水底の猫 : 三

 家へ帰ると祖母が玄関の前で迎え火の準備をしていた。

「あら、智くん、おかえり」

 左腕で苧殻の束を抱え、右手に火箸を持った祖母が智一に気付いて、にこりと笑いかける。

「迎え火を焚くけ、お父さんとお母さんを呼んできてえな」

 智一の家では、毎年、盆の入りである八月一三日に玄関の前で迎え火を焚く。祖母によると、先祖たちは迎え火の炎を目印にして家の前の川から帰ってくるらしい。灯台の光のようなものなのだろうか。いつだったか「三途の川みたいだ」と智一が言うと、祖母は「そげえに怖いもんじゃないで」と言って笑った。

 玄関を入って廊下を少し進むと右側に急な階段がある。二階には両親の寝室と、父が持ち帰った仕事を行うための仕事部屋の二部屋がある。仕事部屋とは言っても、実際には両親はその部屋を第二のリビングとしてくつろぐための部屋として使っていることの方が多い。

 二階に向かって「迎え火焚くけ、降りてきて」と智一が呼びかけると「おう」と太い声で応え、それから少しして階段の上からのっそりと父が姿を見せる。脛毛の濃い、熊のような足を父が踏み込む度に、この家の古い階段は弱々しく小動物のような鳴き声を上げて軋む。父は灰色のTシャツ姿にステテコを履いていて、脇の下に汗染みができていた。

「母さんも二階におる?」

「いや、下で飯作っとるんじゃないか」

 智一は言われて初めて家の中にうっすらと食べ物の匂いが漂っていることに気づく。腹は減っていたが、意識していなければ案外気づかないものだ。台所に向かって「母さん、迎え火」と叫ぶ。

 父親と庭に出る。玄関を出て右側の六メートルほど先はもう斜面になっている。地面が傾く寸前の所に、祖母によって苧殻が小さく山型に盛ってあった。横にはマッチの箱が置いてある。箱に描かれた、振り向くようにして吠えている虎には立体感も躍動感もなく、弱い生き物を噛み殺して血肉を食らうような獰猛な動物には見えなかった。

 母がエプロン姿のままで玄関から出てくる。祖母は、家族が揃ったことを確認すると、ゆっくりと脚を折り曲げてしゃがみこむ。祖母の細い膝がポキリ、と小さく乾いて骨ばった音を立てた。皺とシミで汚れていないのに汚れているように見える右手に握っていた苧殻の束を一旦地面に置き、マッチ箱を拾って、中からマッチを一本取り出す。慣れた手つきでそれに火をつけ、地面に置いていた苧殻の束に近づける。苧殻の先端に小さな火が移り、ゆっくりと舐めていくように苧殻の束全体へと広がっていく。燃えていく束を苧殻の山の上へ祖母が放ると、すぐに火は燃え移り、小さな山は噴火するように煙を上げて燃え始めた。ぬるい風が吹くたびに炎はゆらゆらと踊りながらその勢いを強めていく。

 炎の向こう、斜面の下に渦巻く深緑色の川面が目に入る。もしかすると、あそこが向こうとこちらを繋ぐ通り道なのかもしれない、と智一は思う。深く、光の届かない緑色の水の塊の向こうに死者の国がある。先祖たちは、赤色の炎に導かれて、冷たい水の中を抜け、こちらへと帰ってくるのだ。

 細長い形をした蜻蛉が、舟を漕ぐ櫂のような動きで黒い羽を羽ばたかせて飛んでいった。ヒグラシの硝子と硝子が触れ合うような鳴き声が、炎の熱と昼間の日差しに温められた空気を冷やすように響いている。

 赤く、空気を撫でるように揺れる炎を見ている内に智一は、仏壇の上に並ぶ遺影を思い出す。

 曾祖父と曾祖母は智一が生まれたときには、もうこの世にはいなかった。智一にとって、曾祖父も曾祖母も、祖母が昔を思い出して語る昔話の中の登場人物としてしか存在しない。それでも遺影を見る度に、この人たちの血が自分の中を流れているのだ、と智一は実感のない血の繋がりというものに思いを巡らす。自分の中をこの人たちの血が流れていて自分はそれによって生きている。この人たちがいなければ自分は生まれてこなかったのだろう、この人たちと自分に似ているところはあるのだろうか、顔だけ見ればあまり似てはいないな、でもどこかに似ているところはきっとあるのだろうな、自分の性格とか声とか目に見えない部分のどこかにこの人たちは生きているのだろうな、そんな風に考える。

 遺影となった人物の中で、実際に一緒に暮らしたことがあるのは祖父だけだ。祖父はいつも一階の書斎で大きな肘掛け椅子に腰かけて本を読んでいた。そういう祖父の姿を子どもながらに格好いいな、と思っていた。祖父が読んでいる本は、小説であったり、新書であったり、時には図鑑であったりした。天井まで届く背丈の大きな本棚には、百科事典や文学全集、背の焼けた文庫本など多くの書物が厳めしく並んでいた。幼い頃、一度だけ祖父の留守中に本棚から一冊取り出して開いてみたことがあった。普段読んでいる絵本の大きくて読みやすい文字とは違い、細かく輪郭の細い文字がページいっぱいにびっしりと並んでいて、なんだか恐ろしくなったのを覚えている。本をぱらぱらと捲っている時、ふと、祖父の気配を感じた気がして振り向いたが、そこに祖父の姿はなかった。智一が視線を本に戻すと、またすぐに祖父の気配を感じた。振り向いては本に視線を戻すという動作を数回繰り返したところで、やっと、開いている古めかしい本が祖父と同じ匂いを放っているということに智一は気づいたのだった。

 しばらくすると、赤く燃えていた炎は徐々に勢いをなくし、蛇の舌のようにちろちろと瞬いた。山になっていた苧殻は、いつの間にか白い細かな灰となって形を無くし、風に溶けていった。

 祖父も炎に呼ばれてこの家に帰ってきたのだろうか。

 視界の奥で深緑色の川面から突き出るように一匹の魚が飛び上がった。

「さあ、それじゃ、ご飯食べようか」

 母がそう言ったのを合図に、それまで絵画に描かれたようにじっと静止していた家族は、生き物に戻ってそれぞれ動き出す。父と母はすぐに家の中へと引っ込み、祖母は「ご飯は灰を片付けてからにする」と箒を取りに家の裏にある物置小屋へと向かった。

 智一だけがその場に留まって、炎の痕跡を、まだぼんやりと眺めていた。