憂き世話

 「怖いから見たくない!」

そう言って絢子はトイレから走って出ていく。

検査窓に赤紫色の線がうっすらと浮かんでくる。段々と色が濃くなっていく線の左側には真っ白な空白。線は一分ほどではっきりと現れた。まだなんとなく安心できず、そのまま数分、小さな検査窓を見つめていたが、現れた線は一本だけだった。

「大丈夫だったよ」

僕は大きな声で言う。

妊娠検査薬を持って、トイレを出る。絢子はベッドの上に座っている。

「大丈夫、陰性だったよ」

僕は、絢子というよりも絢子の不安そうな目に話しかけるように言う。

「良かったぁ」

僕は手に握っていた検査薬を絢子に渡す。絢子が検査窓をじっと見つめる。

「ほんとだ、陰性だ。赤ちゃんいなかったね」

絢子がホッとした様子で立ち上がり、検査薬をゴミ箱に捨てる。かさり、と検査薬がゴミ箱の中のゴミと触れ合って小さく音が鳴った。

 

「安心したらお腹減っちゃった。なんか買いに行こうよ」と絢子が言うので、近所のスーパーへ向かった。

平日の夜のスーパーには人がまばらで、仕事帰りなのかスーツを着た中年男性が商品を手にとっては首を傾げ、棚に戻すことを繰り返していた。

五歳くらいだろうか、ピンクのリボンがついたヘアゴムで髪を二つに結んだ女の子が、嬉しそうにペットボトルのオレンジジュースを抱えて、買い物カゴを持つ若い母親の後ろを歩いている。僕が女の子の後ろ姿を見つめていると、横から絢子が

「もし赤ちゃんができてたら、女の子だったかもしれないね」

と言って、微笑んだ。

 

僕たちはまだ大学生で、子どもを産むなんてことを真面目に考えたこともない。出産どころか結婚についてすら、真面目に考えたことがない。

 

家に帰って、スーパーで買った豚肉と白菜を使ってミルフィーユ鍋を作った。毎年、寒い季節になると、ふたりで喜々として近所のスーパーまで豚肉と白菜を買いに行き、週に三回以上のペースでミルフィーユ鍋を作る。美味しくて簡単なのだ。しかし、毎回同じ味だとさすがに飽きてしまうので、出汁は何種類か用意しておいて、その日の気分に合わせたものを使う。今日はキムチ味にした。

「辛いもの食べて、身体が暖まって、遅れてる生理も来るかもねぇ」

冗談めかした口調で絢子が言う。妊娠していなかったことに安心したのだろう。顔からは昨日からの不安気な色は消えていた。絢子は辛いものを食べると顔がすぐに赤くなる。それもあって、顔色は良すぎるくらいだ。

「そうだね、きっと明日には来るよ。ていうか妊娠してなかったのにここまで遅れてると逆に心配になってくるよ」

僕も冗談めかした口調で、絢子に言う。

 

もしも、絢子が妊娠していたとして、僕はどうしていたのだろうか。

男は子供を産むことができない。産むのは女だけだ。出産の痛みを味わうのは女の人だけだ。絢子は僕以上に不安だったはずだ。きっと僕には計り知れないくらいに。

まだまだ大人になりきれないままの僕たちは、大人のフリをして少しずつ覚えてきた生き方で拙く生きている。

絢子が妊娠していたとして、僕は素直に喜べただろうか。未来への不安や心配なんて気にせずに、ちゃんと喜べただろうか。

絢子が妊娠しているかもしれないと知って、僕はただただ不安だった。絢子も不安だっただろう。赤ちゃんが生まれたら、お金はどうするのか、とか、結婚するのか、とか、そんなことばかり考えていた。

絢子が妊娠していたとして、僕は、その不安の先にあるであろう幸せと向き合うことができていたのだろうか。

命が生まれるということは、不安なことではないはずなのに、僕は不安に飲み込まれてしまうのではないだろうか。

覚悟が足りない。大人になる覚悟。いや、大人になってしまったことを受け入れる覚悟だ。

大人になりきれないまま、大人になってしまったのだ。拙くても生きていくことに、責任が伴うようになってしまったのだ。

誰も、いつまでも子どものふりをしてはいられない。

 

絢子が帰った後、ゴミ箱の中から検査薬を取り出して、検査窓を眺めてみた。赤紫の線は一本だけで、どれだけ見つめても二本目は現れないままだった。検査完了を示す赤紫の線の左側は白い空白のままだった。

僕は、その空白に安心すると同時に、少しだけ寂しさも感じた。いつか、もう一本の線が現れるその日に、僕たちはどんな顔をしているのだろうか。絢子が真っ赤な顔をしていれば良いな、と思った。

そして、二日間の不安を放り投げるようにゴミ箱に検査薬を捨てる。