憂き世話

「あなたのその薄くて可愛らしい上唇を、私のこの少し黄ばんだ、でも、矯正治療をしたおかげで綺麗に並んだ歯で、ぱくり、と噛む。そして、噛み締める。あなたの体温が舌先に触れる。ぬるい。私は更に咬筋に力を込める。ブチ、という不快な音が口の中、いいえ、どちらかと言えば、そう、頭の中に響く。目眩がする。くらくら。もう一度、今度はもっと深く、歯をあなたの肉に食い込ませていく。さっきよりもゆっくりと、そして、強く、噛み締める。ブチ、ブチ、とあなたの上唇が千切れていく。私の中にとても不快で、愉快な音を鳴らす。温かな液体が、私の舌の上に流れ落ちてくる。流れはそのまま舌下まで到達し、私はそこで初めてあなたの中身の味を感じる。鉄の味。小学生の頃に舐めた、近所の公園の錆びついた鉄棒と同じ味。おかしいね。あなたは生きていて、温かくて、こんなにも柔らかいのに。例えば、アンドロイドの上唇を噛み砕いても、こんな味がするんだろうね。おかしいね。ぷつ、と小さな音がして、そして、その瞬間に、あなたの上唇は、もう、あなたの上唇ではなくなっている。あなたは悲鳴を上げるけれど、私は、あなたの悲鳴にはあまり興味がない。口の中で、さっきまであなたの上唇だった肉塊を転がす。肉塊にはまだあなたの体温が残っている。唇の隙間から溢れる程に流れ込んできた血液を飲み下している間にも、あなたの体温と私の体温が混ざり合っていくのを感じる。そして、徐々に、私の体温があなたの上唇だった肉塊を、あなたの体温を、侵食していって、そのうちに、肉塊におけるあなたの体温と私の体温の比率が逆転する。そう、あなたの上唇だった肉塊は、私のものになる。私になる。あなたのことなんてもうどうでも良くなる。だって、あなたはもう私なのだから。そういえば、明日は満月らしい。月が綺麗ですね、って、上唇を無くしたあなたが、私じゃない誰かに言えないように、私は、あなたを私に取り込んで、そして、キッチンへ向かう。切れ味の悪い、愛用の包丁を探す。私とあなたは、もう、一心同体なのだから、私が死ねば、あなたも死んだことになる。

 

なるわけない。

 

 

分かっている。分かっているけれど、どうしても、こうしなければいけないんだって、どうしようもないんだって、どうしたらいいのかって、誰も教えてはくれないし。私は、最後まで一人だった。私はあなたにはなれないし、あなたは私にはなれないし、あまりにも寂しすぎる。それが人生だ、って誰かが言っていた。知るか。愛用の包丁が私の腹に食い込む。これが人生だ。私はあなたを食べた。あなたは私の栄養となる。あなたは鼻の下の辺りから血を流して叫び続けている。滑稽だ。あなたは私の栄養となる、前に、私は死ぬので、あなたは何にもなれない。私は無くなる。そしたら、全て、どうでもよくなる。ブチブチと鳴る腹から包丁を抜き出して、舐めてみる。あなたと同じ味がして、少し安心する。けれど、それがあなたの味なのか私の味なのか包丁の味なのか、ふと考え始めて、答えの見つからない内に、私は、絶命する。」