雑記

特に目的など持たずにつらつらと書き始める。が、同時に僕は、目的など持たない、という目的を持ってしまっている。矛盾はそこかしこに生まれ出でて、僕たちは矛盾の氾濫の中を泳ぐ泳ぐ。溺れ死んでしまうまで。

 

 

「書き始める時には何も考えていない」「物語が進むのに任せる」「推敲はするけれど、自分が何を書いているのか分からないまま書き終える」。そういうことを言っている小説家が好きだ。プロットのない小説は、まるで生活で、まるで日常で、心地良い。伏線は回収されなくて良い。僕たちの人生において、わからないまま死ななければならないことなんて沢山ある。あの子はいま何してるんだろうとか、あの本誰に貸してたんだっけとか、死んでしまった祖父の涙の理由とか。その他諸々。僕たちの人生に張り巡らされた伏線は、回収されることなく、僕たちは死ぬ。
何もかも全て理解して終わるなんて、フィクションでしかありえない。そんなリアルがあるとしたら、それは相当に気持ちが悪い。

 

 

猛暑も終わりに近づいたのか、今日は涼しかった。ちょこちょこ雨が降ったからか、ただでさえ高い湿度は、いつもより高かった。湿度の高いこの街は、いつだってジメジメしていて、この街の人々は、押入れの奥の角から生えたキノコみたいに見える。

 

 

酒を飲みながら、ネットを漁る。本を読む。こうやって文章を書く。つまんねえ日々だ。でも、それが僕の生活だ。アルコールに溶かされた僕の脳味噌が、流れ出して、こうやって文字として貴方の、貴女の、目に触れる。文章を書くとは、なんてグロテスクな行為なのだろうか。ツイッターやタンブラー、その他諸々のSNSなんて溶け出した脳味噌の溜まり場だ。ネットも、雑誌も、街中の広告も、そこら中が文章で溢れている。なんてグロテスクな世界。無数の、匿名の、脳味噌の氾濫の中を、僕たちは泳ぐ泳ぐ。溺れ死んでしまうまで。

憂き世話

某駅構内。

「殺すぞ!」

女性の張り上げるような声が聞こえた。
それぞれ違う方向へ向かって歩いていた人々が一斉に同じ方向に顔を向ける。
無数の目が向く先にはひとりの女子高生がいる。右手には、制服に似つかわしくない包丁。
彼女の近くを歩いていた人たちは驚き、彼女と距離をとる。

「殺すぞ!」

彼女はもう一度叫ぶ。誰に向かって叫んでいるのか、彼女の目線は床に向かっている。
誰も彼女が誰を殺そうとしているのかを聞かない。
殺そうとする相手がわからないことが、人々の中に「もしかしたら自分を殺そうとしているのかもしれない」という疑念を産む。「誰を殺そうとしているのですか?」という質問に、自分の名が返されるのではないかという疑念。
誰もが、殺されるのが自分ではないことを祈っている。自分が殺されるはずはないと思いながら、しかし、疑念は晴れることなく数十秒間が過ぎる。
誰もが、殺されるのが自分ではない誰かであることを切実に望んでいる。

彼女が腕を振り上げる。

悲鳴。誰かが倒れる音。

 

倒れたのは、包丁を振り上げた女子高生だった。

彼女は自分を刺したのだ。

 

誰もが、殺されるのが自分ではない誰かであることを切実に望んでいた。

彼女は彼女自身を殺したが、しかし、彼女を殺したのは、紛れもなくその場に居合わせた人々だった。

いつの間にか、子供ではなくなってしまっていて、つまらない責任とかつまらない常識が生活を蝕んで、生活はつまらない。

 

何もかも人間の創り出したつまらないシステムで、人間は、自分達が創り出したシステムを制御できなくなって、それに取り込まれてしか生きていけなくなっている。

言い換えれば、人間のためのシステムが、システムのための人間を創り出してしまっている。

僕もその一人なんだろう、と思う。

 

生きるということは、一体なぜ、これほど難解であるのか。本当は何もかも、こじつけられた意味で正当化された、人間本位の解釈でしかない。難解だと思うのは、そういう無意味な意味を重要だと感じてしまっているからだ。

ある対象に対して付与された意味なんてものは人間の創作で、そのほとんどが駄作なのに。

 

生まれたことに意味はない。生きることに意味はない。死ぬことに意味はない。

 

無くても生きていけるはずのものが無ければ生きていけない人々の、悲しい現実を今日も僕たちは生きる。

 

明日も、明後日も、抜け出せない。

 

 

 

 

 

憂き世話

「おー、久しぶりー」

仕事終わりにコンビニで買い物をしていると、大学の同級生だった吉岡から電話が掛かってきた。

「久しぶり、なに?どうした?」

吉岡とは大学を出てからほとんど連絡を取ることがなくなっていたので、電話が掛かってくるなんて何事だろうと不思議に思う。

「どうしたって、いやー、なんかさ、お前の子供がうちに来ててさー。なんで俺のこと知ってんのかなって。ていうか、なんでうちの場所まで知ってんのかなーって」

は?子供?

「いや、僕、子供いないんだけど?」

僕には子供なんていない。それに吉岡とは10年近く連絡を取っていないし、子供がいたとしても、我が子が吉岡の家を訪ねていく理由なんて思いつかない。

「いやいや、だって玉崎の息子です、って言ってたよ?  おれの知り合いに玉崎なんてお前しかいないし、今、電話かける時にお前の連絡先見せて確認したし、間違いないって」

待て待て、全く意味がわからない。

「間違いないって言われても、僕、子供いないし、なんなら結婚もしてねえって!」

「えー、じゃあ、あれだ、知らん間に子供できてたんじゃねえの?  気をつけろよな〜」

あ、それなら可能性あるか。そう思い、考えてみる。あの子か?  それともあの子?  心当たりがないわけではない。

いや、でも待て待て、その子は何歳くらいの子なんだ?  ひとりで吉岡の家を訪れることができて、ちゃんと喋れるってことは、ある程度の年齢の子なんだろう。僕が女遊びをし始めたのはここ3年で、それまでは彼女がいて、でも色々あって上手くいかなくなって別れてしまった。僕は、大好きだった彼女と別れて、なんか全部どうでもよくなって、いろんな女の子に手を出すようになったクズ男だけれど、彼女がいる頃には彼女一筋で、他の女の子に手を出したりはしていない。

「その子って何歳なの?」

「おお、わからんな。聞いてみるから、ちょっと待ってな」

電話の向こうで吉岡が「あんた、何歳なん?」と誰かに聞く声が聞こえる。遠くから男の子の声がそれに「8歳です」と応える。

「8歳だってさ」

じゃあ、その子は絶対に僕の子じゃない。

「えっと、なんかよくわからんから、その子と直接話したいんだけど、電話代わってもらえる?」

「おう、了解…あっ、ちょっとちょっと!おーい!…あー、ごめん、出て行っちゃったわ。ちゃんと帰れるかな?  送ってった方が良い?  てか、俺、お前の家知らないから送れないか、わっはっは」

わっはっは、と笑う吉岡は呑気で、なんだか考えてもよくわからなくなって、わっはっはと僕も笑う。

「お前、連絡取ってない間に子供できてたなんてな!  父さんの同級生ってだけの知らない奴の家まで1人で来るって、めちゃくちゃ変な子だな!  わっはっは」

わっはっは。

「いや、だからそれ僕の子供じゃないって言ってるじゃんか、わっはっは」

「いやお前の子供だって本人も言ってたし、お前の子供なんだって、わっはっは、まぁ、じゃあまたなー、そのうち飲みにでも行こうぜー」

「おう、またなー、わっはっは、あー意味わかんねー!  わっはっは」

電話を切っても、なんだかおかしくて笑いが止まらない。こんなおかしなことがあるもんなのか。

もう一度、考えてみる。やっぱり心当たりはないし、何度考えても僕に子供はいない。間違いない。でも、僕の子供は存在していて、10年も連絡を取ってなかった吉岡の家に現れたという。

よくわからない。よくわからないまま、終わる。

明日も仕事だ。

いいんだ、どうせ、僕にわかることなんて、ほんの少ししかない。僕の頭の中には、僕にわかることと僕の知ってることしか存在しない。

でも世の中には、僕にはわからないことや知らないことの方が多いのだ。僕は、そういうことをわからないまま、知らないまま死んでいく。人生に、伏線の回収なんてない。起こったことは、忘れていくか、ずっと覚えたままでいるかのどちらかで、僕はきっと、この電話のことを覚えたままでいるけれど、その子が一体誰なのかはわからないままで死んでいくのだろう。

投げかけられた謎が全て解けるとは限らないし、全部わかってしまう人生なんてつまらないさ、きっと。

 

 

 

 

憂き世話

夕立に降られた。

傘を持っていなかったので、服も鞄も靴も、びしょ濡れだ。あぁ、こんなに濡れてしまったら今更急いで走ったところで意味ないなぁ、と思い、不貞腐れながらゆっくりゆっくり歩いて帰ったら、身体が冷えてしまった。寒い。

 

帰宅して、すぐに服を脱いで洗濯機に投げ入れる。浴槽にお湯を溜めたいところだけれど、こんなに冷えた身体で、しかも裸のままで、お湯が溜まるのを何分も待ってはいられないので、とりあえずシャワーを浴びることにする。温度を少し高めに設定し、蛇口をひねる。

「あつっ」

冷えた身体には、温度設定高めのお湯は熱すぎて声が出てしまう。でも、すぐに温度に慣れる。気持ち良い。ゆっくりと身体が温まっていく。

 

お湯って偉大だなぁ。同じ水なのに、雨はとても冷たかった。夕立に降られてびしょ濡れの身体は冷たかったのに、シャワーのお湯に降られてびしょ濡れの身体は温まっていく。

そんなことを考えていて、ふと、人間もそんな感じなのかもしれないな、と思う。例えば、知り合いの双子の聡くんと隆くん。私は、聡くんは苦手だけど、隆くんは好きだ。聡くんは言葉がきついし、何より人を馬鹿にする態度が許せない。一方で隆くんは、いつでも朗らかで、誰にでもよく気を遣っていてすごい。見た目は似ていても、冷たい人と温かい人がいるのだ。きっと、そうだ。

 

そういえば、人間の六割は水だという。やっぱり、水と人間って同じようなものなんだ。そんな風に一人で納得して、シャワーのお湯を浴び続けていると、なんだか、身体がお湯に溶けていっているような気がし始める。

足元に排水口が見える。抜けた髪の毛が集まっていて、汚い。自分の一部だったものなのに、なんでこんなに汚く見えるのだろうか。

私は、冷たい人なのか、温かい人なのか、どちらなのだろう。自分では分からない。でもどちらでも良い気もする。だって私の六割は水で、威張っている人も偉ぶっている人も六割は水で、みんな似たようなものなのだ。それに、冷たい水も温まればお湯になる。それはきっと、誰でも、冷たくも温かくもなれる可能性を持っているということだ。少し安心する。

でも、それって、本当に私なのだろうか。冷たくも温かくもなれるっていうのは、私の中の水の部分の話であって、それは誰もが普遍的に持っている部分で、だから、きっと私の本質はそこにはない。それは水の本質でしかない。

じゃあ、私ってなんなのだろう。考える。これまでの人生なんて、薄っぺらくて大したものじゃないけれど、私にとっての全てがきっとそこにあるので、思い出してみる。

嬉しかったこと。辛かったこと。忘れたいこと。忘れたくないこと。あの人に言われた言葉。あの子に言ってしまった言葉。もう聞けない声。もう会えない人。薄れていく過去。流れていった日々。

思い出しているうちに、なんだか泣けてきて、私は涙を流す。シャワーのお湯が涙を溶かして、私は泣いているのに涙が頰を流れることはない。その代わり、たくさんのお湯が身体の表面を流れていく。涙だって私の一部なのに、私の一部は簡単にお湯に溶けていく。

 

私はお湯に溶けていく。

 

私の汚い部分はお湯に溶けていかないようで、それらは排水口の網目に絡まって固まっていく。汚い。とても、汚い。

私の六割は水で、私はどんどん排水口に流されていく。

排水口の網目に絡まって残るのは私の何割なのだろう。

あぁ、どうか、網目に絡まらずに、流れに磨かれて丸くなった小石のように、排水口の上にポツリと私の綺麗な部分が残っていれば、それで良い。私の一割にも満たなくても、それが私の中にあったのならば、とても嬉しい。

 

 

回想

小学二年生の頃だった。


幼馴染とふたりで下校していると、近所のお婆さんに声をかけられた。 「あら、〇〇ちゃん。大変なことだったなぁ」 何のことを言っているのか分からなかったので聞き返すと、お婆さんは沈んだ声で 「あぁ、知らんかっただか。あのな、おじいさんが帰って来とんさるで」 と言った。


玄関の扉を開くと、家の中には、いつもとは違う、甘い香りが充満している。 玄関を入って左側は、和室になっている。障子の向こう側で、大人たちが囁き合う声が聴こえた。 障子を開ける。黒い服を着た大人たちが、白い布団に寝転がり、白い布を顔にかけられた祖父を取り囲んでいる。 「顔を見てあげんさい」 祖母に言われて、恐る恐る、祖父の顔にかけられた布を捲る。 祖父の顔は黄色く、鼻の穴と唇の隙間から、白い綿のようなものがはみ出ている。寝息も、鼾も、聴こえない。静か過ぎる寝顔だった。


読経を聞きながら、微睡んでしまっていた。自分の後方で、誰かが啜り泣いている。家の前を流れる川の音と、和尚の声が、溶け合って、耳から入り込んでくる。そして、そのまま身体の中を流れていくように感じる。大量の菊が放つ甘い匂いが、部屋の中に満ちている。菊の匂いと、黒い服を着た人々に溢れた部屋で、棺だけが白く、目に沁みる。


祖父の骨は、白と灰色と黒の破片と粉だった。 「仏さんが座っているような形だから、喉仏って言うんですよ。この骨は硬いから燃え残ることが多いんです」 火葬場の職員が、輪っかのような骨を箸でつまみ上げて説明する。 「そうなんかぁ」「本当だなぁ、仏さんの形だ」「あぁ、立派な仏さんだなぁ」 大人たちが囁き合う。 親族で、順々に箸を使って、骨を壺の中に運んでいく。箸で渡して、箸で受け取る。バケツリレーのようにして、骨は壺の中へ収まっていく。 ある程度の量が壺の中へと収められると、かさを減らして、壺の蓋を閉めるために、箸で上から押さえつけるように骨を砕いていく。 親族の間で順々に壺が回される。 「ほら、砕いてみんさい」 そう言われて、骨を砕くことになった。 硬くて軽い、不思議な感触が、小さな手に纏わりつく。


 

ごりっ、ごりっ。


 

手に力を入れる度に、祖父との思い出が、砕けて、散らばっていく気がした。

 


ごりっ、ごりっ。


 

そういえば、最後に怒らせてしまったのは僕だったな、とか、スーパーの食玩売り場で、何を買ってもらおうか迷う僕を、何も言わずにじっと待ってくれていたな、とか、お見舞いに行った時、心配そうにしている僕の顔を見て、身体中にチューブを繋がれているくせに「おじいさんがウルトラマンになったるけえな、大丈夫だで」なんて言ってくれたな、とか。


 

ごりっ、ごりっ。

 


涙は出なかった。

こんなに簡単に粉々になってしまうものが、本当に祖父なのだろうか。 この破片や粉が、本当に祖父なのだろうか。 たぶん違う。

だから、涙は出なかった。



祖父の骨が収められた壺が、白く、光を反射している。壺の表面に、うっすらと自分の影が映っていた。

憂き世話


運動会を明日に控えて、教室の中はいつもより少しだけ、そわそわと落ち着かない。

お弁当のオカズは何だろうね、おやつも持っていこうよ、飴食い競争楽しみだなぁ、飴食い競争は小麦粉で真っ白になるから嫌だなぁ、小麦粉美味しくないよねぇ…。

僕は、運動会が嫌いだった。走るのはあまり得意ではないし、そもそも運動が苦手だから。運動会なんて、運動が得意な奴が目立つための行事だとしか思えない。運動が得意な奴らは、なぜだか、みんなから慕われている。勉強なんかできなくても、慕われていて、奴らの周りには友達が集まっていて、僕の隣にはいつもトシちゃんとヒロくんしかいない。
「明日は運動会です、暑くなりそうなので水分補給を忘れない様にしましょうね、みんなの頑張っている姿をお家の人に見せてあげましょうね、それではみなさん、また明日。」


先生がそう言い終わるのと同時に僕は、席を立って教室から逃げる。早いよぉ、待ってよぉ、とトシちゃんが後からついてくる。トシちゃんが遅いんだよ、と僕は笑いながら振り向く。トシちゃんは僕よりも足が遅い。だから、僕は少しだけ意地悪な気持ちになって、トシちゃんから逃げるふりをして走り出す。トシちゃんは、待ってよぉ、と弱々しく叫びながら、僕を追いかける。僕は、運動会が嫌いだ。

 

運動会が始まると、テントの中は一気に暑くなった。みんな、大きな声を出して、誰々くん頑張れー、とか、誰々ちゃん負けるなー、とか叫んでいる。ただ、そこで呼ばれる名前は、いつもクラスの中心にいるような奴らの名前だった。そういえばヒロくんがこの競技に出てるんだっけ、と思い出して、僕の目がヒロくんを探す。丁度ヒロくんにバトンが渡ったところだった。ヒロくん頑張れー、僕は叫ぶ。ヒロくん、頑張れ、そう叫んでいるのは僕とトシちゃんだけだった。みんな「頑張れー、頑張れー、」と機械みたいに繰り返しているように見えた。テントの中には、ヒロくんの名前を叫ぶ人間は、僕らの他にいなかった。

 

バトンが手渡された。僕はバトンをしっかり握りしめて走り出した。前を走る人の背中がどんどんと遠くなっていく。思っていた通り、僕は足が遅くて、どれだけ頑張ってみても、上手く足が動かない。僕の名前は聞こえない。トシちゃんとヒロくんは、きっと僕の名前を叫んでくれているだろう。でも、その小さな叫びは、その他何百の熱気の中に飲み込まれて、埋もれて、僕は、ひとりだった。それでも走るのは、たぶん、僕はひとりじゃないと思い込む為で、それが、僕ができる精一杯の生き方だった。
地面が近づいて来る。バトンが手から離れて、転がっていく。

 

保健室の中は、静かで、さっきまでの熱気が嘘のようだった。保健室の先生が僕の膝小僧に消毒液を塗ってくれた。そうすると、傷口から泡が立って、先生が、「これは、ばい菌が死んでいく証拠なのよ」と言った。僕の膝小僧に、いつから、ばい菌が巣食っていたのだろう、と思った。本当は、自分がばい菌なのではないかとも思った。
先生は、傷口の上にガーゼを被せて、テープで固定した。「先生は少し職員室に戻るけど、もう少し休んでいく?」と聞かれたので、頷くと、先生はふふっと笑って保健室から出ていった。

僕は、静かで無機質な部屋の中で、ひとり、椅子に腰掛けていた。窓の外では、みんな楽しそうに、同じ方向へ視線を向けていて、ヒロくんもトシちゃんも、その中に紛れて、校庭の内側で目立つ人や目立たない人たちを見つめていた。少し寂しくなって、保健室の中を見回してみたけれど、よくわからない器具や、薬品が並んだ棚や、変なキャラクターが描かれた歯磨きを呼びかけるポスターや、特に面白いものもなかった。

そのうち、なんとなく、傷口が気になって、皮膚からペリペリとテープを剥がして、ガーゼの下の傷口を見てみた。
熟れ過ぎて、溶け始めたトマトのようだと思った。ばい菌が殺されて、清潔なはずのそこは、まるで、腐った赤い果実のようだった。
あぁ、僕は人間じゃないのではないか、僕の身体はトマトで出来ていて、自分でも気付かないうちに、こんなにドロドロに腐っていたんだ、誰も、僕がトマトだなんて教えてくれなかった、いや、気付いてくれなかった、僕は人間じゃなかった。
保健室の先生が戻ってきて、僕が泣いているのに気付いた。あら、こんなに暑いのにそんな風に泣いてると、脱水症状が心配ね、なんて言ってコップに水を注いでくれた。そうして、先生は僕の隣に座った。僕は、自分がトマトだということに気付いたんだ、と先生に話した。先生は真剣に僕を見つめて話を聞いてくれた。話を聞き終わると、先生は微笑んで言った。


「君はトマトなのね、私、君のこと人間に見えていたけれど、そうか、トマトだったのか。トマトって美味しいわよね、私、好きよ。」


僕は、でも腐ったトマトはもう食べられないよ、と言った。先生はふふっと笑った。


「君みたいに小さなトマトが、まだ腐るはずないじゃない。ちょっとぶつけて傷が出来ちゃっただけ。大丈夫、君は人間の形をしたトマトだから、私の経験上そんな傷はすぐに治ってしまうわ。…それとね、必要最低限の水しか与えずに育ったトマトは、とても甘くなるの。私の推測だけど、君は、たぶん、とても甘いトマトになれるんじゃないかな。君はこれから、どんどん大きくなって、喉も渇いてしまう時も沢山あるでしょうけれど、枯れそうになる前にほんの少しだけ、水を飲んだら良いの。飲み過ぎたらだめよ、世の中にはそういう時に水を飲み過ぎてしまうトマトが沢山いるけれど、君は飲み過ぎたらだめ。」


先生の話はよく分からなかったけれど、なんだか嬉しくて、僕は頷いて、それからコップの水を一気に飲み干した。
「あら、飲み過ぎたらだめだって言ったばかりなのにな。」
先生はふふっと笑った。

 

先生の言った通り、傷はすぐに塞がった。僕は自分がトマトであることを誰にも言っていない。言うつもりもない。保健室の先生が、僕がトマトであることを知っている唯一の存在だ。ヒロくんとトシちゃんにも僕がトマトであることを内緒にしているのは、いつだったか、彼らがトマトが嫌いだと言っていたから。僕は人間のふりをして、これから長い時間を生きていく。あの時、先生は僕に少しだけの水を与えてくれた。

それだけで、僕は、大丈夫なのだ。

寒い、雪が積もりつつある夜。

恋人が飲み会から帰ってくるのを待っている。遅い、って拗ねたら「誰も待っててなんて言ってないよ」と諭されるので拗ねない。本当は少し寂しいけど、まぁ、拗ねない気の持ち方を会得しつつある。たぶん。

 

就職に向けて、宿題みたいな感じで渡されたペン字練習帳でカタカナを練習しつつ、見汐さんのブログを遡って、名前があげられているアーティストをYouTubeで片っ端から検索しまくっている。ながら勉強、ダメって教わったはずなのに、高校受験の時でさえ「音があったほうが集中できる!」と言い張り、テレビをつけた部屋で勉強していた。何故か、かたくなにながら勉強をやめなかった僕。その結果アホに育った僕。

好きなアーティストの好きな音楽を聴いてみたくなる時期が年に数回ある。大抵はちょっと聴いてヘェ〜って感じで終わらせてしまうのだけれど。突き詰められない自分に馬鹿野郎もっとちゃんと聴けよ!と言いたくなる。色々聴いてみて今日1番やべえなぁと思ったのは浅川マキ。めちゃくちゃ良かった。空気公団も良かった。いろんな曲を聴いてみよう。決意。

 

卒論も進めなきゃなぁ。提出まで2ヶ月ないのに全然進んでない。自己嫌悪。ブログ更新してる場合じゃないのは分かっています。

バイト、定期的に「この日入れない?」ってラインがきて増やされそうになるのもやだなぁ。忘年会の時期だから仕方ないけど、毎回断るのも気を使う。

 

最近はそんな感じの生活で、そんな感じに生きています。

恋人の中にいつまでも昔の男の影が見えて、苦しい。いつまでもいつまでも付き纏う。あの男と離れるために、おれと一緒にいるんだろう。たぶん。それが全てではなくても、そうなのだろう。

 

いつまで、孤独なのだろう、僕ら。

12月

iPhoneを同期させたくて、pcにつないでみるのだが、pcが悪いのかケーブルが悪いのか、読み込んでくれない。

何度か電源を落としてみたり、ケーブルを変えてみたりするのだけれど、一向に読み込んでくれるような気配はない。

つい先日まで、ちゃんと使えていたのになぁ。

 

恋人は飲み会に行っている。二次会に行くか行かないか連絡してね、と言ったはずなのだけれど、連絡はなし。時間的に多分二次会に行っているのだと思う。30分位前にLINEを送ったけど、返信もなし。こういう時はいつもいつも、彼女が以前、嘘を吐いてはあの男と会っていたのを思い出してしまう。もう大丈夫だと思う。心から信じてはいない。無償の愛なんて幻想なのだろうな、悔しいけれど。

 

明日から寒波がやって来て、この辺りでは降雪の可能性があるという。ベランダに出て、冷たい空気を鼻の奥で受け止める。あぁもう冬なのだ。

 

早朝、真白く降り積もった新雪に新しく足跡をつけるように、去年のあの日から降り積もってきた日々を思い返す。雪を踏む足に力がこもる。ぎゅっ、と足元で雪が小さく悲鳴を上げる。記憶は溶けない。頭の中で踏み固められて、靴底の泥に黒く汚され続ける。

 

雪なんて降らなければ良いのになぁ。