2021-07-11 : 特に意味のない

 まだ早い夜の窓際で煙草の煙をふかしている、人差し指の第一関節と第二関節を足した程度の、全長がわりと大きめな甲虫が、わりと大きめな羽音を鳴らして網戸へ飛びついてきた。それを見て、あぁ、また夏が来てしまった、と僕は少し憂鬱な気分になる。肺に溜め込んでいた煙を、甲虫へ勢いよく吹きかける。煙は甲虫の身体にぶつかり、割れて、その曲線に沿って流れ、消えていく。数秒後、甲虫はまた羽音を立ててどこかへ飛び去って行った。

 

 髪の毛が伸びた。髭も伸びた。休職してもう三週間程が過ぎた。上司からの電話も、もう来なくなった。組織は、僕が少し外れたところで、大きな問題もなく、すぐに社会に適合していく。この休職で数人の同僚や上司に迷惑をかけた。自分の仕事を代わりに遂行してもらっていることの罪悪感に、まだ慣れない。休職することを告げて、気にするな、と言ってくれている人々が、本当は何を思い、何を考えているのか、僕には分からない。きっと、少なからず面倒なことになったなぁ、と思っているだろう。あなた方の人生にとって、僕は脇役にすらなれない、ただの迷惑な部下でしかないだろう。そうか、脇役にすらなれないのなら、迷惑な部下でも良いか、と思ってみる。あなた方の人生にとって、きっと僕は取るに足りない意味しか持っていないのだから。あなた方が何を考えているのかは分からないが、それだけは、間違いない。あーあー、すんません。

 

 精神疾患の診断を受けて、僕の名前は増えた。名前が増えたというよりは、属性が増えた、と言った方が正しいか。とりあえず僕は、医療費を一割負担にしてもらえたし、少なからず他人に自分のことを説明し易くなった。だからと言って、生きることが楽になったわけではなく、むしろ困難にもなった。自分のことが分からないのは未だにそうで、なんらかの名前が付けられたところで、自分が変わったわけではなくて、考える余地が増えただけ、確定事項が増えただけだった。確定事項と言っても、明らかに見た目や症状で確定できる類の病でもないので、本当に自分はその名前を持って生きていっても大丈夫なのかという不安が消えない。こんなに困っていても、正直、自分がそういった精神疾患を抱えていて、例えばコロナワクチン接種の優先権を持っている、とかそう言った枠組みに入って生活しているという実感はない。自分ですらそうなのだから、周りの家族や、職場の人々は更にそうなのだろう。僕はこういった疾患を抱えています、と突然言われたところで実感なんて湧くはずがない。自分の苦しみは、どこまで伝わっているのだろう。伝えようと思うことすら、無駄な努力なのだろう。と何度も思っている。

 

 朝が来るのが怖い。なんて分からない人がいるらしい。それも怖い。

 

 たまに自分を制御できなくなることがある。たとえば、ピアスを代表とした身体改造。そういった行為は、僕の働いている(休職中だが)業界ではタブーとされている。いわゆるイメージが大事な仕事、だから。自分の身体を、自分の意思で、自分のものにしていくことの、どこがイメージの悪い行為なのか、僕には分からない。分からないけれど、禁止される。理不尽なのだ。親から貰った身体、とかよく聞く諭し方があるが、親から貰った身体だからこそ、自分のものにしていかなければならないのではないだろうか? これは偏った考え方なのだろうか? 親から貰った身体を、親から貰ったまま、生きていくことが正義なら、自分をその身体にしか見出す余地の思いつかない僕のような人間は、悪なのだろう。そこに理由なんてないのだろう。ただ、形式があって、歴史があって、社会があって、それだけ。あるものに従って生きていけば、誰にも文句は言われないのだろう。でも、そこに自分はない。あるものに穴を開けて、切って、そうして生まれた空間に、自分を嵌め込んで安心することの何が悪いのだろう。分からない。分かりたくもない。だから僕はタブーを破る。無邪気に。そして後悔はしない。ただ生き辛く、なっていくだけ。

 

 今日もアルコールが脳を揺らす。明日も、きっとそうだろう。