幼い頃から通っていた駄菓子屋が営業を辞めるらしい。
「清水商店」
見慣れた看板。もう、なんて書いてあるのか判別もできないほどに古ぼけた看板。
清水商店をやってるのは、八〇歳くらいのお婆さんで、夏のぬるい風に綺麗な白髪を揺らしている。会計の計算は算盤で行うから、たまに間違っていないのか心配になる。けれど、もう何十年もそうしているのだろうから取り越し苦労なのかもしれない。
遠足の前の日には五百円玉を握りしめて、同い年の葉月と一緒に清水商店に向かった。二人で相談しながらおやつを選んだあの頃の記憶は今でも智一の中に緩やかな思い出として残っている。
その清水商店が無くなってしまう。そう聞いて、智一は、葉月を誘って清水商店に向かうことにした。高校生になった今、五百円玉なんてケチなことは言わず、千円札を握りしめて、最後の買い物へ向かう。
「智くん! 待ってたで!」
葉月の家に行くと、葉月はすでに玄関の前に待っていた。
「いざ!」
葉月は妙に張り切っている。
「何をそんな張り切っとるだ」
「だって、最後の買い物よ! 気合い入れんと!」
智一は葉月のこういう無邪気さを嫌いになれない。
「んじゃ、行くかぁ」
葉月を自転車の荷台に乗せて、智一は清水商店へ向かう。タイヤがキィキィと音を鳴らす。中学入学の時から使用しているこの自転車。無理な乗り方を繰り返してきたせいで、様々な場所に歪みや軋みが生まれて、漕ぐとやかましく鳴るのである。
清水商店までは、葉月の家から自転車で四分ほどだ。木造の小さな商店。いつも通り、カウンターの横の小さな椅子におばあさんが座っていて、智一たちが来ても一瞥を投げるだけで、どこか遠くを眺めている。
「ちくわだけは買うなよ、賞味期限切れてるから」
葉月に囁く。以前、祖母に頼まれて買った竹輪の賞味期限が切れていたことを、智一は根に持っている。
「りょーかいしました。隊長」
葉月がおどけて答える。
「やっぱお菓子よ、お菓子」
葉月は昔から甘いものが好きだ。
「フエラムネ 、さくらんぼ餅、あっ、ココアシガレットもあるよー! 智くん! 千円じゃ足りんかもしれん!」
葉月が妙に楽しそうで、智一も嬉しくなる。葉月とは幼馴染で、幼い時から二人、一緒に色々な遊びをしてきた。高校生になった今でも、定期的に会って、近況報告をしたり、愚痴を話し合ったりしている。
「おれの分も合わせたら二千円は買えるで」
「天才では??」
そんなくだらないやりとりも、二人の日常で、もう何年も繰り返している。葉月の好きなものを買いな、智一はそう言って、葉月が商品を選ぶのを眺める。葉月が楽しそうだと、智一は安心する。
「最後だと思うと、全部買いたくなって困るねー」
呑気に葉月が言う。べつに、スーパーでもコンビニでも買えるものばかりだけれど、智一たちにとっては大切な場所での、最後の買い物なのだ。
「おれ、あれ買いたいわ。よっちゃんイカ」
「あれ臭いからヤダよー」
この辺りで、あ、葉月の欲しいものしか買えないな、と察する。
「じゃあ、もう、二千円分、葉月に任せるわ」
「任せられてやるわ」
で、結局、二千円分、葉月の好きな駄菓子を買い込んだ。駄菓子の二千円分って、とんでもない量だ。清水商店のばあちゃんは、相変わらずで、震える手で算盤を使ってパチパチと会計を計算し、金額だけを伝えて、あとは無言だった。
最後まで清水商店らしいな、と思いながら智一は会計を済ませる。
「ありがとよ」
ばあちゃんが初めて口を開いた。なんか嬉しかった。
長い石段を登った神社の社の横に、小さな小屋がある。普段はあまり使われておらず、秋祭りの前の晩に「夜宮」と呼ばれる祭事が行われる以外にここが使われているのを智一は見たことがない。小屋には鍵がかかっておらず、智一と葉月はよくここで夏休みの課題に取り組んだり、世間話をしたりする。なんとなく、秘密基地のようで居心地が良いのだ。埃っぽく、湿っぽい空気が少し鬱陶しいが、扇風機があるので誤魔化せる。
「智くん! お菓子パーティーよ!」
葉月が張り切っている。
「見て、ヤンキーの真似」
カカオシガレットをタバコのように咥えて葉月が所謂うんこ座り、をして見せる。
「威圧感が足りんね」
「なるほど、勉強になります」
智一はフエラムネを袋から取り出して、パッケージを開け、付属のおもちゃが入った小さな箱を葉月に投げる。
「何が出るかな、何が出るかな」
ライオンのごきげんよう、のあの曲を口ずさみながら葉月が箱を開ける。
「なんじゃこりゃ、どうやって遊ぶもんなんだろね」
葉月が手のひらにおもちゃを乗せて、智一に見せる。ライオンの頭のようなものがついた、指輪のような形をしたプラスチックの塊。指に通すには穴が小さすぎる。フエラムネの食玩は、たまに、本当に使い道がわからないものがある。説明書をつけて欲しい、と感じることが多い。
「なんにもならんわ、こりゃ」
「残念」
買ったお菓子を全て開き終わって、窓を開け放った小屋の中で、ふたり、ぼーっと寝転がっていると、智一の膝の上に一匹、赤い蜻蛉が止まった。
「葉月、見てこれ」
葉月がこちらを振り返り、智一が指差す先を見つめる。
「赤とんぼや」
「まだ夏なのにな」
赤とんぼ、といえば秋に稲穂の上を飛び回っているイメージが強い。こんな季節に見るのは初めてだった。
「赤とんぼはね、アキアカネって言ってね」
葉月が勝ち誇った顔で語り出した。
「夏になってすぐ羽化するんよ。そんで、すぐ、山の上に避暑しに上がるんよ。夏の暑い間は山の上の涼しいところで過ごして、秋になってやっと、平地に降りてくるんよ。トンボたちも暑がりなんよ!」
へへん、と顔に書いてある。
「なんでそんなこと知っとるん」
「小学生のころ自由研究で調べたんよー」
智一が知らないことを、葉月が知っている。なんとなく、嬉しいような、寂しいような、気持ちになる。
葉月はいつでも、無邪気で、朗らかで、笑っていて、それで、智一よりも少し頭が悪い、はず。
頭の良さなんて、何で判断するのか、分からないけれど、勉強に関しては葉月に負けたことはなかった。
テストの点数を見せ合って、毎度、葉月の方が点数が低く、「次こそはあたしが勝つもん!」と拗ねるのを見るのが好きだった。今思えば、そのために勉強を頑張っていたのかもしれない。
そんな葉月も、智一も、もう高校生で、やっぱり智一の方が偏差値の高い高校に通っていて、葉月はそんなこと気にすることなく、いつも笑っている。
「そっか。だからアキアカネって言うんやね。夏は山の上で涼しく過ごして、紅葉と共に赤色の身体で飛び回って。夏が嫌いなのに夏に羽化するなんて、効率的じゃないのになぁ」
葉月が智一の目を見つめて言う。
「嫌いなものって、無いと寂しいんよ。嫌いなものがあるから、好きなものを好きだって言い切れる。トンボにだって好きな季節があるだけよ。生まれて死ぬこととは関係なく、好きな季節に好きに生きるのが楽しいんよ、多分ね」
清水商店のおばあさんは、どうだったのだろう。なんとなく、そう思う。好きなことを好きなように、嫌いなことを嫌いなように、生きてきたのだろうか。無愛想なあの顔を思い出す。おばあさんは、好きだったのだろうか、あの店が。来るお客が。働いている自分が。
「おれはフエラムネ 、好きだよ、わけ分からん玩具も含めて」
「じゃあ、これ智くんにあげるよ」
「いや、それはいらんわ」
葉月は、何が好き?
智一は、何が好きなんだろう、考える。考えて、考えて、やっぱり、あぁ、好きだ、と思う。早く秋になれば良い。土臭い畦道を歩きながら、秋だね、って目を合わせたり、アキアカネの話、覚えてる? とか話したり、したいな、と、思う。
くだらないプラスチックの塊も、葉月といれば、思い出になるらしい。
自転車のタイヤが、キィキィと鳴る。二人分の重さを、鳴らす。空が橙色に染まっていて、まるで秋が来たみたいな夕焼け色だった。アキアカネたちはまだ、山の中で暑さから逃れているのだろう。