水底の猫 : 二

 

 「なんでいつも電話に出てくれんの?」

 鳥居をくぐり、苔むした長い石段を登り終えると、蝉の鳴き声に割り込む葉月の不機嫌そうな声が耳に入る。葉月は社の濡れ縁に腰掛けて、両足をぶらぶらと揺すっていた。夏の日差しは人間を焼き尽くそうと必死なのに、葉月の肌は夏が終わりに近付き始めた今でも不思議と白く透き通っている。

「別にたいした用があるわけでもないだろうが」

「女の子が電話してきたら、喜んで出るもんよ」

「出たところで、神社で待っとるとか、今日もあそこで会おうとか、毎回同じような事ばっかり言ってすぐに電話を切るけ、出るのやめたんだわ。電話に出んでも言いたいことわかるのにわざわざ出る必要もないだろ」

 葉月は不服そうに智一を睨みつける。

 夏休みに入ってからというもの、葉月から毎日のように電話がかかってきて、その度、智一はこの神社へとろとろとした足どりで向かう。

 社には猿の神様が祀られている。犬猿の仲、という言葉があるように猿と犬は仲が悪いと信じられているため、猿の神を祀るこの集落には犬が一匹もいない。犬を飼うと神様に見放されてしまうのだと人々は考えている。

 山の中腹に建っている社の周りは木で囲まれており、日差しは枝葉に遮られ、湿度の高い空気に覆われた境内にはいくつもの蝉の鳴き声が入り乱れている。途切れない音の波に包まれていると、それが鳴っているのか鳴っていないのかも判断できなくなる。

 苔を生やした狛犬二匹が互いを威嚇するように向かい合って立っている。右側の狛犬は阿の形に口を開いていて、石でできた舌の上を蝸牛がじっとりと這って銀色の道をつくっていた。

「暑いなあ」

 葉月が右手で顔を扇ぎながら言う。

「そりゃ夏だけな、熱いわいな」

「智くんはすぐ揚げ足を取るなあ、嫌な奴だわ」

 葉月は智一よりも頭一つ分ほど背が低く、並んで歩くと艶のある黒い髪の毛が智一の顎の下で、歩調に合わせてさらさらと揺れる。昔は智一よりも葉月の方が身長が高かったが、中学二年の身体測定の後、測定結果を教え合うと智一の方が八ミリ高くなっていて、そのときからふたりの身長差はどんどん開いていったのだった。

 社の横には小さな木造の小屋がある。小屋の中は六畳ほどの和室になっていて、秋の祭の前日、夕方から日付が変わるまでの間、この小屋の中で男たちが酒を飲んで身を清めることになっているが、それ以外でここを使っているのを智一は見たことがない。小屋の入り口の年季の入った木製の引き戸に嵌った磨りガラスは、曇り空と同じ、くすんだ灰色をしている。小屋の中には金目のものは置いていないし、こんな田舎では浮浪者が住み着く心配もなく、そもそも鍵を掛ける必要がないのだろう、いつ訪れても引き戸に鍵は掛かっていなかった。立て付けの悪い引き戸を開けて中へ入ると、誰も掃除などしていないであろう狭い空間に、じめじめと黴臭く濡れた空気が充満している。

 智一は土間にサンダルを放るように脱ぎ捨てる。智一と違って葉月は靴をきちんと揃えて置く。葉月が上がり框に腰かけて靴を揃えている間、智一は葉月の長い綺麗な黒髪の隙間から覗く白いうなじを眺めていた。シマウマの模様みたいだな、と思ったが、智一はシマウマを実際に見たことはない。この集落にはシマウマではなく、鼬や猪や狸といった山の動物が人間の生活に溶け込みながら生きていて、道を歩いているとそれらの動物と出くわすことも少なくない。

 一度、智一の家の庭に猿が出たことがある。学校から帰ると玄関の前に猿が座り込んでいたのだ。猿と目を合わせると危ないということは昔から祖母や父から教わっていたのだが、猿が智一の方を向くので、その視線に引き寄せられ、智一は自分の意思に反して猿の目を見てしまった。人間と同じような目をしていた。背筋に冷たいものが走り、吐き気が込み上げた。幸いなことに猿は智一を数秒間見つめた後、智一に飛び掛かってくることもなく振り向いて、川沿いの斜面へと歩いていった。智一は猿が見えなくなると、恐怖から解放されて気が緩み、同時に涙腺も緩んで泣き出したのだった。それ以来、智一はこの社に猿が祀られていることをなんとなく不安な気持ちで受け入れている。目が合っても襲ってこなかったことを考えると猿は悪い動物ではないのだろうとも思うのだが、あの時の恐怖が未だに頭の片隅に居座っている。

 砂壁にもたれかかって畳の上に座る。智一の背中に削られた黄土色の粒が畳の上に、ぱらぱら、と降った。畳は古くほつれていて藺草の屑が汗で湿った脚に張り付いて鬱陶しい。葉月は靴を揃え終わると、智一の隣へやって来て膝を抱えるようにして座った。葉月の学校指定のハーフパンツの裾から伸びる白い脚が薄暗く黴臭い室内で妙に生々しく感じられて智一は目を反らす。

「もう、夏休みもあと少ししかないなあ」

 気怠げな声音で葉月が呟く。

「おれ、まだ課題、全然終わってない」

「あたしも。今度一緒にしようか。今日も持って来ればよかったな。ひとりじゃ、やる気も出んしな。」

 狭く閉じられた室内でも、蝉の声がどこからか騒がしく流れ込んでくる。智一は、部屋の隅で俯くようにして立っている扇風機のプラグをコンセントに差し込んで電源を入れる。カタカタと震えながら扇風機が首を振り始める。

「そういえば、朗くん、東京の大学を目指しとるらしいよ、なんていう大学か忘れたけど私立の大学って言っとった」

 葉月が這うようにして扇風機へ近付いていく。智一は「朗」と言う名前を久々に聞いてなぜだか少し罰が悪く感じた。

「東京か。いいなあ。朗くん、都会に出るんか。こんな集落におっても良いことなんかないもんな。ばあさんや爺さんしかおらんし、遊ぶところもない。高校生や大学生にもなって人ん家の田んぼの中を走りまわって鬼ごっこするわけにもいかんしな」

 智一が話しているのを聞きながら、扇風機の前まで辿り着いた葉月は、そこを陣取るようにあぐらをかき、「鬼ごっこちゃあなもん楽しめる年齢じゃないわ」と笑って、

「まあ、まだ、受験が終わったわけじゃないし、本当に東京に出るんかどうかははっきり分からんけどね」

とあまり興味もなさそうに言う。

 朗は、智一と葉月よりもひとつ年上で、このあたりで最も偏差値が高いとされる北高校に通っている。朗が中学を卒業した年、朗が北高に受かったという知らせを朗の母から聞いた祖母が「息子が北高に入った、って親が自慢しまわっとるわ」と少し悔しそうに智一に話したことがある。その次の年、智一は北高より少し偏差値の低い西高に入学した。祖母は「智一も北高に行ける頭はあるはずだけどなあ」とぼやいていた。智一は、自分なりには頑張ったのだ、という祖母の言葉に対する反抗的な思いと、それでも祖母の期待には応えられなかった、という罪悪感に挟まれながらそれを聞いた。朗が東京の大学へ行ったら朗の親はまた自慢をするのだろうか。それを聞いた祖母はまた悔しそうな顔をするのだろうか。そこまで考えて、智一は虫を噛み潰したような気分になる。

「葉月は、今でも朗くんとよく話するん?」

「うーん、よく話すっていうほどでもないけど、バスでよく一緒になるんよ。最近は、登校日に一緒になって、そん時に東京の大学に行くって話を聞いたんよ」

 智一は、もう三年ほど朗と会話という会話を交わしたことがない。特に理由があるわけでもないが、中学に上がった頃からなんとなく話すことが少なくなり、智一と朗との距離はゆっくりと開いていった。高校に入ると朗の姿を見ることさえほぼなくなってしまった。葉月の通う高校は私立高校で朗の通う北高の近くにある。自転車で通学できる智一とは違い、葉月たちが高校に行くには路線バスに乗らなければならず、葉月と朗はよく同じバスに居合わせるらしい。

「朗くんは昔から賢くてみんなと少し違っとった気がするでな。ちっちゃい頃には、虫の名前とか草の名前とかよく教えてくれた。物知りで、あたしらが知らないようなこともいっぱい知っとる。この前は電子辞書を膝に置いて、なんだかよく分からん難しそうな英語の本を読んどったわ。」

 砂壁が所々、斑になっていて、壁から剥がれ落ちた砂が部屋の隅、畳と壁との隙間に溜まっている。天井の角には、蜘蛛の巣が灰色の埃と室内の湿気を集めて太く重くなり、何本かの糸が重みに耐えきれずに千切れて垂れ下がっている。

「なに、どうしただ怖い顔して。」

 葉月に言われて、智一は自分の顔が硬く引き攣っていることに気づく。朗と比べられた、と無意識に感じたのかもしれない。朗と智一は歳も近く、この小さな集落で数えるほどしかいない男子だ。比較されるのは仕方のないことなのかもしれないが、朗と比べられる度に心の中で朗に対しての劣等感と羨望が入り混じって、卑しい気持ちになる。もちろん葉月がそのようなつもりで話したのではないのだということはわかっているが、わかっていても「こいつもおれと朗くんとを比べて、おれのことを笑っているのではないか」という疑念が心の端に食いついていて離れない。

 智一が黙ってしまうと、葉月の細く整えられた眉の端が斜め下を向いた。

「智くんもじゅうぶん賢いけな、悔しがることないで」

「うるさいわ」

 智一は身体の向きを変え、隣に座る葉月に覆い被さるような姿勢をとる。鬱陶しい感情を忘れてしまいたかった。

「智くんも賢いけど、でも、いくら賢くても課題はサボらずにちゃんとやらんといけんな」

 葉月が、智一をからかうように見上げる。つい数秒前まできまり悪そうにしていたのに、もうそれをなかったかのように微笑んで、智一の目をじっと食い入るように見つめている。葉月の瞳は川面のようで、智一は自分が小さな魚であるように錯覚する。智一の周囲の酸素がふっ、と薄くなる。

「うるさいわ」

 智一はもう一度言って、葉月の薄い唇を自分の唇で塞ぎ、そして舌で割った。葉月の口の中は、甘い味がする。