしたけれど、それは私が吉本くんではない視点で吉本くんについて勝手に語っただけのことで、吉本くんの死の本質は吉本くんだけの秘密なのだ。客観であれこれそれらしく語っても、何の意味もない。

死は、たぶん、私にとって最後の秘密になるのだ。

決して誰にも明かせない秘密。

それをいつか誰かが勝手に想像して、お涙頂戴でも喜劇でも何でも、物語として語ってくれるなら、私はとても嬉しくて、とても虚しい。