2020/2/11:退屈な祝日

ひとり、どんよりとした気分で終えるこの一日が、自分の今後の人生にとって善にも悪にも働かない、きっと、数ヶ月もすれば記憶の端にも登らない、思い出そうとしても思い出せない類の一日になってしまうのだという予感が、布団に潜ることを躊躇わせる。

 

ふと思い出すのは、喜怒哀楽の付随した「あの日」ばかりで、人間の脳味噌というものは、感情で上塗りした時間しか記憶に残せないのではないか、と思う。例えば、フードコートで食べたもの、買い物に行った時に着ていた服の色、公園で捕まえたトノサマバッタは何匹だったか等、平凡な日常のあれこれを思い出すことは困難だ。あの子の髪の匂い、祖父が死んでいく病室での啜り泣く声、幼馴染と作った首の無い雪の怪獣。鮮明に思い出せるのは、色々な感情の渦の中を流され泳いでいた瞬間、そういう記憶ばかりだ。

特別な日が毎日続けば良い、というわけではない。不特定だからこその特別なのだから。毎日が特別になってしまうと「今日は特別、特別な日ではなかったなぁ」という事態にもなりかねない。特別の中にも段階が構築されてしまうだろう。つまり、特別が特別ではなくなってしまう。人間は欲望の塊なので、特別が毎日続くと特別を特別と思わなくなって、特別よりも特別な特別を希求し始めるに決まっている。そんなのは、虚しい。

特別じゃない日も、自分を構成する一部になっていくのだろうか。それとも、ただ単に通り過ぎる一点でしかないのだろうか。でも、こういう一日があるからこそ、特別な日を特別に感じることができるのだと考えると、少しだけ、安心することができる。

 

間違ったことも間違っていないことも全部を抱えた状態が今の自分である。そして、この先に増えていく間違いや正解に耐え切れるだけの精神が必要なのだろう。死ぬまで更新される幸福や絶望を内包できる容れ物で居なければならない。自分の人生の大きさは、自分で量るしかないのだから、量り方を間違えないように。

 

記憶は過去だ。でも、さっき言ったように、思い出せることは「特別な」ある日のことばかりだ。これまでの人生、特別じゃなかった日の方が多いのではないか。自分の人生において、その全体像を正確に把握できている人間なんて、きっと存在しないだろう。平凡なある日。思い出すことのないある日。その積み重ねの中に、幸せだったり悲しみだったり、様々な感情が色を付けていって、そして人はそれを人生と呼ぶ。

 

生きていくということは、絵を描くようなもので、物語を綴るようなもので、色を付けて、脚色を加えて、あぁこれは素晴らしい、面白い、と思えるように足掻く作業と、それを俯瞰してここはこうした方が良いとか、なんでこうなってしまったんだ、でもここは感動したぞ、と、観る作業が並列的に連続している状態であるといえる。人間は複雑だ。

 

布団に潜り込む。目を閉じて、意識を飛ばせば、次に目を開く時には朝になっている。そうしてダラダラと日々は続く。いつまでも続くようで、いつかは終わると言う。特別が特別なままで、いつまでも続けば良いのにな、と思う。