憂き世話

ぴいぴいと鳴く小さな生き物が、うちへやって来た。やって来たというか、風呂から上がって、火照った身体を冷やそうとミネラルウォーターを飲むために冷蔵庫の扉を開くとちょこんと座っていた。私が「うわっ」と叫ぶと、ぴい、と鳴いた。そっと手を伸ばして恐る恐る触れてみると、ふわふわとしていて、柔らかすぎるマシュマロのようだった。

私は、二階建ての古アパートの二階の一番端の部屋に住んでいる。隣には化粧の濃いおばさんが住んでいて、毎朝階段の下のところで野良猫に餌をやっている。私が家を出るのはだいたい午前8時頃なのに、おばさんは毎朝ばっちり化粧をして猫に餌をやっている。「おはようございます」と挨拶をすると、ニコニコしながら「おはようさんさん」と返してくる。毎朝、変な挨拶だなぁと思う。
 
私はふわふわの生き物の正体をおばさんが知っていないだろうかと思い、おばさんの部屋を訪ねた。がちゃりとドアが開いて、おばさんがひょこっと顔を出す。
「遅くにすみません」
ドアの間から顔を出すおばさんはこんな時間なのにまだばっちり化粧をしていた。
「いいのよ、どうしたの?」
おばさんはピンクと白のチェックのパジャマを着ている。
「昨日、冷蔵庫を開けたらふわふわの生き物がいたんですけど、あれはなんなのでしょうか?」
「あぁ、あれが出たのね」おばさんはさも当たり前のことのようにそう言って、ドアをガッと開くと、私の耳元に口紅で真っ赤に塗られた唇を近づけて囁いた。
「あれが出たってことは、あんた、ふふふ、良いわねぇ」
「良いことなんですか?」私はわけもわからず、聞き返したが、おばさんは、ふふふっと笑いながらドアをぱたっと閉めてしまった。呆気にとられて突っ立っていると自分の部屋から、ぴいぴいと大きな鳴き声がしたので、はっと我にかえり、自分の部屋へ向かった。
ドアを開けると足元にふわふわがいた。ぴい、ぴい、とこっちを見上げて鳴いている。私はふわふわをそっと手の中に包む。少しでも力を入れるとぐしゃっと潰れてしまいそうなほどに、ふわふわはふわふわしている。机の上にふわふわを置いてやろうと、ふわふわを包んでいた手を開くと、もう、すやすやと眠っていた。
こいつはいったいなんなのだろうか。冷蔵庫の中から現れたことを考えると、もしかして冷蔵庫内の卵が孵化したのだろうか?と思い付いて冷蔵庫を開け、卵の数を数えた。十個入りのパックの中から、昨日、目玉焼きに使ったひとつが消えているだけであった。卵から生まれたわけではないらしい。では、どこからやってきたのだろう?いや、もしかして冷蔵庫の妖精?などと首をひねっていると、ふわふわが急に「ぴい」と声を上げた。見てみると、ふわふわはさっきと変わらない場所で、すやすや眠っていた。寝言だったらしい。
風呂から上がって冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中には夕飯の残りのほうれん草のおひたしや、ニンジンやレタスやチョコレートや缶チューハイが雑然と詰め込まれている。ふわふわが新しく生まれていないことにほっと胸をなでおろして、ミネラルウォーターを取り出して、飲む。喉をひやりした液体が下っていく感覚が心地良い。
「私も眠ろうかな」
ベッドに入ると、今日は疲れていたのかすぐにウトウトしてきて、明日のことを考えている内に眠ってしまった。
 
なんだか喉の辺りがむずむずして目が覚めた。窓の外はまだ黒くて、月の光が部屋の中を薄く照らしている。覚めない頭で、ぼうっと部屋の中を見渡してみて、はたと気づいた。机の上で眠っていたはずのふわふわがいない。気づいた瞬間、喉に感じる違和感が、猛烈な不安感と共に再び私を襲った。
喉の中に何かいるのだ。
私は飛び跳ねるように起き上がって、洗面所へ走った。鏡に向かって口を大きく開くと、舌の上に乗る白いふわふわした尻尾が映った。尻尾より先は私の身体の中へ続いている。私はぞっとして、尻尾を指先で掴んで引っ張り出そうとした。びくともしない。もう一度、さっきより力を入れて引っ張ってみる。「ぴい」と私の首の付け根の辺りから鳴き声が聞こえた。その後、尻尾は私の親指と人差し指の間をすっと抜けて、滑り落ちるように私の中へ消えていった。同時に私の背筋をひやりとした感覚が下っていった。信じられない気持ちで、もう一度、鏡に向かって口を開いてみたが、そこにはいつもより赤くなった舌とあまり整っていない歯並びが映るだけであった。
 
そういえば、おばさんが何か知っていそうな雰囲気だったのを思い出し、次の日、眠れないまま朝を迎えた私は、おばさんの部屋の扉をノックして「相談があるのですが」と近所の喫茶店へ向かった。この喫茶店は、50歳くらいのおじさんがやっている小さな店で、珈琲が苦い。窓際に、よくわからない金髪の女の子の人形や、木でできた鴨の置物や、色々なものが統一性もなく並べられている。
私が話している最中、おばさんは終始ニコニコとしていた。いつもニコニコしているが、いつもとは違う、なんというか孫を見ている時のおばあさんのようなニコニコであった。今日も相変わらず化粧が濃い。
「あれはなんなんでしょうか?」昨日のことを思い出して、少しだけ手が震えている。
「あれはね、なんというか、私にもよくわからないのよね。でもね、私、あのアパートに二十年住んでるんだけどね、あれを食べちゃったのはあなたで四人目。」
おばさんはニコニコしながらそう言った。
「私は四人目なんですか」
「そう、四人目」そう言って、おばさんは珈琲を一口飲んだ。「苦いわねぇ」と顔をしかめる。
「ふわふわを食べてしまった人達はどうなったんですか?病院とか行かなくても大丈夫なのでしょうか?」
真剣に尋ねたのだけれど、おばさんは、あっはっはと笑った。
「病院なんて行かなくても大丈夫よ、あれはそんなに悪いもんじゃないわよ。あれを食べちゃった女達はね、みんな、一年も経たない内に良い男を見つけて、結婚して幸せになります、なんて言って、どっか行っちゃった。私も食べたいなぁと思って、ずっとあのアパートに住んでるんだけどね。」
結婚という言葉を聞いて、私は動揺していた。結婚。今の私には、縁のないはずの言葉である。でも何故だか、あ、私、結婚するのか、という確信が頭に浮かんだ。
「私のところにも出てこないかしら」
おばさんは、窓の外を眺めながら小さな声で呟いた。
 
ふわふわは私の中のどこにいるのだろうか。ふわふわを食べる前と食べた後とで私の体調は特に変わることもなく、私はいつも通りの生活を送った。
二ヶ月後、私はある人とお付き合いを始め、その半年後にはプロポーズをされ、そして結婚することが決まった。おばさんの言っていたことは本当だった。私には兄も弟もいて、相手はひとりっ子だったこともあり、私は相手の家へ嫁ぐことになった。私は、おばさんにこのことを報告しようと思い、おばさんの部屋を訪れた。がちゃりとドアを開けておばさんがひょこっと顔を出す。
「おばさん、おばさんが言っていた通り、私、結婚することになりました。幸せになります。」
おばさんは慣れた様子で「あら、おめでとう。お幸せにね、また遊びに来てね」と言った。おばさんの化粧は相変わらず濃かった。
 
いよいよ彼の家へ嫁ぐ日が来た。私は彼の車の助手席で、これから始まる生活について想いを巡らせていた。お義母さんと円満に過ごせたら良いなぁ、お義父さんは少し頑固そうな人だけどうまくやっていけるかなぁ、そんなことを考えている内に眠くなって、眠ってしまった。
 
大きな音がしたような気がして目が覚めた。なにやら様子がおかしい。辺りは真っ暗で、何も見えない。それになんだか、寒い。
彼は?
彼のいるはずの方向へ手を伸ばすと何か硬いものに触れた。なんだろう。少なくとも彼でないことは分かった。人間にしては硬すぎるし、冷たいのだ。きっとこれは、生き物ではない。
彼はどこに行ったのだろう。というか、ここはどこなのだろう。何が起きたんだろう。彼はどこに行ったのだろう。怖くて、不安で、私は彼の名前を叫ぼうとした。
そのとき、ぴい、と自分の中から鳴き声が、聞こえた。
 
 
 
 

日常

講義が終わって近所の書店に行った。岩波新書蔵出し祭というキャンペーンをしていて、キャンペーン中は岩波新書1冊購入につき1回福引きに挑戦できる。福引きの商品は岩波の限定グッズ(非売品)らしい。twitterでそのキャンペーンを知ったので、講義が終わってからすぐに書店に向かったのである。新書を普段は読まないくせにグッズが欲しいばかりに書店に来たので、何を買おうか考えながらしばらく本棚の前でじっと背表紙を眺めた。眺めたというより睨みつけた。やっと1冊選んで、ついでにうろうろして、他に3冊の本を手に取り、レジへ。
レジには書店がよく似合う40代くらいの女の人がいて、ワクワクしながらその人に本を手渡した。

カードはお持ちですか?
はい、持ってます
ありがとうございます
…文庫にカバーはご利用になりますか?
いえ、いらないです
わかりました
ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…
4冊で3,262円です…10062円お預かりします
ピッピッ ガチャン
それでは、お先に6000円と…800円のお釣りです
ありがとうございました、またお越しくださいませ…

あれ、福引きは???
心の中で、今か今か、どのタイミングで来るのか、まだか、あれ、まだなのか、という感じで福引きを待ちわびながら精算をしていたが、「福引き」の「ふ」の字すら店員さんの口が発することはなかった。こういう時に、あの、福引きを…という図々しさを僕は持ち合わせていない。あ、ありがとうございますぅ…と言ってレジを立ち去り、少し切ない気分になった。
店員さん、忘れてたのかな。それとも、もう景品無くなっちゃってたのかもな、なんて考えながら、弁当を買いにスーパーへ行った。弁当しか買うつもりがなかったので、買い物カゴは持って入らなかったけれど、見て回っている内になんだか久々に自炊をしてみたいような気になって、入り口へ買い物カゴを取りに戻る。入り口に戻ると、まるでカゴの番人のように両サイドに男性店員が立っていて、客が来ると「いらっしゃいませぇ〜」と野太い声で言い、客にカゴをサッ!と手渡していた。なんだかカゴを取りに行きづらい。なんのサービスだよ、と思いながら見つからないようにそっと忍び寄り、カゴを取ろうとすると、「いらっしゃいませぇ〜」という声と共にサッ!とカゴが差し出された。目ざとかった。

今日はそんなことがあった。




汽車

汽車に乗っている。田舎なので、電車ではなく汽車。通路を挟んだ向こうの席に老夫婦が座っている。老夫婦は、この汽車に乗り換える前の汽車にも同乗していた。もう車を運転していないのかもしれない。だから汽車に乗っているのかもしれない。それにしても、汽車を乗り継いでまで行きたい場所がこの田舎にあるのだなぁ。何もないようで素敵なものはわりと沢山あるのかもしれないなぁ。夫の紫色のアウトドアのリュックがパンパンに膨れているのと反対に、妻の青色のリュックは萎んでいる。二人は仲が良さそうにずっと話をしている。素敵だなぁ、と思う。いつまで経っても仲良くどこかへ出掛けられるような二人。窓の外を眺めて何を話しているのだろう。僕には山と田圃しか見えないけれど、二人には何かが見えているのだろう。

憂き世話

フルはウロを私に渡そうとビを伸ばした。私はそんなものにはもう飽きてしまったので、視線だけはウロの方に向けて、じっとその場に座っていた。フルは「アラ、ゴキゲンナナメカナ」なんて言って、ウロを、ことり、と置いて向こうへ行った。
ここには、フルの他にも2匹のフルがいる。大きなフルと小さなフルだ。「タダイマ」と大きな声で言ってさっきのフルよりもひとまわり小さなフルがバタバタと近づいてくる。私は、このフルが好きだ。小さなフルが2本のビを私に伸ばして抱きついてくるので、私は小さなフルをペロリと舐めてみた。小さなフルは大抵の場合、似たような匂いがする。散歩している時にすれ違う小さなフルも、今私に抱きついている小さなフルも、皆同じ様な匂いを発している。
私は1日1回は外に出る。外は気持ちが良い。外には沢山のフルがいる。大きいのから小さいのまで、どこを見てもフルだらけだ。そんな中で私は、たまに仲間とすれ違うことがある。「やぁ、今日も元気そうだね」なんて簡単に挨拶を交わしたり「君のフルはなんだかひょろ長いね」なんて笑い合ったりする。それにしても、すれ違う大半が仲間ではなくフルであるが、フルの繁殖力には驚くばかりである。世界にはどれ程のフルがいるのだろう。
ある日、私はフルのパニが膨らんでいることに気付いた。いつから膨らみはじめたのだろう?毎日眺めているので気づかなかったが、明らかに他のフルに比べてパニが膨らんでいる。小さなフルは、フルのパニにぺをくっつけては何かを話している。大きなフル(パニが膨らんでいない方のフル)はフルのパニに嬉しそうに声をかけている。
しばらくして、フルがいなくなった。大きなフルと小さなフルと私だけがここにいて、2匹のフルはソワソワしている。でも、2匹はなんだか嬉しそうにも見える。日も暮れて、私が眠りにつくかつかないかという時、突然、なんだかうるさい音が聞こえたかと思うと、大きなフルは小さなフルを連れてどこかへ行ってしまった。夜遅くに騒がしいなぁ、と思いながら私は眠りについた。
次の日、目を覚ますと大きなフルと小さなフルは帰ってきているようだった。フルはどこへ行ったのかまだ帰ってこない。
数日経って、フルが帰ってきた。膨らんでいたパニは元に戻っていた。大きなフルが何かを抱えている。小さなフルがそれをきゃあきゃあ言いながら眺めている。なんだろうと思い、私も大きなフルに近づいて様子を伺ってみる。大きなフルが2本のビを絡ませていて、2本のビの間から小さなピが覗いていた。驚いたことに、大きなフルは小さなフルよりもさらに小さなフルを抱えていたのだった。フルが増えたのだ。驚くべき繁殖力だ。
小さなフルよりもさらに小さなフルは自分で生活することが出来ないらしい。おそらく生まれたてなのだろう。もしかすると、膨らんでいたフルのパニから分裂して生まれたのかもしれない。パニの膨らみは、たしかこの小さな小さなフルと同じくらいだったような気がするし、あの膨らみがこの小さな小さなフルだったとしたならば、この小さな小さなフルがここに来たときにフルのパニが元に戻っていたのも納得できる。生命の神秘というやつか。
フルは分裂して増えるという結論に達したところで、私は眠くなって、ウォムを閉じた。





憂き世話

僕はウサギだ。これは比喩でもなんでもなく、近所の遊園地でウサギの着ぐるみを着て風船を配っている。バイトの求人を探していたら、たまたま見つけた仕事だった。なんとなく楽しそうだと思い、なんとなく応募したら、数日後には、僕はウサギになっていた。
大学生活はうんざりするほどに退屈だ。入学したての頃はできたばかりの友達の家に押しかけたり、講義をサボって遊びに行ったりしていた。入学して2年経った今でも友人達は同じ様な生活をしている。僕はというと、ある日、いつも通り友人4人と缶チューハイ発泡酒の空き缶の転がる部屋の中で「今日もオールで酒飲むぞぉぉ!」みたいなテンションの中、ふと、あれ?僕はこんな生活を楽しいと思ってるのか?なんて考え始めたが最後、もうその部屋に行くことはなくなった。友人達はしばらくは遊ぼうと誘ってきたが、僕がなにかと理由をつけて断っていると、誘われる回数も減っていき、今では話すことも滅多になくなった。僕は勉強も好きな方ではないので、休みの日に勉強するということもない。何か、生活に刺激が欲しいなぁ、バイトでもしてみるか、ということで今、僕はウサギをしている。

風船を配るのは思っていたよりも楽しい。特に、いろいろな子供がいるのを見るのが楽しい。自分から近寄って風船を受け取りに来る子もいれば、怖がって親に促されても近寄って来ない子もいる。そういう子は怖がっているわりにずっとこっちを見つめ続ける。手を振ると「うわぁぁ」と叫んで親にしがみつく。見ていて楽しい。僕は案外子供が好きなのだということにウサギになって初めて気が付いた。
ひとりの男の子が僕の方にずんずん近寄って来て、着ぐるみをペタペタ触っているうちに背中のファスナーの存在に気付きハッとした顔をした。笑いをこらえながら風船を渡すと、その子はなんとも言えぬ顔をしながら立ち去っていった。

冷蔵庫を開けて冷やしていた缶ビールを取り出し、ベランダへ出る。ポケットから煙草を取り出して火を点ける。風船を配るのは楽しいが、疲れる。疲れを癒すために、帰宅してからのビールと煙草は日課のようなものになっている。子供達はまさかウサギがビールを飲みながら煙草を吸うなんて思ってもいないだろう。ぼーっと煙草から立ち上る紫色の煙を眺めていると、隣の部屋の窓が開いて、ベランダに人が出てくる音がした。その後隣のベランダからカチカチと火打石を鳴らす音がして、小さな溜め息が聞こえた。
「すいません」
僕は、不意に声をかけられてビクッと身体を揺らした。
「すいません、ライター点かないんで、貸してもらえませんか?」
横を見ると、若い女が隣のベランダから少し身を乗り出して、こちらのベランダを覗き込んでいる。茶色くて肩に掛かる程度の長さの髪が風に揺れている。見た感じ、自分と同じくらいの年齢なので大学生だろう。隣に女の子が住んでいるなんて初めて知った。断る理由も特にないので、
「あぁ、はい、どうぞ。」
僕は彼女にライターを渡す。
「ありがとう、助かります。」
彼女はライターを受け取ると一旦、ベランダの中に消えた。5秒くらいして、またひょこっと顔を出して、ライターを返してきた。薄い唇には火を点けたばかりの煙草をくわえている。
「なんで僕が煙草吸ってるの分かったんですか?」
と尋ねると、彼女はきょとんとした顔をした。
「なんでって、煙草の匂いがしたからだよ。」
と答えた。なんだこいつ、タメ口を使うのが早いな。僕はビールを一口飲んで、ああ、そうなんですか、と適当に相槌を打った。
「あなた大学生?なんか死んだような顔してるけど。」
今度は女が尋ねてきた。尋ねるのは良いけれど、失礼すぎるぞ、僕のライターがなかったらお前は煙草を吸えてないんだぞ、分かってんのか。
「大学生ですよ。バイト終わりで疲れてるから死んだような顔してるんじゃないですかね。」
イライラしながら、それでもちゃんと答えるのは、この状況を少しだけ楽しく感じているからである。突然、隣のベランダから若い女の子にライターを貸してくれと頼まれることなんてそうそう無いし、ましてや、その女の子がこんなに癖のある人間であることなんてもっと無いだろう。
「へぇ、バイトか…。お疲れ様です。あたしはバイトしてないよ、しなきゃ金無いんだけどね、なんせ面倒でね、バイト何してんの?」
彼女はさほど興味のなさそうな口調で、また質問をしてきた。僕の情報を聞き出して楽しいのだろうか、いや、口調からしてべつに楽しくはないんだろうな。たまたま喫煙中に話す相手がいるから話してるだけだろう。よし、少しだけ楽しませてあげようじゃないか。
「ウサギしてます。」
僕は、少し得意げに言った。ウサギしてます。こんなに意味の分からない響きはなかなか聞くことはできないだろう。相手はどんな反応をするだろうか。彼女へ視線を向ける。
「へぇ、ウサギしてるんだ、ふぅん。楽しそうだね。」
素っ気ないものだ。彼女には冗談が通じないのだろうか。渾身の冗談がスルーされたので不貞腐れながら、言い訳の意味も含めて言う。
「ウサギって言っても、着ぐるみのウサギですけどね。遊園地で子供たちに風船を配ってるんです。」
僕が言うと、彼女はなぜかニコッと笑った。その笑顔が以外にも可愛らしくて僕は少し照れてしまう。
「いいね、幸せを配ってるみたいだね。あたしにはライターを貸してくれたし。子供たちはいつか、君のこと思い出して、幸せな気持ちになるだろうし、あたしはまた君にライターを借りるよ。あたしお金ないからライター買うのも勿体無いし。」
なんだか、またライターを貸せという圧力をひしひしと感じる発言だが、彼女のこの言葉に僕はハッとした。子供たちは、いつかウサギのことを思い出して幸せな気持ちになってくれるのだろうか。こんな煙草臭いウサギでも、子供たちに幸せを配ることができているのだろうか。なんだか泣きそうになる。
彼女の煙草はもうかなり短くなっている。
「それなら、このライター、あげるよ。」
涙をこらえながらライターを渡すと、彼女は嬉しそうな顔をしながら部屋の中に去っていった。







憂き世話

この部屋に居ると、落ち着くので、私はよくこの部屋を訪れます。私は几帳面な性格ではなく、どちらかというと大雑把な性格をしているせいもあって、この雑然とした空間を堪らなく心地良く感じるのです。今、私の周囲は様々な物で溢れて、少しでも手を触れたならばそれらが崩れ落ちて、生き埋めになってしまいそうで、私はきょろきょろと辺りを見回しては呼吸を整えて、大丈夫、此処はこんなにも居心地が良いのだから、と自分を慰めております。此処にある物たちは、きっとそれぞれに理由があってこの部屋に匿われているのでしょう。なんとなく、そんな気が致します。この手足の妙に長い猿のぬいぐるみも、きっと何か意味があってこの様な形をしているはずです。根拠はありませんが、私はそう思います。この部屋の広さはどれ程のものなのでしょうか。なにしろ沢山の物が積み重なって、見通しが悪いものですから、奥行きがどれくらいあるのか、私が今この部屋のどの辺りに居るのかすらも全く見当がつきません。あなたも、もしかしたら、この部屋の何処かにいるのではないですか。ほら、昔話してくれましたよね、手足の妙に長い猿のぬいぐるみの話。こいつは僕の母親みたいなものだから、と言って、あなたはどこへ行くにもそのぬいぐるみの手足をあなたの胴体に巻き付けて、嬉しそうな顔をしていましたね。入り口も出口もございません。私はこの部屋が好き、という訳ではございません。ただ、居心地が良いというだけです。ほら、あそこ、誰かがこっちを見ている。手を伸ばせば届きそうな距離です。でも、ほら、届かない。こんなにも物が溢れているのに、何処までも走っていけるのです。誰かが、泣いている、笑っている、怒っている、みんなみんな、息を吸って吐いている、たしか、私は少しの間息を止めてみようと思ったのでした。この部屋は落ち着くけれど、長居をしてしまうのは良くない様です。息を吸うと、また、私は外へ放り出されて、そして、いつも、息が詰まるのです。

機械音痴

f:id:toumei88:20160504160900j:image母親は携帯電話を使うのが下手だ。スマホを使っているくせにyoutubeの見方が分からない。LINEも使うが、なぜかカタコト。たまに倒置法。ごく稀にではあるが「あ」「き」「く」など謎の平仮名が送られてくる。怖い。
祖母も携帯電話を使うのが下手だ。メールは件名の所に本文を入力してきたり、急に空メールを送ってきたりする。使うのが下手というか電話という機能しか使えないと言ったほうが正しいのかもしれない。電話はめちゃくちゃかけてくる。用事がなくてもかけてくる。深刻な声で弟の包茎手術を報告してきたりする。そんな祖母でもたまにカメラ機能を使う。ある日、「この写真見てみぃ」と嬉しそうに携帯電話の画面を見せてくるので、なんだろう、と思いながら画面を覗いてみた。

ナスの画像だった。

みずみずしく光沢のあるナス。濃い紫色をした、画面越しにも新鮮さが伝わってくるようなナス。
彼女は何を伝えたかったのだろうか。怖い。

憂き世話

「わたしは貴方の椅子になって差し上げたいの。」

「椅子か、そんな物になってどうするつもりなんだい?そんな物にならなくともきみは僕の恋人であるし、それに、きみは椅子になるにしては不恰好な形をしているよ。きっと、安定感が無いものだから、誰にも座られることなく、終わってしまうよ。」

「あら、貴方が座ってくれれば良いの。それだけで、良いの。不恰好な椅子だなぁ、と笑いながら身を委ねてくださるなら、そんなに素晴らしいことはないでしょう?」

「そんな椅子に座り続けていたら、腰を悪くしてしまうじゃないか。」

「立ち続けて腰を悪くするより、ましよ。でも、わたしは貴方の御身体を心配して椅子になりたいと言うのではないわ。貴方が座りたい時に座るための椅子になりたいの。ふふ、そんな顔をなさらないで。」

「きみの言っていることは、僕にはよく分からないな。まるで、要領を得ていないよ。きみの話を聞いていると、まるで水を掴むような気持ちになる。」

「あら、貴方、水なんて掴めるわけないじゃない。」

「そんなことは百も承知だよ。僕が言いたいのはそんなことじゃないよ。」

「分かっているわ、あのね、わたしはそんなに難しい話をしているわけではないの。貴方はわたしではないし、わたしは貴方ではないでしょう?それと同じで、貴方の椅子は貴方の鞄ではないし、貴方の鞄は貴方の椅子ではないのよ。どんなに不恰好でも、それは貴方の椅子なの。」

「だけど、不恰好な椅子よりも、きちんと調整された椅子の方が良いなぁ。道具には道具の役割があるからね。使い良い物を選びたいのは当然のことじゃないかな。」

「意地悪なことを言うのね、いいわ、何処からでも綺麗な椅子を探して来れば良いわ。そんな物、何処にでもある詰まらない物でしかないわ。そんな物、貴方の椅子ではないわ。使うのは貴方じゃなくても良いの。貴方は、貴方の椅子を無くして、何も考えずに、立ったり座ったりして、それはそれは滑稽ね。」

「怒らないでくれ、僕が悪かったよ。うん、きみは僕の椅子だね。僕の不恰好な椅子だ。全くもって座り辛い椅子だ。勢いをつけて座ったら、崩れてしまいそうで、恐ろしい椅子だ。だから、僕は静かに腰掛けるし、手入れだって欠かさないだろう。不思議なことに、僕はその不恰好な椅子を大切に想っているんだ。でも、何故大切に想っているのだろう。いくら頭を捻っても、分からない。」

「簡単なことよ。それが貴方の椅子だからよ。ふふ、貴方のものなのよ。」

大人感

ふとした時に、沸々と湧き上がるこの嫌な感情の名前は何というのだろう?というか、名前のある感情なのだろうか?考えたところで答えなど誰にも分からない。もし分かるとしたら、それは、それを抱えている僕自身にでしかありえない。
いつもいつも、考えている。僕は何者なのだろう。昔から、大人びていると言われている僕は、大人が僕を見る目がどうしても嫌いだった。大人びていたらしい僕に、大人は何かと頼み事をするのであった。あの子とも遊んであげてね、君には期待しているよ、君がクラスをまとめるんだよ、みんな君のことが好きだから、そんな風に。
保育園に通っていた頃、友達が、鳥の羽根を無くしたと言って探し回っていたことがあった。僕は、その子が羽根を探すのを手伝っていた。先生がやってきて、ご飯の時間だからこっちに来なさい、と言った。僕は、羽根を探しているから待ってくれ、そんな風なことを言った。羽根なんていいから、早く来なさい。先生は叱る様な口調でそう言った。
子どもの考えていることなんて、大人にとっては稚拙な思考でしかない。子どもが真剣に悩んで真剣に紡ぐ言葉も、大人にとっては「子どもの言葉」でしかない。何を考えていて、何を喋っても、僕は子どもでしかない。それを悟った。それからは、僕は自分の思っていることを言えなくなってしまった。僕は自分を潰されるのが怖かった。僕の口から飛び出した僕の言葉が、まともに聞かれることもなく、ただ地面に落下して、そのまま腐っていくような、そんな気がしていた。
大人びて見られていたのはそのせいかもしれない。
そして、僕は大人にどれだけ褒められても、喜ぶことができなくなった。だって、大人は僕を子どもとしてしか見ていなくて、褒めれば言うことを聞くと思っていて、僕は子どもでしかなかったから。そんな屈辱を味わうくらいなら、見られていない方が良いと思った。僕は自分を押し殺して、生きていた。
大人、と言われる年齢になったが、自分を押し殺してきたせいで、自分でも自分が分からなくなってしまった。身体は確かに見覚えのあるものだが、その中に巣食う生き物が果たして自分であるのか、分からない。知らない間に喰い潰されていた。僕を内から喰い潰したのは僕自身で、僕を生んだのは紛れもなく大人達である。僕も大人になってしまった。無邪気さの塊の様な小さな子どもを見ていると、なんだか謝りたくなる。ごめんね、僕は大人になってしまった。君が君を飲み込むいつかの日を、僕が創り出してしまうのかもしれない。ごめんね、

感情は自分。自分は感情。押し殺された感情は、形をなくして、溶けていく。それを餌に醜い生き物はぶくぶくと太っていき、そして死んでいく。僕に名前は無い。

昔、僕のことを好きだと言ってくれた女の子がいた。背が高くて、優しい女の子。
僕はその頃、恋愛の仕方が全くと言って良い程に分かっていなくて、初めて付き合った女の子と不味い別れ方をした後で(別れたと言うより掴み損ねたと言う方がしっくりくる)、不味い別れ方をしたばかりに口の中に広がり続けるその苦味を噛み潰す日々を過ごしていた。
僕は、その子が僕のことを好きだという気持ちに薄々気付いていた。しかし、もしそれを打ち明けられてしまえば、僕はその子を傷付けてしまうということにも薄々気付いていた。それなのに、僕の横でその子の気持ちが高ぶっていく様子をただただ見ないふりをしてしまって、その結果、その子は僕に好きだと伝えてしまった。本当は、断わろうと思っていた。僕はその頃、恋愛の仕方が全くと言って良い程に分かっていなくて、口の中には一杯に苦味が広がっていたからだ。そんなところにその子の甘い気持ちを放り込んでしまうことは、是が非でも避けたかったのだ。甘い香りは苦味の中に飲み込まれてしまい、僕の口の中には今までよりも深く、複雑な味が、それでも苦いままに支配して、僕はそれを飲み下すこともできずに噛み潰し続けなければならなくなってしまう。断わろうと思っていたのだ。その子が涙を流しさえしなければ、僕は、俯いて足元を眺めながら、いいよ、なんて言わなかったはずなのに。
その日から僕は、その子のことを好きになろうと努めた。応えようとしていた。口の中は相変わらず苦くて、その子は相変わらず僕のことが好きだった。
しばらく経って、僕はその子に別れを告げた。理由は山程あったが、その全ては僕自身の問題であった。優しい女の子だったのだ。僕の思っていたよりも何倍も。しかし、僕が、その子が思っている何倍もつまらない人間であることに、その子は気付きはしなかった。だから、僕は気付いてもらいたかった。だから別れを告げた。
口の中は苦かった。いつもいつも苦かった。僕は、口の中一杯に広がる苦味に依存していた。たまに、喉の奥がはち切れそうに痛くなることがあった。そんな時、僕は口の中の苦味を飲み込んだ。飲み込む度に僕の意識は、くらくらと、震えた。その頃、その感覚が僕の全てだった。