水底の猫 : 五

 

 盆の二日目は「墓参りに行くけ、早く起きんさい」という母の大声に眠りを遮られて始まった。油断すると張り付いてしまいそうな瞼をこじ開けて時計を確認すると、まだ朝の八時だった。

 持田家の墓地は集落の外れの山の斜面に沿って作られている。この集落には集合墓地がなく、各家が自分の家の墓地を持っている。民家が建っている辺りよりも高いところにある持田の墓地からは集落が一望でき、密集したいくつもの屋根の上に規則正しく並んだ黒い瓦が、大きな魚の鱗に見えた。

 持田の墓地には、墓石は一つではなく全部で一二あるが、それぞれが誰の墓石なのか智一はほとんど知らない。中には「室町時代」と彫られている墓石もある。そういった古い墓石の表面には苔が青黒く繁っていて、逃れようのない時間を感じさせる。今、自分の中を走る血は想像もつかないほど昔からこの集落に流れ続けている。顔も声も、何もかも知らない人たちと血と土地で結ばれていて、決して離れることはできない。それが喜ばしいことなのかそうでないのか考えてみても、智一にはわかるはずもなく、そのことについて途方に暮れるほどの興味もないため、ただ墓石を眺めてはとりとめもなく思考を巡らすのみである。

 黄色や白の大小様々な大きさをした菊を花立てに差し込んでいく。菊の青臭い匂いを嗅ぐと、墓参りをしているのだという特に何ということもない実感が湧く。父が緑の線香を十本ほど手に取り、束にして火をつけ、一本ずつ墓石の前にある錆びた金属の筒のようなものの中に立てていく。その後を追うように、母が動物の形をした妙にカラフルな砂糖菓子と、昨日祖母が作ったおはぎを墓前に並べていく。背中に斑模様を浮かばせた雨蛙が墓石の上から、無理矢理に埋め込んだような出っ張った目玉で智一をじっと見ていた。

 祖母は、祖父の骨が入った墓を丹念に束子でこすっている。智一は、じゃりじゃりと祖母が墓石を擦る音を聞いて、先祖が痛がっているのではないかと不安になる。しばらくこすった後、祖母は手を止めて、

「みんなさん、今やっとることが終わったらおじいさんに手を合わせないけんで」

と三人に大きな声で呼びかけた。そして、バケツの中に溜まった水を柄杓で掬い上げ、墓石の上に手を伸ばして、ゆっくりと柄杓を傾ける。墓石の表面を滑るように、水が流れていった。

 

 祖父が死んだのは小学校の卒業式の日で、智一はその時、八歳だった。

 智一の住む集落の中心には、車がすれ違うことができるかできないかというほどの道幅の一本の道路が走っている。その道路が集落にとっての所謂「大通り」で、その道路に沿うようにして多くの民家が並んでいる。卒業式を終えた智一と朗は、あの先生が泣いていたとか、あの人は歌が下手だったとか、そういったどうでもいい話をしながら、道路の端に縁石で区切られた、人ひとりがやっと歩けるような細い歩道からはみ出さないように歩いていた。

「あら、智くんだが。今日は大変なことだったなあ」

 道の反対側から佐藤のおばさんが声をかけてきた。彼女のことをこのあたりの人は「おばさん」と呼ぶが、どちらかというと「おばあさん」と言った方がしっくりくる見た目をしている。おばさんの、ひょろひょろとした皺が刻まれた目尻が心なしかいつもより少し下がっているように見えた。

「大変って、何が大変なん?」

 おばさんが何についての話をしているのかがわからず、智一が聞き返すと、おばさんの普段より下がっていた目尻が、目玉が零れ落ちてしまうのではないかと心配になるほどに大げさに垂れ落ちた。

「何って、智くん、知らんだか。智くんのおじいさんな、亡くなっておうちに帰って来とんさるで」

 祖父は癌が見つかってから入院と退院を繰り返していた。治療を受け続けてもなかなか良くならず、前回検査を受けたときには癌が全身に転移してしまっていた。祖父は残された時間をできるだけ自分の家で過ごしたかったようで検査後も入院するのを拒み「もう入院はせん」と頑なに言い張ってはいたのだが、そのうちに身体はどんどんと痩せ細っていき、ベッドから動くことも困難になってしまったので、一ヶ月前からまた入院することになって病院で治療を受けていた。

「もう病院から帰れんかもなあ」と、祖父が家からいなくなった日の夜に父が呟いているのを聞いた。

 亡くなった、と言う言葉の意味が幼い智一には理解できなかった。うちに帰って来ている、という言葉の意味はよくわかったので、祖父が家に帰ってきたという事実について、一瞬、素直に嬉しいと思ったのだが、おばさんの垂れ下がった目尻を見てあまり喜ばしいことではないのだろうと悟った。おばさんが離れたところからでもわかるほどに憐れみを含んだ目で智一のことを見ている。智一の中に得体のしれない不安が、ぷくりと膨らんだ。

「朗くん、ごめん、ちょっと先に帰るわ」

 智一はそう言って自分の家へ向かって走り出した。朗が「またね」と、走り去る智一の背中に不安そうな声を投げた。

 家まではたいした距離ではなかったが、ずいぶん長いこと走っているような気がした。胸の中で、暗い色をした風船がどんどんと膨張して弾けそうになりながら胸を圧迫していた。そのせいで苦しいのか、走っているから苦しいのか、智一にはわからなかった。

 玄関を開けると、いつもとは違う甘ったるい匂いがした。線香の匂いだった。普段なら母親と祖母しかいないはずの時間だが、家の中からは大勢の大人の話し声と、誰かが鼻を啜る音が聞こえた。廊下を進み和室の襖を開く。

「智くん、おじいさんが帰ってきとるで」

 目を赤くした祖母が、智一が帰ったことに気づいて近づいてくる。祖母の向こうには黒い服を着た叔父や叔母、見たことのないお爺さんやお婆さんが、何かを中心にして円になるように座っている。円に入り切れない様子で立っている人も数人いた。立っている人も座っている人も皆、糸で引かれたように同じ場所へ顔を向け、視線を落としている。智一が円の中心を覗き込むようにして近づくと、そこには白い着物を着て顔に白い布を掛けられたひとりの人間が横たわっていた。

「顔を見てあげんさい」

 赤い目を智一に向けて祖母が言った。言われるままに白い布をめくると、深く皺の刻まれた祖父の顔が現れた。その顔は、いつも見舞いに行くときと変わらない様子で眠っているように見えた。違うのは、寝息が聞こえないことと鼻の穴と唇の隙間から白い綿のようなものがちらりとはみ出していることくらいで、やはり智一には、亡くなった、と言う言葉の意味がよくわからなかった。祖父の顔に触れると、硬く、冷たかった。こんなに硬くなってしまってはもう口を開けることも目を開くこともできないのだろうな、そう思った。

「かわいそうに」

「まだ若いのになあ」

「立派な男だった」

 大人たちが祖父について話している。おじいさんは若くもないだろう、変なことを言うなあ、と智一は心の中で少しだけ笑った。泣いている人もいれば隣の人と談笑している人もいて、人が亡くなるということに対してどのような感情で向き合うべきなのか、智一はわからないままであった。涙は出なかったし、悲しさもあまり無かった。もちろん嬉しいわけでもない。ただ、祖父と話すことはもうできないのだろうと思うと、閉め方が足りなかった蛇口から落ちる水滴が水面に波紋を描くかのように、寂しさがぽたぽたと心の表面を波打たせた。

 指先に残る祖父の顔の感触が何かに似ている気がして、智一は大人たちが何やら話をしている間、部屋の隅の箪笥にもたれかかって座りながら、ずっと考えていた。考えているうちに眠気に襲われた。眠りに落ちる直前に、いつか朗と捕まえた名前のわからない黒い魚を思い出した。

 

 祖父の墓前に一列に家族が並んで、順番に手を合わせていく。手を合わせながら、智一は、祖父は本当にこの石塔の下で眠っているのだろうか、と考える。いつまで経っても祖父の死の実感が智一の中には無いままだ。祖父の死から数か月間は、祖父がいつかひょっこり帰ってくるのではないかと、そんなことはないのだとわかっていながらも、心の隅で思っていた。祖父がいないことに慣れてしまっただけで、本当は今でもそう思っているのかもしれない。

 ふと顔を上げると、祖母が磨き上げた花崗岩のつるつるとした墓石の表面に自分の顔ではなく、祖父の皺の多い顔が映ったように見えた。智一の視界の端に昨日の迎え火がちらちらと燃え始める。今、祖父がこの墓石の下にいるのか、それとも家にいるのか、墓石の前に並ぶ家族の隣にいるのか、わからなくなった。後ろにいた祖母と場所を代わると、祖母は墓石の前に立ってぼそぼそと畏まった声でお経のようなものを唱えながら、手を擦り合わせた。帰る前に、もう一度、墓石の前に立ち、そこに映る顔をじっと眺めてみたが、それはいつも通りの智一の顔であった。

 帰り道、智一は祖母と並んで、父と母の後ろを歩いた。山沿いの道は悪く、アスファルトの表面が波打っていて、所々に水溜まりができている。山側には樹が生い茂っていて、この道は常に日陰になっているためになかなか水が蒸発していかないのだろう。生き生きとした緑を纏った枝から迫害された葉が水溜まりの中に積み重なり、茶色く腐敗している。

 祖母は亀のようにゆっくりとした足取りで歩く。祖母の隣を歩いていると時間までもがゆっくりと流れて、明日はいつまでも来ないのではないか、と感じる。祖母の履いている長靴が、地面に落ちる度に、かぽ、かぽ、と間抜けな音を鳴らす。

「昼ご飯はなんだろうな」

 祖母が少し前を歩く母の後ろ姿を見つめながら呟いた。

「わたしも、いつまで美味しいもんが食べれるか、わからんけな、いまのうちにいっぱい食べとかんといけんだ」

 祖母はどうやら自分の死について考えているらしかった。祖父の墓に参って、改めて祖父の死を感じたのかもしれない。祖母にとって祖父の死はどのようなものだったのだろうか。平気な顔をしているように見えるが、智一は祖母が今でもたまに仏壇の前で泣いていることを知っている。かつて愛した人の墓に足を運ぶことがどれほど苦しいことなのか智一には想像もつかない。もし葉月が死んでしまったら、と智一は考えてみる。抱きしめた葉月の身体が、あの時の祖父のように、硬く、冷たい感触を智一に返す。もしそうなってしまっても、平気な顔をして葉月を抱きしめ続けることができるだろうか。

「そんなこと言うないや、ばあちゃん元気だし、まだ大丈夫だわいな」

「智一が嫁さんもらうまでは、生きないけんなあ」

 祖母は呑気な声で言葉を返しながら、こちらを見ることもなく歩き続ける。

「いつまで生きれるか分かりゃせんけど、智くんが嫁さんもらってちゃんと大人になるのをな、見届けたいな」

 祖父が死んでから、祖母は生きることに対しての張り合いを無くしてしまったように見える。「いつ死ぬかわからんけなあ」という言葉が口癖のようになってしまった。

「生きるとか、死ぬとか、考えんないや。考えたところで、いつまで生きれるとか、そんなんわかるもんでもないし、どうしようもねえっちゃ。変なこと言うないや」

 夏の空気は物寂しくて生温かい。四方八方で鳴いている蝉の声が重なり合って、集落全体を揺らしている。智一は、まるで集落が鳴いているようだと思う。右足が水溜まりを踏んで、サンダルと足の裏との間に太陽の熱で温められてぬるくなった水が、ぬるりと入り込んだ。

「そうだなあ、ごめんな」

 微笑みながら祖母はどこか遠くを見ている。