憂き世話

「そう、あの時から僕の性格はこんなに卑屈でどうしようもない匂いを漂わせ始めたんだと思います。どこか一点が腐り始めてしまった果物、そうだな、蜜柑とか梨とかそういうものを思い浮かべていただければ分かりやすいかもしれません。それまでは綺麗な色や形をしていたはずなのに、気づいたときには腐敗が進行していたらしく、いつのまにか目に見えて腐り始めた一点から腐敗が徐々に全体へと広がっていきますよね。そういった感じで、僕はあの日、腐り始めて、ついには点が点ではなくなって僕を覆い尽くしてしまったんです。」

 

 目の前の二十代前半くらいに見える男は感情の無い目をこちらへ向けた。人間なので感情がないわけはないのだが、感情を読み取ろうと見つめ返しても、そこに映るのは瞳のカーブに沿うように引き伸ばされて歪んだ自分の顔くらいで、男がそこで何を感じて息をしているのか全く分からない。ここに座っている自分の姿が男の瞳に映るままの歪んだ姿をしているような気がしてくる。首元に青黒い蛇が巻き付いていると錯覚しそうなほどに重苦しく淀んだ室内の空気。それを入れ替えるためだろう、男が立ち上がり、からから、と粗末な音を立てながら窓を開いていく。

 

「あの時って、具体的にいつのことなの?」

 

 開かれた窓から流れ込んできた新鮮な空気に背中を押されるように、訊ねてみる。蛇はもうどこかへ隠れてしまったようだ。喋っている一瞬の間に、この口の中にするりと逃げ込んだのではなければ良いな、と思う。

 

「中学校一年生の頃です。」

 

 男が浅蜊を横から見たような薄い唇を割って話し始める。

 

「当時付き合っていた子がいたんです。彼女は携帯電話を持ってたんですけど、僕は親が買ってくれなくて持っていなかったんです。だから連絡を取るのは家の電話でっていうことになっていたんですけど、ほら、中学生くらいの女の子って手紙が好きじゃないですか、彼女も手紙好きだったみたいで、ある日、文通しようって言われたんです。家の電話だと親が鬱陶しいし、まあいいかな、と思って文通を始めたんですね。もちろん切手を貼って、住所を書いて、投函して、なんて面倒なことはしませんでしたよ。そんなことしたら、それこそ親に見られて鬱陶しいですからね。学校で会った時に渡したり渡されたりするんです。クラスが違ったので、廊下ですれ違う時が多かったです。ていうか、あれですね、冷静に考えると学校でたまに手紙交換するくらいの関係なのに付き合ってたっていえるんですかね? まあ中学生でしたから、彼氏彼女っていう響きがただただ嬉しかったんでしょうね。まあでも好き同士ではあったので良しとしましょう。で、文通を始めたんですけど、僕、思ってたよりも手紙書くの嫌いだったんですね。手紙書くのってこんな面倒なことなんだな、って書いてみて初めて気づきました。自分の思っていることとか考えていること、体験したこととか、よく恥ずかしげもなく書けるもんだなって。頑張って書いたんですけど、僕、恥ずかしがり屋なので、手紙を渡すタイミングもなかなか掴めなくて、すれ違ってもちょっと手を振るくらいしかできなかったり、酷いときには彼女に気づかないふりしちゃったりしてました。でも彼女の方はね、自分の書いた手紙をさりげなく僕のポケットにねじ込んでくるんです。ポケットに手を突っ込んでくるから、その子の指先が僕の股間に触れちゃうこともあって、僕が、うっ、て声を出しちゃうと、ああ、ごめんごめんって。結構積極的な子だったんですかね、分かんないですけど。ああいう子とセックスできてたなら、また何か変わってたのかもしれませんね。あ、話が逸れました。そう、それでも何度か僕も頑張って手紙を渡してたんです。だから彼女の方からも手紙の返事がやってくるわけで。返事をもらってないのに、さらに返事を書く奴なんて相当な曲者ですもんね。」

 

 男は窓の外の暗闇に目を向けながら話している。一匹の羽虫が、部屋の明かりに導かれて、外の広い世界から、閉ざされた狭い空間に舞い込んでくる。

 

「頑張って返事書いて渡してたんですけど、ついに渡せなかった手紙がありまして、内容は、たしか、テストの点はどうだったか、とか、好きだよ愛してるよ、みたいな適当な文句とか、そんなもんでした。だから別に特段渡しづらいものでもなかったんですけど、なんとなく渡せなくて、そのままどんどん時間だけが過ぎていって、渡してない手紙に彼女から返事が来るはずもなく、すれ違っても目を合わせるくらいになって、そのうちに付き合ってるってことすら本当かどうか分からなくなってきて、でも学ランのポケットには渡せないままの手紙がいつまでも居座ってるんです。ポケットだけじゃなくて、頭の中にもずっとそれが居座ってた。ああ、もう嫌だ、と思って、ある日の帰り道、手紙を川に投げ捨てたんです。あの時ってのは、その時のことです。腐敗しつつあった梨の表面に、茶色くて指で押したら、ぐしゃり、と潰れてしまいそうな小さな点ができた瞬間でした。」

 

 羽虫は電灯の周りを円を描くようにして飛び回っている。男の背中を水滴が下っていく。下に向かうにつれてその速度は速くなっていき、最後には男の尻の割れ目に吸い込まれていった。部屋の中が暑いのだ。自分の身体も汗で湿っている。白く膨らんだふくらはぎを眺めていると蛙の腹を思い出す。自分の身体なのに気持ちが悪い。

 

「そんなことで、性格が卑屈になるもんなの?」

 

 それまで窓の外ばかりに目を向けていた男が振り向く。下唇を噛み、何かを考えているのか目玉を泳がせた後、こちらに視線を向ける。

 

「なんというか、人間って馬鹿なんですよ、たぶん。他の人にとっては本当に些細な出来事でも、ある人にとっては人生を揺るがすほどの意味を含んでいるものなんです。みんながみんな、同じ価値観で生きているわけじゃないんです。それが分かっていても、他人の価値観なんてガンガン無視して自分の価値観でしか生きられないから人間は馬鹿なんです」

 

「それって、あたしがバカだってことを言いたいの?」

 

 少しだけ棘のある声音で言ってみる。

 

「いや、そういうつもりじゃなかったんですけど」

 

 男は、こちらから目を反らしてまごついている。男の感情を初めて目にしたような気がして、心の中でほくそ笑む。

 

「まあいいや、続けて」

 

 男に最後まで話をさせることにする。特に理由はない。ただ同じ空間、同じ時間にふたりでいるというこの事実がいつまで続くものなのか確かめてみたいのだった。もしかしたら、もう腐敗は始まっているのかもしれない。

 

「ああ、はい、えっと、あなたのことを馬鹿にしてるわけじゃなくて、どちらかと言うと自分を馬鹿にしているというか。そういうところが卑屈なんですよね。だから、えっと、あの時から僕はずっと、あの時のことを引き摺ったままここまで来てしまって、そのせいでいろいろなことを上手くこなせないんです。例えば、文章を書くことを未だに苦手にしているのも手紙のことがあったせいだと考えることができますよね。一種のトラウマというか。あと、女の人と接するのもあまり得意じゃないです。セックスだって数えるほどしかしたことないし、付き合ったことだってそう。そうだ、女の子って僕が思ってるよりも性欲強いんですね。最近分かりましたけど。飲み会とかで隣の席になった子が、この後空いてる? って声掛けてくることが割と多くて。僕から誘うことなんてできないので感心しますね。まあ、誘われても行く甲斐性なんて無いんですけどね。自信ないんです、自分のセックスに。たまに、まあいいか、と思って二人で飲み直して、カラオケ行って、それからホテルに行って、みたいなことも、たまにですけどね、ありますよ。でも、大抵、想像していたよりもつまんなかったな、って結果で終わるんです。自分のセックスもしょーもないし、相手もたいしたことないし。きっと、僕は女性に期待し過ぎてしまっているから、期待を越えることなんて無いんです。期待ばかり膨らんでしまって、現実がついていかないんですよね。あれ? なんでこんな話してるんだろう? あ、違う。違います。あなたとのセックスはとても良かったですよ。ここまで来たのはなんだろう、自分でもよく分かんないんですけど、あなたのこと気になってるのかもしれない。うん、気になってたからついて来たんです。えっと」

 

「あ、もういいよ。君があたしのこと気になってるとか、そういうことが聞きたいわけじゃないから」

 

 じゃあ何が聞きたいのだろうか。正直今までの話なんて全てどうだって良かったのだ。セックスがしたくなったので、たまたま隣にいた男に声を掛けてホテルに来ただけなのだ。今回の男はどうやら外れらしかった。可愛い顔をしていたので遊び慣れているのだろうと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。「ただ屁理屈を並べて自分を正当化したいだけの童貞じゃない程度の変な奴」これが今回の男に対する印象だった。セックスも、彼が言う「自信の無さ」が現れたのかあまり良いものではなかった。期待を越えることはなかった。お互いさまかもしれないけれど。セックスが終わって何やら話し始めたと思ったらこの有様だ。

 

「うわあ、虫だ」

 

 突然、男が犬の糞でも踏んだかのような間抜けな声を上げる。さっきの羽虫が男の顔の周りを周回するように飛んでいる。男の顔には恐怖の色がありありと浮かんでいる。自分の内面についてだらだら語らせたのが悪かったのか、男は急に感情をあらわにし始めた。面倒くさい。

 

「寝るね、おやすみ」

 

 そう言って男に背を向ける形で寝転がり布団を被る。シーツがふたりの汗を吸って、湿り気を帯びている。柔らかい水溜りの様で、不気味な感触。