憂き世話

猫が交尾中に出す声は、赤ん坊の泣き声に似ている。猫も夜中に交尾をする。人間と同じ。深夜に窓の外から聴こえてくる声は不気味で、猫が鳴いてるのか、赤ん坊が泣いてるのか、猫が鳴きながら交尾をして、それで、雌猫から赤ん坊が泣きながら生まれたのか、なんて、くだらないことを考えてしまう。

 

安アパートの一室で、午前4時半過ぎの薄暗闇の中、隣で眠る年下の女を眺める。可愛いのか、可愛くないのか、よく分からない顔をしている。

例えば、おれが今からこいつの首を絞めるとする。こいつが眼を覚ます瞬間と、一生眼を覚まさなくなる瞬間と、一体どちらが先に訪れるのか。人が死ぬ瞬間って、おれには理解が及ばない。

いつだったか、SNS若い女性が飛び降り自殺をする瞬間を撮った動画が拡散されていた。おれはそれを見た。ビルの上から、ふわっ、と女性が飛ぶ。飛んだ次の瞬間から、おれには彼女がただの「落下する物体」にしか見えなかった。まるで、人形の様な。そして、数秒後に破裂音。人間は物体でしかないことを思い知った。色々なことを考えて、苦しんで、葛藤して、なんとか生存しているという、いじらしさ。それが無性に虚しくて、愛しい。そういうものが人間だと思っていたけれど、人間は、落下する物体でしかなかった。そのイメージと事実の乖離が、どうしようもなく悲しかった。おれは彼女を知らないけれど、彼女が死ぬ瞬間を知っている。彼女は生きていた。

病室で、祖父が死ぬ瞬間を見た。でも、いつ死んだのか分からなかった。気づいたら祖父は死んでいた。死ぬ直前、祖父は必死に呼吸をしていた。空気を飲み込む様にして、必死に。祖父が寝ているベッドの周りは親族でぎゅうぎゅうに囲まれていた。祖父が空気を嚥下するペースが、数秒に一回から、数十秒に一回になって、そして、止まった。何分待っても、祖父は、次の呼吸を待ちわびる親族の期待に応えることはなかった。主治医が、祖父の瞼を指で押し開いて、瞳にペンライトを当てる。照らされた瞳孔は収縮せず、開いたままだった。祖父が死んだことを、主治医が口にした「ご臨終です」という言葉でしか判断できないのが悔しかった。

 

女の首を絞める。

女が目を開く。驚愕と困惑と恐怖と怒りの入り混じった視線でこちらを見上げる。次の瞬間、おれは、女の首から手を離す。「びっくりした?」なんて、とぼけてみせる。怒りつつも、安心した女が、ふざけておれの首を絞める。おれは、少し息苦しいことに安心する。

 

なぁ、百五十年も経てば、おれもお前も、この世にはいなくなってるんだ。おれとお前だけじゃない、今ここに生きている誰もが、いなくなっているんだ。信じられないけれど。

 

窓の外で猫が鳴いている。どこかで、赤ん坊が泣いている。目の前で、女が笑っている。とりあえず、みんな、生きている。また、生まれていく。