水底の猫 : 七

 

 今日はもうないのだろう、と思っていた葉月からの着信を携帯電話が知らせたのは午後九時を少し過ぎた頃だった。智一はいつも通り切断ボタンを押す。縁側に向かい、ビーチサンダルに足を通したところで二回目の電話がかかってきた。二回目がかかってくることは滅多にないので、智一は電話に出てみる。

「おっ、出た」受話器の向こうで、たいして驚いている風でもない葉月の声が聞こえた。

「そりゃ、二回もかかってきたら出るわいな」

「そう思って二回かけたんだで。なあ、今から花火しようで。押し入れの中で見つけたんよ。去年のだけえ湿気とるかもしれんけど。神社でしようで。智くん、ライターとバケツ持ってきてな」

 葉月は何故だか楽し気だ。

「湿気て火が点かんかったら、お詫びに何か奢れよ」

 智一は電話を切ると、一旦家の中へ戻り、仏壇の前に置いてあるライターをポケットに突っ込む。サンダルを履いて家の裏へ回り、物置小屋に入って、暗闇の中で目を凝らす。なんとかプラスチックでできた水色のバケツを探し出した。

 道路に出る。集落の夜には音が少ない。まるで世界に自分しかいないようだった。昼間はあれほど騒がしく響いていた蝉の声も止んでいて、聞こえるのは川の流れる音と、バケツがポケットの中のライターとぶつかってこつこついう音と、サンダルが地面に擦れる音だけだった。

 神社に着いたが、葉月はまだ来ていなかった。バケツに水を入れておこうと、智一は小屋の方へ向かう。地面から伸びた灰色の細いパイプが小屋の外壁にネジで固定されている。パイプは地面から五十センチくらい上のところで直角に曲がり、その先に蛇口がついている。蛇口を捻り、バケツの中に水を注ぎこむ。バケツの中に水が溜まっていく様子を眺めていると、智一は葉月の瞳を思い出した。

 葉月とここで初めてセックスをした日からまだ二か月ほどしか経っていない。ふたりは夏休みの間、毎日のようにここへ来ている。あの雨の日以来、葉月に会うと自分自身が自分とは別の意思を持った生き物のようになり、どうしようもない。もちろん常にそのような状態でいるわけではない。隣で話をしている内に気づくとそうなってしまっている。葉月から電話がかかってきた後、葉月とセックスをするためだけに会いに行っているのではないかという罪悪感と自己疑念が神社へ向かう智一の足を重くする。

「お待たせ」

 声のした方をみると、葉月が立っていた。葉月の白子のような肌が暗がりにぼんやりと浮き上がる。手にはごちゃごちゃとしたデザインが施された平たい袋をぶら下げている。

 智一は小屋の横に三個並べて置いてあるコンクリートブロックの内のひとつを持ってきて、その後、袋の中から小さな蝋燭を取り出し、ライターで蝋燭に火をつけた。蝋燭を傾け、ブロックの上に蝋の滴を落とす。ぽたぽたとブロックに落ちる蝋がいくつかの小さな丸を描く。それが固まって白くなる前に、そこに蝋燭の尻を押し付けて固定する。手持ち花火の先端の薄い紙になっている部分を蝋燭の火に近づけると、手持ち花火は火炎放射器に負けないような勢いで燃え始める。先端から止めどなく噴き出る火は夜の中で異様なほど眩しく、智一の視界に白い靄を焼き付けた。葉月が花火を一本手に取り、智一の花火に近づける。すぐに葉月の花火も火を噴き出し始めた。

「こうやって花火するん、久しぶりな気がするわ」

 智一が二本目の花火に火をつけ、雑草に火の先端を近づけて、燃えないのだろうか、と遊んでいると葉月が自分の手の先で燃える火を見つめながら言った。雑草は燃えなかった。

「智くんが電話に出てくれたんも、久しぶりだったな」

 智一が葉月の方へ顔を向けると、葉月は花火ではなく智一を見ていた。智一がバケツの中に燃え尽きた花火を投げ入れると、ちゃぷん、と水が揺れる音がした。

 花火を始めて二十分ほど経った頃、葉月が、どちらが線香花火を長く燃やし続けられるか勝負をしようと言ったので、袋から線香花火を何本か取り出す。ふたり同時に着火するために智一はライター、葉月は蝋燭の火を使った。線香花火はばちばちと音を立てながら毛細血管のような枝を広げていった。勝負に勝ったのは葉月で、智一はバス停の横にある自動販売機でジュースを奢ることを約束させられた。

 花火をした後、社の横の小屋へ向かった。やはり葉月といるとどうしようもなくなって、先ほどまでの罪悪感はどこかへ消えてしまうのだった。

 小屋の中は、相変わらず濡れた空気が充満していて黴臭かった。夜のひんやりとした気配が立て付けの悪い引き戸の隙間から小屋の中に入り込んでくる。

「暗いな、電気つける?」

 なかなか暗闇に目が慣れず、智一には葉月が影のようにしか見えない。歩いていると畳が少し浮いていて、智一はそこに足を引っ掛けて躓きかけた。

「誰も来んと思うけど、万が一、誰かが来たら恥ずかしいけ、やめとこ」

「人が来たら、電気ついてなくても声で見つかりそうだけどな」

「まあ、うん、そうだけど、でも、電気ついとったら裸がはっきり見えるわけで、電気がついてなかったら目が慣れるまでは裸ってわからんだろ? 声はできるだけ出さんようにすれば良いし」

 葉月が変に真剣なのが可笑しくて、智一が笑うと、

「智くんは、男だし、見られても恥ずかしくないんかもしれんけどな、あたしは見られるん、嫌だもん」葉月は不貞腐れたような声を出した。

 ふたりは暗闇の中でいそいそと服を脱いだ。葉月の白い背中が、薄暗い視界にぼんやりと浮かんでいる。それがさっきの蝋燭に似ているように思えて、智一は白い肌の表面に溶けていく蝋を思い浮かべる。葉月の背中を透明な滴がつーっ、と流れていく。水のようにも見えるそれは、触れた指先が爛れてしまうほどに強烈な熱を含んでいる。智一は自分の下腹部が熱を帯びていることを自覚する。

「そろそろ生理が近いけ、おっぱい、痛いんよね、あんまり力入れて揉まんでね」

 最中、智一が葉月の乳房に手を乗せたときに葉月が言った。昨日は大丈夫だったのか、と智一が聞くと「実は、ちょっと痛かった」と葉月は両手で智一の頬を撫でた。智一が止めていた腰を再び動かして葉月の中を泳ぎ始めると、葉月は小さく声を上げた。

 事を終えて立ち上がった葉月の首筋を透明な滴が、重力に引かれて下へと流れていった。智一がそれを舌で掬い取ってみると、熱くはなかったが、塩辛かった。葉月は「くすぐったい」と智一の頭を軽く小突いた。

 ふたりがバス停横の自動販売機へ向かうと、誰かがバス停の前の縁石に座っているのが見えた。

「あ、朗くん、こんな時間に何しとるだ?」

 葉月が声をかけると朗は二人に気づいてこちらへ顔を向けた。朗は左手に缶コーヒー、右手に携帯電話を持っている。

「おお、ふたりか。ちょっとな、ぶらぶら歩いとった。昼間は、暑くて動く気にならんけど、夜は涼しいけ、良いな。お前らは花火しとったんか」

 智一が手にぶら下げているバケツを眺めながら朗が言う。バケツの中には燃え尽きた沢山の花火が、火薬が溶け出して赤くなった水に横たわるようにして浮いている。智一は幼い頃、その様子が絵本で見た血の池地獄に似ている気がして不気味に思っていた。赤い水はこの世のものではないような気がしていた。

「花火、葉月に誘われて久々にやってきたんよ。神社で。線香花火をどっちが長く燃やせるか勝負して、負けた方がジュース奢るって。そんで、今、買いに来たんよ。」

 智一が話している最中に、朗は携帯電話に視線を戻して親指を忙しなく動かし始める。誰かにメールでも打っているのだろう。

「そうなんか、お前らは相変わらず仲が良いなあ。葉月とはよくバスで一緒になって話すけど、智一とは久々に会ったな。元気かいや」

 朗が智一を見上げて、笑いかける。朗の携帯電話の画面には「送信中」の文字が見えた。

朗の言葉に、智一は自分が非難されているような気分になる。葉月とは呼吸の延長とでもいえるように自然に話すことができるのに、朗とはもう長いこと話をしていなかったせいで、自分が朗とどんな顔をして、どう話していたのか思い出せない。

「そうだ、朗くん、東京の大学に行くんよね、智くんにも、この前、そのことを教えてあげたんよ」

 智一の横から葉月が朗に話しかける。

「もう教えたんか、気が早いわ」と朗はその顔に笑みを浮かべる。朗の目が智一の目を真っ直ぐ捉える。

「まあ、今んところ、そのつもりだけど、まだ何とも言えんなあ。どこの大学に行くにしてもこの集落から出ていくことは決めとるけどな。ここに一生おるよりも、俺は死ぬまでに色んなことを見ときたい。自分の人生は自分で創っていくべきだけえな。ここにおっても、見えるのはここのじめじめした閉塞感や、それに食い潰される生活や、どうしようもないしがらみばっかりだ。そんなもんに自分の人生を捧げるなんて馬鹿らしい。こんな田舎でただただ日々を消費して死んでいくのは俺には耐えられん。なあ、智一、お前もそう思わんか?」

 朗の目には、どこまでも続くように思える深い夜の闇と、それを背にして立つ智一の姿が小さく映っていた。

 朗が立ち去った後、智一はバス停横の自動販売機でコーラと烏龍茶を買った。自動販売機の光にカメムシや蜻蛉といった様々な種類の虫が集まっている。雨蛙が一匹、自動販売機が放つ光を遮るように張り付いて一匹の羽虫をじっと見つめている。智一が蛙を眺めていると蛙の口の中から突然ピンクに濡れた舌が飛び出し、羽虫は吸い込まれるようにして蛙の口の中に消えていった。

 食い潰される、と朗は言ったが、自分は今どこまでこの土地に食われてしまっているのだろうか。この腕も足も、脳味噌も、自分のものであると思っているのは錯覚で、本当は自分を動かしているのは自分ではない何者かであって、そいつはこの土地に自分を縛り付けようとしているのかもしれない。

 智一が座って待っていた葉月の前に立ち、コーラと烏龍茶のどちらがいいか訊ねると、コーラを指さしたので、そちらを渡す。汗をかいたペットボトルが路面に水滴をぽとぽと落とす。

 祖母は、智一が家を継がなければいけないのだ、という話をよく智一に聞かせる。家を継ぐということがどのようなことなのか智一にはよくわかっていないが、昔からそう言われ続けてきたのでそうしなければいけないような気がしてしまう。集落を出ていくことは、祖母への裏切りであり、この家やこの集落への裏切りなのである。そう思わせるような空気がここには流れている。そういう諸々が朗の言う、この集落のもつ「閉塞観」なのだろう。朗は、ここに食い潰されてしまう前にここから去って、自分の将来を自分で切り開こうとしている。それに比べて自分はどうだろうか。自分の将来なんかのために、家を捨ててまで外の世界に出ていくことを選ぶのが正しいことなのか判断できない。もちろん出ていくことが間違っているとは思わない。ただ、それを自分に当てはめて考えることができない。

 そこまで考えて、智一は無意識のうちに自分と朗を比べてしまっていることに気づいた。自己嫌悪に陥る。

 そういえば葉月の進路について聞いたことがないことに智一は気づく。葉月もこれまで智一に進路の話は振ってこなかった。そして智一はあることに思い当たる。葉月がここから出ていく、という可能性。葉月だって、この集落から出ていくことを選択することができるのだ。自分がそのことについてこれだけ迷っているくせに、葉月が出ていくかもしれないということについてこれまで考えたことがなかったのが不思議なくらいだが、本当に初めて智一は、その可能性に思い当たったのだった。意を決して智一は葉月に尋ねる。

「葉月は進路どうするか考えとる?」

 ペットボトルを傾けて、口に中にコーラを流し込んでいた葉月は、喉を鳴らしてコーラを飲み込むと、

「あたしは、短大に行って栄養士の資格取ろうかと思っとるよ」

と、あっさりと言ってのけたので智一は驚いた。葉月が進路について具体的に考えていたことが意外だった。高校二年生なので進路について考えていてもおかしなことではないし、むしろ当然のことでもあるが、それでも意外に思ったのは、葉月がここに残る意思を大した問題でもないというような軽やかさで示したからだった。

「短大ってことは、ここから通うんか?」

「うん、免許取って車を買ったら家から通える距離だしな。ていうか、智くんはどうなん? 大学行くん?」

「おれは、まだ、何も考えてねえわ」

 バス停の向かいに立つ街灯が、寿命が近いのか、点いたり消えたりを繰り返している。葉月がこの集落を出ていこうとしていないことを知って智一は少し安心する。自分はここを出ていくのだろうか。それともやはり、ここに縛られたままの生活を続けていくのだろうか。

 智一の家の前で葉月と別れた。智一は葉月が歩いていく後ろ姿をしばらく眺めた。街灯の少ない集落の暗闇と葉月の長い髪が同じ色をしていて、葉月が暗闇を背負って歩いているように見えた。集落の夜には、音が無い。聞こえるのは、川の流れる音と葉月が地面を踏みしめて歩いていく音だけだった。