水底の猫 : 四

 

 夏だというのに母が浴槽に張る湯はひどく熱い。冬にこの温度ならば丁度良い塩梅であるのかもしれないが、夏に浸かるには酷な温度である。智一が熱くて入れないと言っても、母は「風呂は熱くないと入った気がせんけなあ」と聞く耳を持たない。小さな頃は我慢して湯に浸かっていたが、湯に浸かった後の身体は真っ赤に熱を含んで、風呂上がりの数分間は全身がひりひりと痛んだ。ある時、風呂から上がって、ふと鏡を見ると、湯に浸かっていない首から上だけが肌の色を元のままに保ち、首より下は茹でたタコのように真っ赤になった滑稽な姿をした自分が映っていた。いつからか、夏場の入浴はシャワーで済ますようになった。「水道代が高くなるけ、やめて」と母は言うが、風呂上がりにまたすぐ汗をかいてしまう不快感と比べると、母の小言などはたいした問題ではない。

 蛇口を捻る。シャワーヘッドに空いた無数の小さな穴から湯が一斉に飛び出す。両手のひらを合わせた中に湯を溜め、それを顔面にぶつけるようにして顔を洗う。手のひらが顔から離れる瞬間、指の間から昼間の葉月の甘い匂いがして、脳味噌がくらりと揺れるような感覚に襲われた。

 風呂から上がると、智一は自分の部屋へ向かい、窓を開けて網戸一枚にする。窓の前に立って吹き込んでくるぬるい夜風に当たっていると、どこからか小さな羽虫たちが光に吸い寄せられて網戸に集まってくる。一匹の羽虫に息を吹きかけてみたが、羽虫は透明な羽を震わすばかりで網にしがみついて離れなかった。

 植物と土と水の匂い、そして生き物の体臭。それらが混ざり合ったような生臭い空気がこの土地を覆っている。ここで生きる自分も生臭く濁った臭いを放っているのだろうか。自分がこの土地の一部としてそのような臭いを放っているのかもしれないと思うと、この身体が自分のものではないような気がして、どうしようもなく気持ちが悪い。肩にかけていたバスタオルを頭の上に持っていき、髪の毛を擦るように拭く。ふわり、と石鹸の香りが鼻に届くので、智一は少しだけ安心する。

 

 葉月と初めてセックスをしたのは今年の六月の雨の日だった。

 このあたりの梅雨は長く続き、その間、毎日と言って良いほど雨が降る。湿度も気温も高く、空気がぼってりと濡れて重くなる。呼吸をするたびに肺の中に濡れた空気が染み込んで身体中に梅雨が伝染していく。

「持田、髪が長いな」

 放課後の職員室では、智一の他にも何人かの生徒が教師と向かい合っていたが、叱られているのは智一ひとりだった。三年生だろうか、智一が叱られているふたつ隣の席には教師の横に座って一冊のノートをじっと睨んでいる女子生徒がいる。教師はノートに書いてある図や文字を芯の出ていないボールペンの先でなぞるようにしながら女子生徒になにやら説明をしている。女子生徒は、説明を理解しようと耳と目に神経を集中させ過ぎて他の部分に意識がいかないのか、口が緩んでぽかんと間抜けに開いてしまっていた。

「生徒っていうんは学校の看板だけな。ちゃんとした格好をしとかんと、あの高校はレベルが低いだのなんだの言われて、学校の品位が下がるだがな。品位の低い学校には生徒が集まらんくなる。保護者も品位の低い学校に生徒を通わせたくはないしな。生徒一人ひとりが、生徒は学校の看板であるっていう意識を持たないけんだがな」

 生徒指導の担当でもある智一のクラス担任は何度も、品位、品位、と繰り返す。智一は、聞いているふりをして適当に頷いてみせる。道端に生えた草を食べてみたり、自転車に乗ったまま水田に突っ込んで泥にまみれたりして育った智一は、今更そんなものを守れと言われてもなあ、と白けた気分になる。長々と話を続ける担任の後ろ、窓の向こうでは、陰気な色をした空が無数の雨粒を地上へ落としていて、智一は目の前に座る担任の禿げあがった額を黙って見つめながら、これから家まで歩いて帰ることを考え、憂鬱な気持ちを持て余していた。高校から智一の家までは約三キロある。普段は自転車で通っているが、雨に打たれながら自転車に乗るのも嫌なので、梅雨の間は毎日歩いて学校へ通う。朝、雨が降っていないからと油断をして自転車で学校に来ると、帰る頃には雨が降っていて、濡れながら帰らなければならなくなることも多い。この季節の天気予報は信用できない。

 長い説教が終わり、やっと帰れる、と小さく息をついて職員室を出る。蛍光灯の陰気な光が廊下を青白く照らしている。雑踏のような雨音が、人のいない廊下で智一の鼓膜を揺らした。

 ビニール傘がばらばらという音を立てて雨粒を弾く。自動車のヘッドライトの光や信号機の点滅が路面を覆う水の膜に反射し、智一の視界を明々と照らす。雨の日は空が暗い分、地上には光が増える。そう思うのは智一に下を向いて歩く癖があるからかもしれない。下ばかり見て歩いていると、様々なものを見つけることができる。片方だけのビーチサンダルや金具部分が錆びたキーホルダーといった人間の生活の一部だったものが、人の手を離れて道端に転がっていたり、時にはモグラやネズミの死骸が横たわっていたりする。そういった命のあったものが、ただの物体となって転がっている様を見てしまうと、ビーチサンダルやキーホルダーにも命があったのではないかという錯覚に捉われてしまう。もしも自分がここで息絶えてしまっても、誰にも気にされることなく、この身体は道端に転がったまま放置されて、雨に打たれながら風化していくのかもしれない、と考える。

 葉月は、智一の家まであと少しという所に設置されているバスの停留所で雨が弱まるのを待っていた。歩いてくる智一に気づくと、手をひらひらと振った。

「今日、朝、雨降ってなかったけ、傘持っていくのやめたんよ」

 錆びたトタン屋根に、とん、とん、と規則的な音を立てて滴が落ちる。バス停の待合所はコンクリートブロックを積み重ねた簡素な造りをしている。

「梅雨時は、いつ雨が降ってくるかわからんのだけ、毎日、傘持っとかないけんで」

「なんか、今日は降らんと思ったんよ。女の勘ってやつかもしれんね」

「あほ、勘外れとるがな。雨止みそうにないけ家まで送ったるわ」

 智一が言うと、葉月は「やったあ」と嬉しそうに智一の傘の中へ滑り込んできた。

 葉月の家に行くには、一度、智一の家の前を通り過ぎなければいけない。智一は自分の家の手前に架かる橋を渡るとき、川の様子を横目で眺めた。連日の雨に、山はその表面を洗われて土砂を吐き出し、川の水は土と同じ色に濁っている。水嵩は高くなり、普段よりも重量を増した水の塊は自身の重さに耐えきれないかのように下流に向かって普段よりも数段早い速度で流れていく。荒い流れの中に何かの黒い背中が見えた。鯉だろうか。黒い背中の持ち主は、少しの間、ゆらゆらとその場に浮いていたが、すぐに濁った流れの中へ沈んでいった。

 それからしばらく歩いて、鳥居の前を通り過ぎようとしたとき「あ」と葉月が短い声を発した。

「狸がおる」

 葉月の視線をなぞると、石段の中ほどに黒く滲んだ塊が丸くなって座っていた。打ち付ける雨が輪郭を溶かすせいでそれは別の何かのようにも見える。集落の中で狸を見かけることは珍しいことではないが、雨が降る中で狸を見たのは初めてだった。狸だけなく、他のどの動物も雨の日には外を歩くことを止める。雨を喜ぶのは蛙や蝸牛といった小さくて湿った生き物ばかりだ。智一の足元を沢蟹が、米粒をふたつくっ付けて作ったような小さな鋏を意気揚々と振りかざしながらせかせかと横切っていく。

「あの狸、こんな雨の中、何しとるんかな」

 石段に染み込んでいくことを拒否された雨水が小さな川になって滑り落ちている。雨が少し強まり、雨粒が傘の内側まで吹き込んできてふたりを濡らし始めた。

 ふと、狸が立ち上がった。黒い塊だったものに四本の脚が生えて地面をしっかり捉える。狸は一度ふたりの方を向き、振り返って、身体を揺らしながら石段を上がっていった。智一にはその姿が、川の流れに逆らって泳ぐ一匹の魚のように見えた。

「なんか、おれらを呼んどるみたいだな」

「うん、あたしも今、同じこと思っとった」

 智一の靴はもう浸水していて靴下まで濡れてしまっている。足を踏み出す度に、靴下から水が染み出るじゅくりとした不快な感触が足裏を襲う。葉月の足元をみると、黒いローファーの表面に小さな葉や枯れ草がいくつも張り付いていた。ふたりは何度も滑り落ちそうになりながら石段を登り終えて辺りを見回してみたが、狸の姿はどこにも見当たらなかった。狛犬が二匹、打ち付ける滝のような雨に動じることもなく、いつものようにじっと静かに見つめ合っている。ふたりはいつの間にか傘をさす必要もないほどに濡れていた。葉月が、子犬が吠えるような小さなくしゃみをする。

 雨が弱まるまで社の横に建つ小屋の中で過ごすことにした。どうせ濡れているのだから、雨に濡れながらでもそのまま帰ってしまえば良かったのだが、智一は何故だかそういう気にならなかった。雨が弱まるまで休んでいこう、と智一が提案すると、葉月は濡れた前髪をヘアピンで留めながら小さく頷いた。

 小屋へ入り、腰を下ろす。畳が湿気ていてぶよぶよとしていた。葉月が制服の上着を脱ぎながら「狸、どこに行っちゃたんかな?」と智一を見つめる。

「裏の山ん中じゃないか。山から下りてきて、でも雨に負けて、すぐ山に引き返したんだろ」

 葉月は上着のボタンを外していたのでカッターシャツは胸と腹の部分が濡れていて、そこだけ、下に着ている黒いキャミソールが濃く透けている。智一は、自分が吐く息が少し熱くなっていることに気づかないふりをする。

「雨ん中で濡れながら、何しとったんだろうな」

「さあな、餌でも探しに出とったんかな? 雨が降ると沢蟹が元気に動き回るけ」

 葉月が智一の隣に座る。葉月の濡れた髪の毛が放つシャンプーの人工的な匂いが湿気た空間に滲んでいく。

「雨に濡れとるんは、おれらも同じだな。意味もなく狸なんかを追いかけて、びしょ濡れになっとる。おれらこそ、雨ん中で濡れながら何しとるんかな」

 智一が葉月の方を向くと、葉月の目が智一をじっと見つめていた。室内が暗いせいか、葉月の瞳がいつもよりも暗い色をしているように見える。葉月が「ふう」と小さく息を吐いて言う。

「何しとるんかね、あたしたち」

 ふたりはしばらく話もせず、じっと黙って座っていた。雨が屋根を激しく叩き続けている。勢いのある雨音は、智一の家の前を流れる川の音に似ている。智一はさっき川に浮かんでいた、あの黒い背中を思い出した。

 目を閉じると川の流れの中に立つ自分の姿が瞼の裏に映った。強い水の圧力に脚を掬われそうになる。流されるものか、と脚に力が入る。黒い魚が智一の足元に纏わりつくようにして泳いでいる。目を開いた。とたんに濡れた空気がどんどんと膨らんで、ついには小屋全体を覆い隠した。智一の身体の中に溜まっていた梅雨が、濡れた空気の中にどろどろと溶け出していく。葉月に顔を近づける。葉月はそれに気づき、深く息を吸う。智一から溶け出した梅雨と混ざり合って水気を増した空気が、葉月の身体の中へ流れ込んでいく。

 その時、智一の目前に美しい緑色の水面が広がり、視界を浸した。

 葉月がゆっくりと服を脱いで、智一の唇を自分の唇へ引き寄せる。葉月の吐く息が温かい。智一の舌先が葉月の舌先に触れると、小さな魚が水面を尾鰭で叩くような音がした。

 智一は魚になって、水面へ飛び込む。身体中を包みこむ液体に身を任せるようにして、智一は泳ぐ。下へ下へと智一は身を沈めていくが、底はまだ見えない。視界は一面、緑色で、自分の位置が分からなくなる。自分の尾鰭が水を割る鈍い音だけが水中に響く。

 視界の奥に何かを捉える。生き物のようだった。生き物のようなそれは、人のようにも獣のようにも思えた。遠くに見えるようで、近くに見えるようでもあった。智一は、それを見たとたんに、呼吸の仕方を思い出した。同時に、自分が呼吸を止めていたことに気づく。

 我に返ると、智一の身体の下に、葉月の白く柔らかい身体が横たわっていた。智一の荒い呼吸が葉月の顔の上を流れる髪の毛を小さく揺らしている。葉月は右手で顔に張り付いた髪の毛を除けると、微笑んで、

「ほんとに、何しとるんかね、あたしたち」

 智一の背中に、白くて細い腕を回した。