演者

人間は地域の中で無意識的に与えられた役を演じている。大学のある講義でそういう話があった。文学的な視点から地域を見るというテーマで行われた講義で、ある小説について教授が解釈し、そこから導き出される論を説明するというもの。学部全体の必修科目だったため多くの学生が受けた講義だった。僕のいる学部は教育、政策、環境、文化の4つの学科で構成されていて、僕は文化学科で日本文化コースを専攻している。日本近代文学のゼミに所属していることもあり、文学に少なからず興味を持っている僕は興味深く話を聞いていたのだが、まわりの学生たちには文学に興味がない人が多いのか「話が分からない」とか「あの人何喋ってるの?」といった声が聞こえてきて、少し切なく思った。


 

文学的な視点から地域を見る、と言ったが、ここでいう「地域」とは単に地方とか都市部とかそういった場所的な意味での「地域」だけではない。例えば、学校。小学校でも、ある中学校と別の中学校では性質が多少異なる。ある中学校は荒れていてトイレに煙草の吸殻が落ちている。教師たちは生活指導に力を入れる。また、ある中学校では生徒の全体的な学力が高く、進学校へと進学していく生徒も多い。このように中学校といっても千差万別で同じものはない。あるいは家族。家族によって、生活スタイルが違うのは当然の事である。晩御飯を20時に食べる家庭もあれば、18時に食べる家庭もある。
生活文化や習慣が同じ人間同士が共存するある範囲、それも「地域」である。その意味で、中学校も家族もひとつの地域と呼べる。


そのような地域の中で人間は自分の意思に関わらず、役割を演じている。という。僕自身は家族の中で長男を演じている。学校の中で学生を演じている。友人関係の中で僕自身を演じている。
そして、そこから逃れることができるのは死んだ時である。人間は死ぬまで何かを演じていくのである。
無意識的に、というのが辛い部分である。僕は長男だから長男を演じようなんて、誰も思わないだろう。もし、長男を演じたくない!と思ったとして、事実、自分は長男であるのだから、長男で居続けることしかできない。


自分の話になるが、僕は「長男だから家を継ぐんだよ」と昔から言われ続けていて、そういうものなのだと思い込んでしまっているようだ。家を継ぎたくないわけではないし別にそれでも良いのだが、一人暮らしをしてみたり、県外に出たいなと思ってみたり、そこから逃れようとしている自分もいて、無意識的に演じながら無意識的にそれに抵抗してしまっていることに気づく。それも全てシナリオで、僕は家族という舞台上で与えられた役を演じているだけである。気づいたところで役を降りることはできない。終幕までは、だが。


 

人間は皆、演者である。人生の終幕の際に多くの花を渡されるのは、撮影が終わった際に俳優が花束を渡されるのと似ているな、と思う。


「ありがとうございました!楽しい現場でした!終わってしまうのが寂しいです!」なんて、笑って言えるような舞台を創る一員でありたいと願う。