2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧

水底の猫 : 九

水の中は意外に暖かかった。さっきまでうるさく響いていた蝉の声も聞こえない。智一は沈んでいく身体を自分のものではないように感じた。身体はこんなに軽かったのだな、中身が入っていないのではないか、そんな風に思う。呼吸をしようとするが、身体中が水…

水底の猫 : 八

智一が目を覚ますと、もう太陽は真上に昇っていた。昨日の夜は、なかなか眠れずに居間で見てもいないテレビをつけて重たい頭を床に転がしていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。硬い床で寝ていたせいで首が鈍く痛む。時計を見ると一一時半を…

水底の猫 : 七

今日はもうないのだろう、と思っていた葉月からの着信を携帯電話が知らせたのは午後九時を少し過ぎた頃だった。智一はいつも通り切断ボタンを押す。縁側に向かい、ビーチサンダルに足を通したところで二回目の電話がかかってきた。二回目がかかってくること…

水底の猫 : 六

その日、智一は柄の黄色い虫取り網と青い蓋のプラスチックの水槽を持って朗の家へ向かっていた。水槽の蓋には覗き窓のようなものがついていて、そこがパカパカと開くようになっている。 「智くん、虫を捕まえに行くだか」 佐藤のおばさんが玄関前の植木鉢に…

水底の猫 : 五

盆の二日目は「墓参りに行くけ、早く起きんさい」という母の大声に眠りを遮られて始まった。油断すると張り付いてしまいそうな瞼をこじ開けて時計を確認すると、まだ朝の八時だった。 持田家の墓地は集落の外れの山の斜面に沿って作られている。この集落には…

水底の猫 : 四

夏だというのに母が浴槽に張る湯はひどく熱い。冬にこの温度ならば丁度良い塩梅であるのかもしれないが、夏に浸かるには酷な温度である。智一が熱くて入れないと言っても、母は「風呂は熱くないと入った気がせんけなあ」と聞く耳を持たない。小さな頃は我慢…

水底の猫 : 三

家へ帰ると祖母が玄関の前で迎え火の準備をしていた。 「あら、智くん、おかえり」 左腕で苧殻の束を抱え、右手に火箸を持った祖母が智一に気付いて、にこりと笑いかける。 「迎え火を焚くけ、お父さんとお母さんを呼んできてえな」 智一の家では、毎年、盆…

水底の猫 : 二

「なんでいつも電話に出てくれんの?」 鳥居をくぐり、苔むした長い石段を登り終えると、蝉の鳴き声に割り込む葉月の不機嫌そうな声が耳に入る。葉月は社の濡れ縁に腰掛けて、両足をぶらぶらと揺すっていた。夏の日差しは人間を焼き尽くそうと必死なのに、葉…

水底の猫 : 一

蝉の声が熱い大気を揺らして、陽炎を生む。枝木の影が、群れたまま干からびた蚯蚓のように、縁側の床に伸びている。流水が岩に激しくぶつかって割れる音が、日差しに焼かれた地表に染み込んでいく。切るのが面倒で伸ばしっ放しになっている前髪が、汗で湿っ…

2021/3/28 : 春

地獄みたいな日々を必死に泳いでいる。 でも、この地獄みたいな日々の作者はきっと僕なので自己責任だろう。僕は時間という食糧だけを与えられているだけで、自分の脳味噌で生み出された咀嚼の仕方しかできないのだから。 「おれはこういう人間だ」 某ビッグ…