2020/2/3:雑文

令和2年の2月。もう年が明けてから1ヶ月経った。この1ヶ月、何もしていない。何もしていないのに1ヶ月が経っていて超怖い。とか言ってるうちにまた1年終わるんだろうな。

 

2年も経てば、仕事にも慣れて余裕が出てきて仕事終わりに友達とかとご飯食べて遅くまで話し込んで次の日も仕事だけどそんなことどうでもよくてあと10分が20分になって遅くなっちゃったなーとか言って帰って寝て早起きして出社、みたいなこともできるようになるんだろうなーとか思ってたけど、まったくそんなことはなく、仕事終わりは、疲れ切って一目散に帰宅して酒飲みたいという欲望しか見出せない。

 

何かを成し遂げた実感も充実感もなく、合わせ鏡みたいな日々が続いていって、気付けば弛んだ枝みたいな見た目になっている。そんな未来が、わりとすぐそこに存在することを悟って、震えてしまう。

 

選択を誤り続けて(正しい選択なんてのは幻想なんだけど、自分の実感としての話)、後悔が積もるだけの人生を、如何に喜劇に見せかけるか(自分に)がこれから生きていく上での命題だと思っている。

 

そういう意味で、人々は日々には変化が必要だと言うわけです、たぶん。変化のない惰性の日々は、喜劇でないのはもちろん、悲劇ですらない。人間は自分の生きる日々を物語だと思い込みたがる。なので、必死に理想の物語を思い描いて、理想に近づくための選択肢なんてものがあると錯覚して、勝手に良い選択だった悪い選択だったと自己判断しては喜んだり悲しんだりしている。本来、人生なんてのは虚無で何もない。何もないからこそ、真っ白いキャンバスよろしく何かを描こうとする。

 

つまり、人々の生きる本質は物語とも言える。人は自分を物語として完成させることを目的に、人を愛すし、産むし、殺すし、死んでいく。

 

そんなことを考えていると、物語って人が生み出したものではなくて、物語が人を生み出したのかなぁ、とも思う。

 

ここからの人生、どうなっていくのか、わりとどうでもいいけど、欲を言えば、誰かの物語に組み込まれて死んでいきたいというエゴに殺されたい。