憂き世話

 友人と酒を飲んだ帰り、ふと目を開くと夜空が見えた。

 自分は何をしているんだ? と思考を巡らす。あ、寝ていたのか、では、ここは? 

 背中にゴツゴツとした硬い感触。心なしか鉄臭い風が鼻を掠める。夜空から視線を地平の方向へ送る。首を回すと耳元でジャリジャリと音が鳴った。頬に触れる枕木の湿った感触。目線の先に錆びついたレール。僕は線路の上に寝ていたらしい。

 今、何時なのだろう? 腕時計はつけていない。手首に何かをつけるのは苦手だ。左手だけが重く、左右の身体のバランスが狂う気がするから。アクセサリーならば、首に何かをぶら下げるのは好きだ。首は身体の中心線に位置するので、バランスが狂う感覚を感じない。

 ポケットに手を突っ込む。何も入っていない。どこかにスマホを落としたようだ。しかし、自分がどこをどのように歩いてきたのか全く思い出せない。いつどのように友人と別れたのかも思い出せない。頭が痛い。こんな所に寝転がっていたので、身体も痛い。

 時間が分からないことが不安を増幅させる。ここがどこなのかも分からない。何も分からない。とりあえず分かるのは、ここがどこかの線路の上で、自分がここにいるということ。……自分?

 線路沿いのフェンスの向こうを若いカップルが歩いていく。男がこちらにチラリと視線を向けて、口角を上げる。女もこちらを向く。男が女に何かを囁く。女は顔を背けた。背中が細かく震えている。笑ってやがる。

 羞恥が不安と混じり合い、僕は2人に罵声を浴びせる。見てんじゃねえよ! 殺すぞ! ぶっ殺してやる! こっちこいよ! 等。自分が腐っていくのが分かる。……自分?

 自分、ってなんだっけ。何も分からない知らない土地の知らない線路の上で知らない男女に罵声を浴びせているのが自分。これが自分。こんなのが自分? こんなものが?

 これは本当に自分なのだろうか? 僕ってこんなに糞みたいな人間だったか?

 あ、自分すら分からなくなった。

 走り去っていく男女の背中にデカい声を吐いていると、喉元から熱いものが迫り上がってきて、口から吹き出していった。ゲェッという自分の声に驚きながら、自分の口から落下していった熱い物体? 液体? を見下ろす。赤黒い何か。思ったのと違う。なんだこれ。は? 

 何も分からない。

 何も分からなくなった僕(僕は僕が僕なのかも分からない)は、線路に沿って歩いてみることにする。分かること。分かること。分かることは、今は夜で、ここは線路の上で、身体があって、何処かへ歩いていくしかないということ。

 遠く後方で、踏切警報機が鳴り始める。もうすぐ電車が通過するようだ。逃げなければ。え、どこに? 左右はフェンスで塞がれている。電車は前から来るのだろうか、後ろから来るのだろうか。後ろからだといいな、と思う。眩しいのは嫌いだから。それか、警報機のこの音が幻聴であれば良いな、と思う。警報機は鳴り止まない。レールが振動し始める。警報機の音に、金属の塊が肉の塊を乗せて駆ける、鉄と鉄が擦れ合う、ぶつかり合う、音が、聴こえて、そして、それが、後ろから、聴こえることに、僕は、安心、する。ヘッドライトの光が線路を照らす。僕だけが赤黒く切り取られて線路に投影される。

 何も分からない。が、僕は今、夜と同じ色をしている。

 

 耳障りな警笛と破裂音。

 

 ただの物体になる。