水底の猫 : 六

 

 その日、智一は柄の黄色い虫取り網と青い蓋のプラスチックの水槽を持って朗の家へ向かっていた。水槽の蓋には覗き窓のようなものがついていて、そこがパカパカと開くようになっている。

「智くん、虫を捕まえに行くだか」

 佐藤のおばさんが玄関前の植木鉢にホースで水をやりながら智一に話しかけた。智一の方を向いている間もホースから水が出続けていて、植物の葉に弾かれた水滴がおばさんの靴を濡らし続けているが、おばさんは気付いていない。

「虫じゃないで、朗くんと泥鰌を獲りに行くんだで」

 学校からの帰り道、智一は朗に「泥鰌を獲りにいこうで」と誘われたのだっだ。

 朗の家は智一の家から歩いて四分ほどの場所にある。智一は朗の家の前に伸びる坂道をいつも大股で歩く。ぐっ、と足を踏み出して歩くと普通に歩くよりも体力を使うはずなのだが、坂道では大股で歩く方が楽に坂を登れる気がする。ぐっ、ぐっ、と坂道を上り切ると山を背にして朗の家が建っている。玄関の前に砂利の敷き詰められた車二台分ほどのスペースがあって、そこに朗がしゃがみこんで待っていた。

「来た来た、待っとったで、それじゃあ行こうか」

 朗は立ち上がると、智一のものより長い虫取り網と黒い蓋の水槽を持って坂道を下り始めた。朗はいつも智一の前を歩き、智一は朗の背中を眺めながら歩く。時々投げかけられる声に小さく返事をしながら智一は朗を追う。

 集落の西側に行くと民家の数は少なくなり、代わりに水田がいくつも並ぶようになる。植えられたばかりの黄緑色の短い稲が風にそよそよと揺れている。田と田の間を、農道と農業用水の流れる細い用水路が網の目のように走っている。基本的に用水路はコンクリートで舗装されているが、ある一角だけ畦と畦の間に自然のままの小川が流れていて、そこにたくさんの泥鰌がいる。智一と朗は時折そこへ行っては、捕まえた泥鰌を何匹も水槽に詰め込み、しばらく眺めた後で再び水の中へ逃がす、という意味の無い遊びを楽しんでいた。

 朗の家から五分ほど歩くと小川に着く。舗装もされていない畦道を覆うように伸びる草がふくらはぎをくすぐる。

 泥鰌は普段、水底にじっと死んだように張り付いていて、呼吸に合わせて鰓を静かに開閉することだけで、生きていることを示している。人が近付くとその気配を敏感に察知し、砂を巻き上げながら一瞬にして姿を隠してしまう。足音がしないようにじわじわと近付いて網で一気に掬い上げる。網の中を覗くと、細く生臭い泥鰌がぬめり気のある皮膚を空気に晒されて苦しそうに跳ねている。運が良ければ一回で三、四匹の泥鰌を掬うことができた。

 智一の水槽に八匹の泥鰌が集まった頃、朗はすでに十五匹もの泥鰌を水槽の中に泳がせていた。智一は、朗くんすごいなあ、と言いながらも少し悔しく思い、虫取り網を握る手には自然と力が入った。

「おうい、智くん、こっち来てみい、こっち、こっち」

 突然、朗が驚いたような声で叫んだので、何事かとそこへ向かうと、朗は足元の水面を指さした。

「ここ、ほら、見たことない変な魚がおる」

 智一が小川に目を向けると、そこには、たしかに今まで見たことのない、束子ほどの大きさの魚がいた。魚は波に隠れるように水底近くに沈んで、尾鰭だけをゆらゆらと艶かしく揺らしながら、同じ場所に留まっていた。

「捕まえてみようで」

 智一が虫取り網をゆっくりと魚に向けて伸ばすが、魚は抵抗することもなく、何も見えていないかのように尾鰭だけを動かし続けている。頭の方から網を通すと、あっけないもので、すぐに捕まえることができた。網の中で魚は身体を左右に捻りながら口をぱくぱくと動かし、その様子は命乞いをしているようにも見えた。鱗は黒く、その一枚一枚がぎょろぎょろとこちらを見つめる目玉のように日の光を反射させた。朗が恐る恐る手を伸ばして魚に触れる。朗が腹をつついたり鰭をつまんだりしている間、魚はされるがまま、静かに鰓を開閉させていた。

「こいつ大人しいな。智くんも触ってみ」

 朗が勧めるので、智一も魚に触れてみる。ひんやりとして、不気味なほど硬かった。

 突然、魚が大きく身体を捻り、網の外へ飛び出した。ふたりが「あっ」と揃って声を上げたときには、もう魚は水の中を泳ぎ出していた。なぜだか智一は、もう一度その魚を捕まえようとは思わなかった。

「逃げちゃったな」智一が言うと、朗は「逃げちゃったな」と鸚鵡のように繰り返した。ふたりは魚がゆっくりと泳いでいく姿を食い入るように見つめ続けた。魚が向こうまで行って見えなくなったところで、朗が、やっぱりもう一回捕まえよう、と走り出したので、智一も追いかけたが、その後、その魚を見つけることはできなかった。

 その帰り道、智一は猫の死骸を見た。朗と別れて、ひとり公民館の横を通り過ぎようとしたときだった。公民館の横には小さな空き地があって、雑草がひしめき合うように茂っている。智一は、自分の膝を隠すほどの長さまで伸び上がった草の隙間に白い物体が埋もれているのを見付けた。ボールか何かだろう、そう思い近づいてみると、それには骨ばった脚と萎びた尾が生えていた。横たわっている動物のその白い表面が少し動いたように見え、まだ生きているのかと智一は膝を折り、覗き込んだ。

 白く見えていたのは無数の蛆であった。無限に存在するようにも見える蛆が智一の姿に驚いたのか一斉に暴れ始める。微かに、炭酸の泡が弾けるようなしゅわしゅわという音が聞こえる。大量の蛆が擦れ合う音だ。湯が沸騰するように動物の表面を蠢きひしめき合う蛆の波に、時折、亀裂が入り、赤黒いものがちらちら顔を覗かせた。嫌な臭いがした。この猫はいつからここで死んでいたのだろう。遠い昔、自分が生まれるずっと前から、もしかすると両親が、祖母が、祖父が生まれるずっとずっと前から、この猫はここでひっそりと横たわっていたのではないか。酷く歪んだ顔面に埋まった二つの目玉は白く濁った色をしていて、どこかここではない場所を見つめ続けている。智一は、気分が悪くなって、逃げるようにその場を去った。ぶうん、と蠅が不快な羽音を立てて智一の耳元を通り過ぎていった。

 その日の晩ご飯は少しも喉を通らなかった。母が

「どうしただ、全然食べてないが。体調、悪いだか?」

 心配そうな顔で訊ねてきたので、智一は死骸のことについて話そうか、とも思ったのだが、智一以外の父と母、祖母、祖父は食事を続けていたし、智一自身あまり思い出したい光景ではなかったので「なんか食欲ないけど、大丈夫だと思う」と席を立ち、風呂へ入ってしまおうとバスタオルと寝間着を取るために自分の部屋へ向かった。

 夕飯の前に父が浸かった浴槽の湯はもうぬるくなっていて、気持ちが悪かった。湯の中で膝を抱えて丸くなっている自分の姿が、母親の中で丸くなっている胎児のようだ、と智一は思った。脚を伸ばして、ぐるぐると動かす。湯を振り払おうと、どれだけ脚を振り回してみても、父の垢でぬめった湯の感触がいつまでも纏わりついてくるだけだった。それでも脚を振り回し続けていると、今度は自分があの黒い魚になっているように思えた。あの魚は尾鰭で何を振り払おうとしていたのだろうか、そんなことを考える。

 居間へ戻ると、母が智一と入れ替わりで風呂場へ向かった。父はもう二階の部屋へ上がってしまって居間にはいなかった。祖母が食卓の椅子に座ってテレビに目を向けていて、その向こうには胡坐をかいて新聞を読む祖父がいる。

「ばあちゃん」

 智一が話しかけると祖母は亀のようにゆっくりとした動きで振り向く。

「智くん、ご飯もろくに食べずに大丈夫かいな、今日は早よ寝な治らんぞ」

「うん、わかっとる」

 智一は答えて、その後、猫の死骸を見てしまったために今日は食欲がないのだと話した。祖母はふんふんと息を吐いて頷きながら智一の話を聞いていた。

「そうか、智くん、それでご飯食べる気にならんかったんか。そりゃあ、そげなもん見たら食欲も湧かんわなあ」

 祖父がふたりの話を聞いていたようで、新聞を几帳面に畳んで床に置きながら「智一」としわがれた声で名前を呼んだ。

「生きとるもんはみんな死ぬるだ。怖がる必要ないで」

 怖がる必要がないと言われても、実際に智一は怖かったのだ。あの猫の姿が頭から離れないのだ。

「じいちゃんは、猫の死骸見ても怖くないだか?」

「猫の死骸っちゃあなもん怖くないわいな。そういやあ、じいちゃんが子どもの頃に飼っとった猫も同じような死に方しとったわ。散歩に出たっきり帰って来なんでな、探し回ってもなかなか見つからんかった。何日も探し回って、結局、家の裏の藪の中で死んどるのを見つけた。綺麗な茶色い毛並みをしとった猫だったけど、もう毛はまばらに抜け落ちて、死骸の周りにぱらぱら散らばっとった。身体には穴が何個も開いとって、蛆の群れが穴の中で肉を食っとった。それに猫だけじゃない。この歳になると死んだ人間を何人も送り出してきとる。傷口を蛆に食われた人間だって何人も見たことあるで。それでも一回も怖いと思ったことはないで。死んだもんは綺麗な顔しとるけえな」

 祖父の話す内容はグロテスクで、智一はまた気分が悪くなる。もう聞きたくない。それでも、祖父の最後の言葉が引っかかって聞き返す。

「死んだら綺麗な顔になるん?」

「なる」

 祖父が自信ありげに言い切るので、智一は猫の白く濁った瞳を思い出してみた。やはりどうしても綺麗だと思うことはできなかった。

 早めに寝ようと自分の部屋に入る。少し暑かったので、窓を開けると、遠くから赤ん坊が泣いているような声が聞こえた。これは猫が発情している時に出す声だと、いつだったか祖母が教えてくれた。あの猫が、蛆に食い破られて崩れた身体を揺らして大きな蠅と交尾をしている光景が智一の頭の中で揺れ始める。あの猫の腐った身体から漂う生臭い死臭が、夜の空気と一緒に部屋の中へ流れ込んできた気がした。智一は布団に深く潜り込んだ。