回想

小学二年生の頃だった。


幼馴染とふたりで下校していると、近所のお婆さんに声をかけられた。 「あら、〇〇ちゃん。大変なことだったなぁ」 何のことを言っているのか分からなかったので聞き返すと、お婆さんは沈んだ声で 「あぁ、知らんかっただか。あのな、おじいさんが帰って来とんさるで」 と言った。


玄関の扉を開くと、家の中には、いつもとは違う、甘い香りが充満している。 玄関を入って左側は、和室になっている。障子の向こう側で、大人たちが囁き合う声が聴こえた。 障子を開ける。黒い服を着た大人たちが、白い布団に寝転がり、白い布を顔にかけられた祖父を取り囲んでいる。 「顔を見てあげんさい」 祖母に言われて、恐る恐る、祖父の顔にかけられた布を捲る。 祖父の顔は黄色く、鼻の穴と唇の隙間から、白い綿のようなものがはみ出ている。寝息も、鼾も、聴こえない。静か過ぎる寝顔だった。


読経を聞きながら、微睡んでしまっていた。自分の後方で、誰かが啜り泣いている。家の前を流れる川の音と、和尚の声が、溶け合って、耳から入り込んでくる。そして、そのまま身体の中を流れていくように感じる。大量の菊が放つ甘い匂いが、部屋の中に満ちている。菊の匂いと、黒い服を着た人々に溢れた部屋で、棺だけが白く、目に沁みる。


祖父の骨は、白と灰色と黒の破片と粉だった。 「仏さんが座っているような形だから、喉仏って言うんですよ。この骨は硬いから燃え残ることが多いんです」 火葬場の職員が、輪っかのような骨を箸でつまみ上げて説明する。 「そうなんかぁ」「本当だなぁ、仏さんの形だ」「あぁ、立派な仏さんだなぁ」 大人たちが囁き合う。 親族で、順々に箸を使って、骨を壺の中に運んでいく。箸で渡して、箸で受け取る。バケツリレーのようにして、骨は壺の中へ収まっていく。 ある程度の量が壺の中へと収められると、かさを減らして、壺の蓋を閉めるために、箸で上から押さえつけるように骨を砕いていく。 親族の間で順々に壺が回される。 「ほら、砕いてみんさい」 そう言われて、骨を砕くことになった。 硬くて軽い、不思議な感触が、小さな手に纏わりつく。


 

ごりっ、ごりっ。


 

手に力を入れる度に、祖父との思い出が、砕けて、散らばっていく気がした。

 


ごりっ、ごりっ。


 

そういえば、最後に怒らせてしまったのは僕だったな、とか、スーパーの食玩売り場で、何を買ってもらおうか迷う僕を、何も言わずにじっと待ってくれていたな、とか、お見舞いに行った時、心配そうにしている僕の顔を見て、身体中にチューブを繋がれているくせに「おじいさんがウルトラマンになったるけえな、大丈夫だで」なんて言ってくれたな、とか。


 

ごりっ、ごりっ。

 


涙は出なかった。

こんなに簡単に粉々になってしまうものが、本当に祖父なのだろうか。 この破片や粉が、本当に祖父なのだろうか。 たぶん違う。

だから、涙は出なかった。



祖父の骨が収められた壺が、白く、光を反射している。壺の表面に、うっすらと自分の影が映っていた。

憂き世話


運動会を明日に控えて、教室の中はいつもより少しだけ、そわそわと落ち着かない。

お弁当のオカズは何だろうね、おやつも持っていこうよ、飴食い競争楽しみだなぁ、飴食い競争は小麦粉で真っ白になるから嫌だなぁ、小麦粉美味しくないよねぇ…。

僕は、運動会が嫌いだった。走るのはあまり得意ではないし、そもそも運動が苦手だから。運動会なんて、運動が得意な奴が目立つための行事だとしか思えない。運動が得意な奴らは、なぜだか、みんなから慕われている。勉強なんかできなくても、慕われていて、奴らの周りには友達が集まっていて、僕の隣にはいつもトシちゃんとヒロくんしかいない。
「明日は運動会です、暑くなりそうなので水分補給を忘れない様にしましょうね、みんなの頑張っている姿をお家の人に見せてあげましょうね、それではみなさん、また明日。」


先生がそう言い終わるのと同時に僕は、席を立って教室から逃げる。早いよぉ、待ってよぉ、とトシちゃんが後からついてくる。トシちゃんが遅いんだよ、と僕は笑いながら振り向く。トシちゃんは僕よりも足が遅い。だから、僕は少しだけ意地悪な気持ちになって、トシちゃんから逃げるふりをして走り出す。トシちゃんは、待ってよぉ、と弱々しく叫びながら、僕を追いかける。僕は、運動会が嫌いだ。

 

運動会が始まると、テントの中は一気に暑くなった。みんな、大きな声を出して、誰々くん頑張れー、とか、誰々ちゃん負けるなー、とか叫んでいる。ただ、そこで呼ばれる名前は、いつもクラスの中心にいるような奴らの名前だった。そういえばヒロくんがこの競技に出てるんだっけ、と思い出して、僕の目がヒロくんを探す。丁度ヒロくんにバトンが渡ったところだった。ヒロくん頑張れー、僕は叫ぶ。ヒロくん、頑張れ、そう叫んでいるのは僕とトシちゃんだけだった。みんな「頑張れー、頑張れー、」と機械みたいに繰り返しているように見えた。テントの中には、ヒロくんの名前を叫ぶ人間は、僕らの他にいなかった。

 

バトンが手渡された。僕はバトンをしっかり握りしめて走り出した。前を走る人の背中がどんどんと遠くなっていく。思っていた通り、僕は足が遅くて、どれだけ頑張ってみても、上手く足が動かない。僕の名前は聞こえない。トシちゃんとヒロくんは、きっと僕の名前を叫んでくれているだろう。でも、その小さな叫びは、その他何百の熱気の中に飲み込まれて、埋もれて、僕は、ひとりだった。それでも走るのは、たぶん、僕はひとりじゃないと思い込む為で、それが、僕ができる精一杯の生き方だった。
地面が近づいて来る。バトンが手から離れて、転がっていく。

 

保健室の中は、静かで、さっきまでの熱気が嘘のようだった。保健室の先生が僕の膝小僧に消毒液を塗ってくれた。そうすると、傷口から泡が立って、先生が、「これは、ばい菌が死んでいく証拠なのよ」と言った。僕の膝小僧に、いつから、ばい菌が巣食っていたのだろう、と思った。本当は、自分がばい菌なのではないかとも思った。
先生は、傷口の上にガーゼを被せて、テープで固定した。「先生は少し職員室に戻るけど、もう少し休んでいく?」と聞かれたので、頷くと、先生はふふっと笑って保健室から出ていった。

僕は、静かで無機質な部屋の中で、ひとり、椅子に腰掛けていた。窓の外では、みんな楽しそうに、同じ方向へ視線を向けていて、ヒロくんもトシちゃんも、その中に紛れて、校庭の内側で目立つ人や目立たない人たちを見つめていた。少し寂しくなって、保健室の中を見回してみたけれど、よくわからない器具や、薬品が並んだ棚や、変なキャラクターが描かれた歯磨きを呼びかけるポスターや、特に面白いものもなかった。

そのうち、なんとなく、傷口が気になって、皮膚からペリペリとテープを剥がして、ガーゼの下の傷口を見てみた。
熟れ過ぎて、溶け始めたトマトのようだと思った。ばい菌が殺されて、清潔なはずのそこは、まるで、腐った赤い果実のようだった。
あぁ、僕は人間じゃないのではないか、僕の身体はトマトで出来ていて、自分でも気付かないうちに、こんなにドロドロに腐っていたんだ、誰も、僕がトマトだなんて教えてくれなかった、いや、気付いてくれなかった、僕は人間じゃなかった。
保健室の先生が戻ってきて、僕が泣いているのに気付いた。あら、こんなに暑いのにそんな風に泣いてると、脱水症状が心配ね、なんて言ってコップに水を注いでくれた。そうして、先生は僕の隣に座った。僕は、自分がトマトだということに気付いたんだ、と先生に話した。先生は真剣に僕を見つめて話を聞いてくれた。話を聞き終わると、先生は微笑んで言った。


「君はトマトなのね、私、君のこと人間に見えていたけれど、そうか、トマトだったのか。トマトって美味しいわよね、私、好きよ。」


僕は、でも腐ったトマトはもう食べられないよ、と言った。先生はふふっと笑った。


「君みたいに小さなトマトが、まだ腐るはずないじゃない。ちょっとぶつけて傷が出来ちゃっただけ。大丈夫、君は人間の形をしたトマトだから、私の経験上そんな傷はすぐに治ってしまうわ。…それとね、必要最低限の水しか与えずに育ったトマトは、とても甘くなるの。私の推測だけど、君は、たぶん、とても甘いトマトになれるんじゃないかな。君はこれから、どんどん大きくなって、喉も渇いてしまう時も沢山あるでしょうけれど、枯れそうになる前にほんの少しだけ、水を飲んだら良いの。飲み過ぎたらだめよ、世の中にはそういう時に水を飲み過ぎてしまうトマトが沢山いるけれど、君は飲み過ぎたらだめ。」


先生の話はよく分からなかったけれど、なんだか嬉しくて、僕は頷いて、それからコップの水を一気に飲み干した。
「あら、飲み過ぎたらだめだって言ったばかりなのにな。」
先生はふふっと笑った。

 

先生の言った通り、傷はすぐに塞がった。僕は自分がトマトであることを誰にも言っていない。言うつもりもない。保健室の先生が、僕がトマトであることを知っている唯一の存在だ。ヒロくんとトシちゃんにも僕がトマトであることを内緒にしているのは、いつだったか、彼らがトマトが嫌いだと言っていたから。僕は人間のふりをして、これから長い時間を生きていく。あの時、先生は僕に少しだけの水を与えてくれた。

それだけで、僕は、大丈夫なのだ。

寒い、雪が積もりつつある夜。

恋人が飲み会から帰ってくるのを待っている。遅い、って拗ねたら「誰も待っててなんて言ってないよ」と諭されるので拗ねない。本当は少し寂しいけど、まぁ、拗ねない気の持ち方を会得しつつある。たぶん。

 

就職に向けて、宿題みたいな感じで渡されたペン字練習帳でカタカナを練習しつつ、見汐さんのブログを遡って、名前があげられているアーティストをYouTubeで片っ端から検索しまくっている。ながら勉強、ダメって教わったはずなのに、高校受験の時でさえ「音があったほうが集中できる!」と言い張り、テレビをつけた部屋で勉強していた。何故か、かたくなにながら勉強をやめなかった僕。その結果アホに育った僕。

好きなアーティストの好きな音楽を聴いてみたくなる時期が年に数回ある。大抵はちょっと聴いてヘェ〜って感じで終わらせてしまうのだけれど。突き詰められない自分に馬鹿野郎もっとちゃんと聴けよ!と言いたくなる。色々聴いてみて今日1番やべえなぁと思ったのは浅川マキ。めちゃくちゃ良かった。空気公団も良かった。いろんな曲を聴いてみよう。決意。

 

卒論も進めなきゃなぁ。提出まで2ヶ月ないのに全然進んでない。自己嫌悪。ブログ更新してる場合じゃないのは分かっています。

バイト、定期的に「この日入れない?」ってラインがきて増やされそうになるのもやだなぁ。忘年会の時期だから仕方ないけど、毎回断るのも気を使う。

 

最近はそんな感じの生活で、そんな感じに生きています。

恋人の中にいつまでも昔の男の影が見えて、苦しい。いつまでもいつまでも付き纏う。あの男と離れるために、おれと一緒にいるんだろう。たぶん。それが全てではなくても、そうなのだろう。

 

いつまで、孤独なのだろう、僕ら。

12月

iPhoneを同期させたくて、pcにつないでみるのだが、pcが悪いのかケーブルが悪いのか、読み込んでくれない。

何度か電源を落としてみたり、ケーブルを変えてみたりするのだけれど、一向に読み込んでくれるような気配はない。

つい先日まで、ちゃんと使えていたのになぁ。

 

恋人は飲み会に行っている。二次会に行くか行かないか連絡してね、と言ったはずなのだけれど、連絡はなし。時間的に多分二次会に行っているのだと思う。30分位前にLINEを送ったけど、返信もなし。こういう時はいつもいつも、彼女が以前、嘘を吐いてはあの男と会っていたのを思い出してしまう。もう大丈夫だと思う。心から信じてはいない。無償の愛なんて幻想なのだろうな、悔しいけれど。

 

明日から寒波がやって来て、この辺りでは降雪の可能性があるという。ベランダに出て、冷たい空気を鼻の奥で受け止める。あぁもう冬なのだ。

 

早朝、真白く降り積もった新雪に新しく足跡をつけるように、去年のあの日から降り積もってきた日々を思い返す。雪を踏む足に力がこもる。ぎゅっ、と足元で雪が小さく悲鳴を上げる。記憶は溶けない。頭の中で踏み固められて、靴底の泥に黒く汚され続ける。

 

雪なんて降らなければ良いのになぁ。

冬が近づいてきたような

ここ数日で一気に空気が冷えた。一昨日、冬の空気になった気がして「今日は霰が降りそうだなぁ」と思っていたら、案の定、バイトが終わって帰ろうとしている頃、1日中降り続けていた雨の中に小さな氷が混じり始めた。

 

冬の匂い、という表現があるが、なるほど冬になると思い出すことがいくつかあって、その記憶と共に冬の冷たい空気が鼻から肺へと抜けていくあのなんとも言えない感触がまざまざと思い出される。鼻から通る冷気の感触は、たしかに何かの匂いを嗅ぐ時のあの感触と似ている。

 

実家があるあたりは山と山の谷になっているせいか、毎年、市街地よりも多くの雪が積もる。去年の冬は大雪で、実家の祖母から「身長くらい積もった」とメールが届いた。それは言い過ぎだろう、と思っていると今度は母から画像が送られてきた。やはり祖母の身長ほどは積もっていなかったが、それでも1メートル以上は積もっている様子だった。

市街地でも踏み固められた雪で普段より地面が高くなるくらいには積もっていた。

 

今年も大雪になるのだろうか。

 

 

 

 

雑記

特に理由なんてなくても、なんだか気持ちが落ち込む日っていうのがあって、今日はそれ。本当は理由があるのかもしれないし、ある気がするけれど、それは理由と呼ぶには少し曖昧過ぎるから無いのと同じ。と自分に言い聞かせてみる。

 

昨日、注文したCDと詩集の発送通知メールが来た。いつ届くのだろう。まだかまだか、と待ち焦がれるこの小さな幸せ。そういう幸せが少しずつ積み重なるような生活をいつまでもしていたい。

 

学生でいられるのもあと数ヶ月。やり残したことなんて山ほどあるのだろうな。もっとこうしとけば良かったなぁ、とか、あの時なんであんなことしたんだろう、とか沢山ある。

大学に4年間通った後、自分に何が残るのだろうか。

なんだかあまり思いつかない。

眠くなくても暇なら寝てみる。スマホをいじって1日が終わる。そんなダラダラとした生活をしてしまう性分なので、もっと真面目に学べば人生少しは今よりも良い方へ進んでいたのではないか、と後悔もする。

そうは言っても、今ここにいる自分が自分なのだから後悔しても仕方がない。当然のことだけれど、良くも悪くも自分はここにしかいない。

後悔は多いけれど、でも、得たものも確かにある。

人生きっと悪いことばかりではないのだ。悪いことばかり目につくだけだ。きっと。と自分に言い聞かせてみる。

 

今日は良い日でもなかったけど、悪い日でもなかったよ。

 

 

祖母との電話から

祖母と電話をした。祖母はよく電話をかけてくる。最近は夜中の23時頃にかけてくることが多い。寝た方が良いよ、と言うと、あんたは忙しくて夜中しかまともに電話に出れんから、と言っていた。昔から両親は共働きで、家に帰ってくるのは早くても19時や20時だった。だから僕たち姉弟は祖母に育てられたようなもので、なぜだかはわからないけれど特に祖母は僕のことを可愛がってくれる。そして、なぜだか僕も家族の中で1番心を許せるのは祖母だと思っている。

 

電話の内容はいつも通りで、近況報告のような話ばかりだった。弟の祖母に対する当たりがきつい話、父親が高い車を買って母親がそれに怒っている話、先日のグラウンドゴルフ大会の成績の話。

父親が母親に怒られている話をしているといつしか祖父の話になった。

祖父は息子(僕の父)が教師になって教師の嫁(僕の母)をもらったことに鼻高々で「これでもう、わしは仕事を辞めてのんびりできるわ」と自慢し回ったあげく、後に引けなくなって本当に定年になる2年前の58歳にして仕事を辞めてしまったらしい。

そんな話、初めて聞いた。

 

祖父は僕が小学校2年生の時に亡くなった。卒業式が終わって家に帰る最中、近所のおばあさんから「おじいさん、亡くなったで」と聞かされて、走って家まで帰ったことを覚えている。

 

電話の最中、祖母は祖父と離婚したかった、と言った。

嫁いできてから、祖父とその母親である姑から沢山いじめられたのだと言う。それに、祖父はお金がないのに飲み回ってばかりいて、祖母はその分パートで働いて、ギリギリの生活をしていたらしい。その状況で、息子を大学に行かせ、娘を短大に行かせていたのだから、祖母の苦労は相当なものだったのだろう。

もし祖母が祖父と離婚していたら、僕もここにいないのだから、本当に頭が上がらない。

 

祖父が亡くなってから、今でも、祖母は祖父を思い出して泣くことがある。いろいろなことがあって、苦しかったとしても、悲しかったとしても、それでもやはり祖母は祖父を愛していたのだろう。

 

だから人間はわからない。どんなに苦しくて悲しくても、一緒にいるというだけで愛してしまうことができる。

 

考えてみれば、自分も今の恋人に対して苦しくて悲しくて仕方ないけれど、一緒にいるだけでなんだか全部(どうでもよくはならないけれど)なんとかなるような気がしてしまう。

もちろん苦しくて悲しいだけではないのだけれど、きっとどんなに苦しくて悲しくても奥の奥の部分で大丈夫なのだと感じてしまうのだと思う。

それが愛なのかはわからないけれど。

 

僕にも祖母と同じ血が流れているんだなぁ、と思った。

 

電話の後、しばらくして、恋人が帰ってきた。彼女は今実習中で、夜遅くまで実習の準備やら何やらで疲れきった彼女は一瞬で服を着替えてベッドへ飛び込み、一瞬で眠ってしまった。

少し浮気性で寂しがりやでやんちゃで真面目な彼女に、良い夢を見続けて欲しい。

 

 

憂き世話

 「怖いから見たくない!」

そう言って絢子はトイレから走って出ていく。

検査窓に赤紫色の線がうっすらと浮かんでくる。段々と色が濃くなっていく線の左側には真っ白な空白。線は一分ほどではっきりと現れた。まだなんとなく安心できず、そのまま数分、小さな検査窓を見つめていたが、現れた線は一本だけだった。

「大丈夫だったよ」

僕は大きな声で言う。

妊娠検査薬を持って、トイレを出る。絢子はベッドの上に座っている。

「大丈夫、陰性だったよ」

僕は、絢子というよりも絢子の不安そうな目に話しかけるように言う。

「良かったぁ」

僕は手に握っていた検査薬を絢子に渡す。絢子が検査窓をじっと見つめる。

「ほんとだ、陰性だ。赤ちゃんいなかったね」

絢子がホッとした様子で立ち上がり、検査薬をゴミ箱に捨てる。かさり、と検査薬がゴミ箱の中のゴミと触れ合って小さく音が鳴った。

 

「安心したらお腹減っちゃった。なんか買いに行こうよ」と絢子が言うので、近所のスーパーへ向かった。

平日の夜のスーパーには人がまばらで、仕事帰りなのかスーツを着た中年男性が商品を手にとっては首を傾げ、棚に戻すことを繰り返していた。

五歳くらいだろうか、ピンクのリボンがついたヘアゴムで髪を二つに結んだ女の子が、嬉しそうにペットボトルのオレンジジュースを抱えて、買い物カゴを持つ若い母親の後ろを歩いている。僕が女の子の後ろ姿を見つめていると、横から絢子が

「もし赤ちゃんができてたら、女の子だったかもしれないね」

と言って、微笑んだ。

 

僕たちはまだ大学生で、子どもを産むなんてことを真面目に考えたこともない。出産どころか結婚についてすら、真面目に考えたことがない。

 

家に帰って、スーパーで買った豚肉と白菜を使ってミルフィーユ鍋を作った。毎年、寒い季節になると、ふたりで喜々として近所のスーパーまで豚肉と白菜を買いに行き、週に三回以上のペースでミルフィーユ鍋を作る。美味しくて簡単なのだ。しかし、毎回同じ味だとさすがに飽きてしまうので、出汁は何種類か用意しておいて、その日の気分に合わせたものを使う。今日はキムチ味にした。

「辛いもの食べて、身体が暖まって、遅れてる生理も来るかもねぇ」

冗談めかした口調で絢子が言う。妊娠していなかったことに安心したのだろう。顔からは昨日からの不安気な色は消えていた。絢子は辛いものを食べると顔がすぐに赤くなる。それもあって、顔色は良すぎるくらいだ。

「そうだね、きっと明日には来るよ。ていうか妊娠してなかったのにここまで遅れてると逆に心配になってくるな」

僕も冗談めかした口調で、絢子に言う。

 

もしも、絢子が妊娠していたとして、僕はどうしていたのだろうか。

男は子供を産むことができない。産むのは女だけだ。出産の痛みを味わうのは女の人だけだ。絢子は僕以上に不安だったはずだ。きっと僕には計り知れないくらいに。

まだまだ大人になりきれないままの僕たちは、大人のフリをして少しずつ覚えてきた生き方で拙く生きている。

絢子が妊娠していたとして、僕は素直に喜べただろうか。未来への不安や心配なんて気にせずに、ちゃんと喜べただろうか。

絢子が妊娠しているかもしれないと知って、僕はただただ不安だった。絢子も不安だっただろう。赤ちゃんが生まれたら、お金はどうするのか、とか、結婚するのか、とか、そんなことばかり考えていた。

絢子が妊娠していたとして、僕は、その不安の先にあるであろう幸せと向き合うことができていたのだろうか。

命が生まれるということは、不安なことではないはずなのに、僕は不安に飲み込まれてしまうのではないだろうか。

覚悟が足りない。大人になる覚悟。いや、大人になってしまったことを受け入れる覚悟だ。

大人になりきれないまま、大人になってしまったのだ。拙くても生きていくことに、責任が伴うようになってしまったのだ。

誰も、いつまでも子どものふりをしてはいられない。

 

絢子が帰った後、ゴミ箱の中から検査薬を取り出して、検査窓を眺めてみた。赤紫の線は一本だけで、どれだけ見つめても二本目は現れないままだった。検査完了を示す赤紫の線の左側は白い空白のままだった。

僕は、その空白に安心すると同時に、少しだけ寂しさも感じた。いつか、もう一本の線が現れるその日に、僕たちはどんな顔をしているのだろうか。絢子が真っ赤な顔をしていれば良いな、と思った。

そして、二日間の不安を放り投げるようにゴミ箱に検査薬を捨てる。

 

 

 

 

憂き世話

 高校へ続く道は桜並木になっていて、春になると花は鮮やかに咲き乱れ、そして一週間ほどで散っていく。落ちた花弁が道路の端の方へと追いやられて茶色く腐っていく間に、木々は生命力が透けて見えるほどに濃い緑色をした葉を育て、自らが落とした花弁のことなど忘れてしまう。人々も、花がまだ目線の上で輝いていた時には、あれほど綺麗だ綺麗だ、と騒いでおきながら一旦それが地面に落下してしまうと、とたんに興味を無くし、平然と踏みつける。

 今日から高校へ通い始めた若々しい生徒たちは新緑の葉をつけた木々のようで気味が悪い。中学を卒業する際に感じたであろう寂しさや虚しさ、新しい日々が始まる事への不安、そんなものはとうに忘れてしまい、高校という新しい居場所で新しい人々と新しい関係を築いていくことへの期待しか彼らの表情からは読み取ることができなかった。自分もその中の一人として見られてしまうのだ、ということが嫌で嫌で仕方ない。


 僕の席は窓側の後ろから三番目だった。斜め右前の席の男子は背が高く、僕の視界から、黒板のおよそ三分の一を隠してしまい、担任が何やら書いていたがなかなか見ることができなかった。
「とりあえず今は先生が君たちの名前を憶えやすいように出席番号で席を決めてあるけど、また一週間くらいしたら席替えをしますね」
    担任が言ったので、少し安心する。黒板を見ようとしても、目の前の背の高い刈上げ頭しか目に入らない生活も一週間くらいなら我慢できるだろう。
 自己紹介のとき、僕の印象に一番残ったのが美弥だった。長い髪を後ろで一つに括っていて、毛先が少しだけ茶色く痛んでいた。スカートから伸びる脚は透明といっても良いほどに白かった。美弥が立ち上がった瞬間に、この人は他の人とは違うと反射的に思った。何が違うのか、そんなことは分らなかったが、確かに違うのだという確信は頭の中に煙のように立ち昇り、僕はその煙を吸い込んで酸欠を起こしそうになったのだ。それに美弥の言葉は、他のクラスメイトのものとは比べ物にならないくらいに馬鹿らしくて、最高に浮いていた。だから、この人はやっぱり他の人とは違うのだと確信した。
「はじめまして。西沢美弥といいます。みんな出身中学のことしか言わなくて面白くないので少し違う話をします。みなさん、蛙は好きですか? 私は昔から蛙が好きで、昔は捕まえて飼ってみたり、田んぼから卵を採って来て孵化させたりしました。シュレーゲルアオガエルが特に好きです。シュレーゲルアオガエルは泡状の卵を産みます。蛙の卵って、どろどろしたゼリー状のイメージがあるかもしれませんが、全部が全部そういうものってわけじゃないんです。人間だってそうなんじゃないかな、と思います。あなたも私も違う人間であって、みなさんが持っている「人間」というイメージなんて本当は当てにならないんじゃないか、って思います。イメージに凝り固まらない学校生活を送りましょう。よろしくお願いします」
 

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 美弥は夏になっても長袖のカッターシャツを着ていた。周りに半袖の生徒が増え始めて、教室内の生徒全員が半袖のカッターシャツを着るようになっても、美弥だけは長袖を捲ることもせずに着続けていた。
「美弥ちゃん、ずっと長袖着てるけど暑くないの? 体育のときも一人だけジャージ着てるよね。もう夏なんだし、半袖着ないと熱中症で倒れちゃうよ?」
 ある日の昼休憩、ひとりの女子が美弥に言った。生徒たちは二人や三人の小さなグループに分かれて机を付き合わせ、それぞれ楽しそうに弁当を食べている。美弥も佐伯と水沢という女の子ふたりと机を合わせて楽しそうに昼食を摂っていた。美弥に「長袖暑くないの?」と訊いたのは、水沢だった。水沢は明るくて愛嬌のある女の子で、クラスの男子の話題にもよくのぼるような子だ。肩に触れるか触れないかという長さの髪の毛をいつも後ろで一つに結んでいる。
「暑いけど、長袖って可愛いと思うの」
 美弥は水沢にそう答えていた。僕は少し離れたところで友人と弁当を食べながら、その様子をなんとなく眺めていた。
「半袖も可愛いよ? 暑いのに辛くないの?」
水沢が問い詰めるように美弥に訊ねる。美弥は少し困ったような表情を浮かべて、水沢と目を合わせないように弁当箱の中身をつついている。その様子から僕は、ああ、彼女が長袖を着ているのには何らかの事情があるのだな、と判断したが、水沢は何が彼女をそこまでさせるのか、美弥の困惑に気付いているのかいないのか、執拗に「なんで? 暑いのに」と美弥に詰め寄る。美弥は「うーん」とか「べつに理由はないよ」とか簡単な言葉でその場を収めようとするのだが、水沢ははっきりとした答えが返ってこないことに納得がいかない様子で、美弥に「半袖着なよ」と言い続けている。佐伯が何もしゃべらずにこにこと二人の会話に自然に溶け込んでいて、僕はその技術はかなり高等なものなのではないかと考える。空気の読めない女子と、その空気の読めない女子に問い詰められ身動きが取れなくなっている女子の間で、あんな風に自分を隠しながらもそこにしっかり所属している。僕にはできない。
 そうこうしているうちに美弥の表情から困惑が消えたのを僕は見た。すっ、と一瞬のうちに消えたのだった。それまでの困った表情が、一瞬にして何の感情も持ち合わせていない無表情へと変貌し、弁当箱の中ばかり見つめていた目が水沢の二重の大きな目に向けられた。
「別にいいじゃない」
 美弥の口調はそれまでのものとは別人のように鋭かった。
「私が長袖を着てることであなたに迷惑はかからないし、私に半袖を着ることを強制する権利はあなたにはないでしょう? 長袖が着たいから長袖を着ることの何が悪いの?」
 水沢の顔面が、まるで硬い岩になったかのように固まる。恐怖と驚きと戸惑いが混ざり合って、水沢の顔面をぶわぁっ、と覆い尽くす。しかし、それはほんの一瞬のことで、数秒後には水沢の顔には怒りの色が強くふつふつと滲み出た。
「強制しようなんて思ってないし、私はただ暑くないのかなって心配してるだけじゃん。なんでそこまで言われなきゃいけないの? なに? ほんとはあんた、半袖が着れないわけでもあるんじゃないの?」
 水沢がさっきよりも少し大きな声で叫ぶように美弥に言葉を投げた。わざと周りに聞こえるように大きな声を出したようにも見えた。猫が威嚇しているみたいだと僕は思う。佐伯が、ついさっきまで隣で微笑んで二人の会話を聞いていたのが嘘のように身体をこわばらせていた。
「あるよ」
 美弥の言葉に水沢はまた一瞬だけ岩になる。岩になった後で、
「なによ、その長袖が着れないわけって」と美弥をまた威嚇する。威嚇するが、数秒前ほどの勢いはない。美弥が怠そうに口を開く。
「私、腕を切ってるから、その傷を見せないようにしてるんだよ。傷を見せたらみんなどうせうるさくするでしょ? 腕に切り傷がある女がいるって噂するでしょ? あいつはメンヘラだから気を付けろとか、あいつは精神病だとか、そんな風に。べつに良いんだけど、面倒くさいじゃない。私が面倒なだけじゃなくて、みんながそんなことに捉われてしまうのって相当面倒くさくて無駄なことだと思うのね。だから隠してる。それだけ」
 教室内の空気がざわざわと揺れる。「まじ?」「やばくない?」そんな言葉たちが誰に聞かれるでもなく空中に漂って消えていく。水沢が美弥の袖口に手を伸ばして、小さなボタンを外し、袖を捲りあげた。美弥は特に抵抗することもなくそれを受け入れる。
美弥の腕には無数の傷跡があった。赤黒いケロイドとなり立体的に浮き上がった皮膚と瘡蓋で黒く固まった血液が描く直線が何本も並び、交差して、腕の表面を埋め尽くしていた。
水沢は自分でそれを露わにさせたにもかかわらず、ひっ、と喉から声を漏らして目を反らす。教室内に漂う無数の声が大きく空気を揺らし始める。僕は美弥の腕から目を反らすことができなかった。心臓が耳元で鳴っていると錯覚するほどの動悸が僕を襲う。深呼吸を三度繰り返して、ようやく美弥の腕から僕の目玉が逃げ出すことができそうな気がしたので、一度目を閉じてみる。その後、いつもの倍、瞼に力を入れて目を開く。
 美弥と目が合った、ような気がした。美弥は表情のない顔で小さく唇を動かし、何かを呟いて教室から出ていった。僕はその後ろ姿を目で追うことしかできなかった。僕の心臓はいつもよりも激しく血を吐き出していた。

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  中学一年の頃から乗り続けている自転車のかごはぐらぐらと安定しない。僕は毎日時間割に沿った教科書を持ってきて、そして持って帰るので鞄はいつも膨らんでいて重く、かごの中にそれを投げ込むと自転車のかごはさらに安定感を失い、金属でできているはずなのにふにゃふにゃと揺れる。教科書なんて学校に置いとけばいいのに律儀だね、と友人には言われるのだが、朝起きて学校に行くための支度をしているときに手元にその日使う教科書がないと安心できないので僕は教科書を置いて帰ることができない。目の見えるところにあるべきものがないと安心できないこの性格は、昔からのものだった。
 幼い頃のある朝、母親が珍しく泊りがけの出張だったために家にいなかったことがある。僕は母親の不在が無性に不安になって大きな声で泣いた。父が「母さん、今日の夜には帰って来るよ」といつまでも泣き止まない僕を慰めようとしたが、無駄だった。その日は父が幼稚園まで送ってくれたがその間も僕は泣き続けた。幼稚園でもずっと泣いていたらしいがよく覚えていない。夜になって母が帰宅した途端に僕は泣き止み、一日中泣いていたのが嘘のように笑っていたと父が言っていた。目を覚ませばそこにいて当然と思っていた母がいないということが幼い僕を不安にさせ、混乱させた。あるべきものが目に見える場所にないという事態は、僕にとって、あの母の不在と同じほどの不安を感じさせるのだ。もちろん、高校生になった今では母の不在などなんということもないのだが、あの日に感じた不安は僕の中にまだうっすらと靄のように残っている。


「あ、洲上くんだ」


 ふと背後から声を掛けられたので振り返ると、そこには美弥が立っていた。昼間教室を出ていってから、美弥は戻ってこなかったのでもう家に帰ってしまったのだと思っていたが、まだ学校にいたらしい。落ち着いていた心臓がまた、少しずつ勢いを増して脈打つのを感じる。鼓動を美弥に悟られないように、僕はなんでもないふりをして口を開く。目を合わせることはできなくて、うつむき、自分の足元、去年から毎日履き続けて薄汚れたスニーカーを見てしまう。
「帰ったのかと思ってた」
「ううん、ずっと屋上にいたの。面倒くさいことになったから、ちょっと落ち着こうと思って空を見ながら寝転がってた。空ってすごいんだよ。形が変わってくの。一瞬たりとも同じ形をしている瞬間なんてないんだよ。知ってたけど、改めて眺めてみて感動したな。曇ってるから雲ばかりだったけど、楽しかった」
 美弥の声は小鳥のさえずりのようだと僕は思う。美弥はあまり大きな声を出さない。誰と話すときも相手に聞こえるぎりぎりの大きさの声で話している。声質は柔らかく、少し鼻の詰まったような喋り方だ。声と喋り方と音量のバランスが良い。
「屋上に上がる扉って、鍵がかかって入れないようになってなかったっけ?」
「ああ、あれね、実は鍵が壊れてて開けることができるんだ。ちょっとコツがいるんだけどね」
「まじか、知らなかった」
「たぶん知ってるの私だけじゃないかな? 今まで屋上で誰にも会ったことないし、私以外が出入りしてる話も聞いたことないからなあ。開けかた、教えてあげようか?」


 僕の前を美弥が歩いている。階段を一段、また一段と踏みしめる美弥の足は驚くほどに白く、紺色のはずのスカートが真っ黒に見えた。
 校舎は三階建てで、東棟と西棟のふたつからなっている。僕たち一年の教室があるのは東棟の三階だ。二年生が二階、三年生が三階と学年が上がるにつれて教室は下の階へと下がっていく。三年生は忙しいから玄関から近い方が良いのだ、だから一階に教室を設けられているのだ、と毎朝三階まで階段を上がるのがしんどいと不満を言った生徒に担任が言っていた。今の三年生も一年生の時は同じ思いをしていたんだから我慢しろ、そんな風にも言っていた。
 三階が最上階なのだが、階段は三階よりも上へと伸びていて、その階段の先に屋上への扉がある。美弥は右手でドアノブを握ると「見ててね」と、左手で前髪を留めていたヘアピンを外してカギ穴に差し込み、上下に数回動かした後、ドアノブを左右にガチャガチャと揺らし、思い切り左に捻った。がちり、と鈍い金属音がした。
「よし、開いたよ。扉開けてみなよ」
 美弥に言われ、ドアノブを回すと扉が開き、開けた空間が視界に飛び込んできた。
「ほんとに開いた。すごいね、初めて屋上に来た」
「すごいでしょ、秘密の場所なんだよ」
 美弥が得意げに鼻を鳴らし、扉の先へと歩いていく。僕もそれに続いて屋上へと足を踏み出した。なるほどここからなら空がよく見える。空と自分との間を遮るものは何もなく、こんなに広い空を見たのは初めてのことだった。例えば校庭のような広い場所でも空は大きく見えるが、視界の端にはどうしても建物や木や電線が映ってしまう。純粋な空というのはこんなにも広大なものであったのか、と僕は少し驚いた。
「憂鬱な時にはね、ここに来てぼーっとするんだ。誰もいなくて落ち着くの」
 フェンスにもたれ掛るようにして立つ美弥の横に歩いていき隣に並ぶ。緑色のフェンスはところどころ塗装が剥がれ、剥がれた部分は空気と湿気に侵され茶黒く錆び付いている。見下ろすと下校中の生徒が数人、ぱらぱらと歩いていた。
「洲上くんさ」
 名前を呼ばれて横を見ると美弥も地上に目を向けて、下校中の生徒たちを眺めているようだった。
「お昼に教室で私と水沢ちゃんが言い合ってるの見てたでしょう。私が腕を出した時、まぁ、出したっていうか出されたんだけどね、あの時、みんな面白そうにこっちを見てたの。見ちゃいけないものを見るような目で。興味と軽蔑と恐怖とが入り混じったような色をした沢山の目玉が私のこと見てた。ホラー映画でも観るような感じっていうと分かりやすいかな? 私ね、人間のそういうところが気持ち悪くて大嫌いなんだけど、洲上くんだけは違う目をしてた。洲上くんの目には興味も軽蔑も恐怖も、そんなものどこにも映ってなかった。あ、洲上くんって人間にあまり興味ないのかな、って思ったの」
 僕は少し考える。人間に興味がないというのは正しくないな、と思う。人間に興味がないわけではない。優しくしてもらうと嬉しいし、嫌われると辛い。誰かに好かれたいとも思う。ただ、僕はあの時、あの教室の空気に辟易としたのも事実で、悪趣味だなと思いながら周りの声を聞くともなしに聞いていた。つまり、美弥以外の他の誰にも興味はなかった。だから人間に興味がない、というのは少し違うと思う。しかし、美弥が言うように、美弥への軽蔑や恐怖の感情なんてものは欠片もなかった。強いて言えば、よく分からない感情。まだ自分が向き合ったことのなかった感情が、あの時の僕を支配していた。でも、あの感情を言葉にすることは、今の僕の頭ではできなかった。なんと答えるべきか、考えている内に、教室で水沢に向かって「面倒くさい」と美弥が言っていたのを思い出した。
「人間に興味がないわけではないんだけど、考えてもみてもよく分からない。うまく説明できない。ただ、人間って色々と面倒くさいとは思うね」
 そう僕が答えると、美弥は「だよね、面倒くさい」と顔をしかめた。そして、しかめ面を解いて、
「ねぇ、私の傷を見てどう思った?」
 耳の中で鼓動が響き始める。今日は心臓がうるさい。僕は美弥の腕を見てどう思ったのだろうか。思い出してみる。彼女の皮膚の上を走る無数の傷。


「……綺麗だと思った」


 美弥はふふっと小さく笑った。綺麗か、と呟いた。なんだか、いたたまれなくなって「なんで腕を切るの?」僕は、それをごまかすために訊ねてみる。訊ねてみたは良いけれど、これは訊ねても良いことだったのか、訊ねた後に気づく。でも、美弥は特に気にする様子もなく答えてくれる。
「始めて切ったのは中学一年のときで、ただカッターナイフがお父さんの机の上に置いてあるのをたまたま見つけたから、なんとなく切ってみよう、って思ったの。切ってみたら痛くて、うわあもうこんなこと絶対しないよ、って思ったのに、何日か経って、気づいたらまた切ってた。なんていうか、人間ってご飯食べるでしょ? 一日三回食べる。そんな感じなの。回数なんて決まってないけど、切らなきゃって思ったときに切るの。ご飯食べなきゃ死んじゃうみたいに、切らなきゃ死んじゃうのかもね、私って」
 切らなきゃ死んじゃう。そんなこと、あるわけがない。あるわけがないけれど、でも、美弥はもしかしたら、切らなければ死んでしまうのかもしれない。それを信じさせる何かが美弥にはある。
 これまで僕は、腕を切る人は往々にして死にたがっているのだと思っていた。そういう人たちは、生きることに絶望している人としか見ることができていなかった。この子は生きるために自分を切っている。あるわけない理屈を、傷として目に見える形に変えて、それを信じて、そうやって生きているのだ。だから、それはあるわけなくても、ちゃんとそこにあるのだ。切らなきゃ死んじゃう、は本当なのだ。
「触ってもいい?」
 美弥がこちらを向く。少し驚いているようだった。
「いいよ。触って」
 美弥が右手で左の袖口のボタンを外し、腕を出す。僕は傷をひとつひとつなぞっていく。
 遠くで十七時を知らせるチャイムが鳴るまで、それを続けた。
「五時だ」僕がチャイムに気づいて呟くと、美弥はフェンスから離れ、扉の方へと歩き出しながら
「付き合ってくれてありがとうね。洲上くんとは、なんだか仲良くなれそうな気がするよ」
 またね、と手を振って美弥は階段を下っていった。
 
ふにゃふにゃと、かごを揺らしながら自転車を漕ぐ。指先にはまだ美弥の感触が残っている。空を見上げてみる。視界の両脇をアパートや住宅に遮られて、空はさっきの半分ほどの大きさに見える。自分の住んでいる世界は狭いのだ、そう感じた。