2021/01/18 : 冬のある日のこと

週に二度、顔を合わせていた人が死んだ。

 

顔を合わせると言っても、普段は特に話をするわけでもなく、用事がある時に少しだけ話すような、本当に顔を合わせるだけの関係だったのだけれど、それでも僕はすごくショックを受けてしまって今日は脳味噌が使い物にならなかった。

 

朝、職場に着いてすぐに上司から「〇〇さん、自殺したかもしれない」と耳打ちされた。

結局、自殺ではなかった。自殺ではなかったから良いというわけではなくて、詳しくは書かないけれど、とても悲しい死に方をしていたらしい。

 

悲しくても仕事はしないといけないので、予定していた幾多もの訪問先に出向いて、それと同じ数、インターホンを鳴らす前に深呼吸をして、笑顔を作って、明るい声で、こんにちはー、今日も寒いですね、雪が溶けてよかったですね、でもまた明日は雪予報ですよ、あ、ここにハンコお願いします、ありがとうございましたー。

何度も繰り返し、次はあそこに行かなきゃ、とバイクに跨って、冬の冷たい風の中を運転している最中、ふと、涙が溢れてくる。自分の親族や同級生が死んだ時にすら泣けなかったくせに、それがトラウマでいつまでも自分を許せないくせに、なんでほとんど話したこともない他人の死に泣いてしまっているのだろうか。わけが分からない。自分がわからない。路肩にバイクを止めて数分間、その場から動けなかった。

 

昼食を取る。

他人の死を想いながら、自分は生きるためにのうのうと飯を食っている。

馬鹿じゃねえの。

休憩室のテレビ画面の中でアナウンサーがコロナ感染による死者数を伝える。全然泣けなかった。あの人の死と、四千数百人の死と、何も違わないはずなのに。僕の頭の中では、あの人の死だけが悲しみとして浮遊して、拡散して、他に何も考えられない。

 

そして、そんな風にして、今日も僕は何故だか生きている。

毎晩酒で思考を溶かして、バグった脳味噌を薬で加工して正常な状態とやらに近付けて、そうしてやっと普通の人間みたいな顔をして、わけも分からず生きている。

 

あの人の死に理由はないし、僕の生にも理由はない。生まれたら生きる。生きて死ぬ。それだけなのに、なぜこんなにも色々なことを考えなければいけないのだろうか。なぜ生きようとしなければいけないのだろうか。なぜ人は人生に意味付けをしたがるのだろうか。てか、「意味」って何だよ。そんなものなくても、心臓は勝手に動いて、その内に停止する。「生きる意味」なんて概念は先人たちが勝手に作り出した負の遺産だ。僕はそう思う。でも生きている。じゃあ、なんで僕は生きているのか。

本能? 

だったら本能なんて人を嬲り殺すだけのクソみたいなモンだな。

でも、知っている人が死ぬと悲しいってことは、なんか自分の中で勝手にその人の死に意味付けをしているからなんだろうな。馬鹿な知恵と、クソみたいな本能に飼い慣らされている。

 

ある人が、文章を書くのは自己理解のためである、と言っていた。あぁ、そうだ。自己理解。僕は自分の感情を文章にすることでしか消化できない。このふにゃふにゃした線の組み合わせの集合体の羅列が僕の中身の表出で、僕が僕自身を理解するための唯一の方法なのだ。承認欲求なんて、無い。共感もいらない。僕は僕の感情を形にして残しておきたい。そのための手段が文章を書くことであって、それは、本当に何の意味もない行為なのだけれど、この世の中にとって全く不必要なゴミ屑みたいな欲求なのだけれど、それをしないと何故だか生きていけない気がしてしまう。

 

ただ、困ったことに僕の感情を形にしただけの、形にし切れてすらいない未完成な文章を、勝手に解釈して、僕の存在に勝手に意味を、価値を、見出してくれる人がいる。それに縋り付いてしまう自分もいる。

これが、所謂、承認欲求なのだろうか。分からないけれど、書かないと頭がおかしくなるので、書く。

 

 

P.S.

最後まで読んでくれたあなたへ。

人が死んだ。

それをこうして勝手に物語みたいに仕立て上げてしか生きていけない頭のおかしい僕を、どうか、笑ってやってくれ。