憂き世話

憂き世話

「怖いから見たくない!」 そう言って絢子はトイレから走って出ていく。 検査窓に赤紫色の線がうっすらと浮かんでくる。段々と色が濃くなっていく線の左側には真っ白な空白。線は一分ほどではっきりと現れた。まだなんとなく安心できず、そのまま数分、小さ…

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高校へ続く道は桜並木になっていて、春になると花は鮮やかに咲き乱れ、そして一週間ほどで散っていく。落ちた花弁が道路の端の方へと追いやられて茶色く腐っていく間に、木々は生命力が透けて見えるほどに濃い緑色をした葉を育て、自らが落とした花弁のこと…

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あんたの、ふとした一言にどうしようもなく悲しくなってしまうことがある。でも、おれは、あんたの抱える過去を忘れろとか忘れるなとかそんなことを言いたいとは全くと言っていいほど思ってない。 だって、過去って一人ひとり違っていて、その過去があっての…

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夕方くらいから、日が暮れて数時間経った今まで、ずっとずっと同じ問題を考え続けている。 自分の頭が相当に悪いと気づいたのは最近のことで、「宿題面倒臭いよ〜」なんて台詞が、教室のあちこちから毎日聞こえてくるものだから、私は勝手に勘違いをしていた…

憂き世話

たまたま街中であなたを見つけると、それだけで嬉しいような悲しいような変な気持ちになって、思考が停滞してしまいました。 あなたがここを去ってから、もう何度夜が来て、その度、私は何度暗闇へ浸されたのか、もう分かりません。身体を濡らす暗闇が乾く前…

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美咲先生は大学生で、毎週火曜と木曜に僕の家へやって来て国語を教えてくれる。僕は文章を読むのが嫌いで、小説ならまだ少しは楽しいと思えるのだけれど、評論なんて何が楽しいのか分からないし、細かな字が整然と並んでいる様を眺めているとなんだか頭の中…

憂き世話

お前が死んだって世界は変わらねえよ。ただ少しの数の人間が悲しんで、そしてお前のことを忘れていくだけで、そんなことでは世界は変わらない。だから生きるってのも虚しいだけなら、もう好きにしてしまえばよいさ。お前が死んだって世界は変わらない。いや…

憂き世話

誰かが自分の名前を呼んだような気がして振り返ると、クラスで一番可愛いと言われている女子と目が合った。僕は2秒ほど彼女を見つめていたが、目が合った途端に彼女の眉間にはその端正な顔に似合わぬ、深々とした皺が生み出された。自分のことを不審に思っ…

憂き世話

薄っぺらいビーチサンダルが小石を踏みつけた。小石はビーチサンダルの底に食い込んで、ビーチサンダルの底に小さな窪みが出来た。鋭利な小石に刺されたそこからは一滴の血も流れない。夏の夜の国道沿い、歩道を歩いている。通り過ぎていくのは大型のトラッ…

憂き世話

隣室から喘ぎ声が聞こえるこの深夜三時半の部屋で僕は物語を終えるのだ。隣で行われているのは生殖活動なんかではない。学生のくせに子供を作ろうとするはずはない。じゃあ、何のための行為なのか? 薄い膜の中は牢獄以上に残酷な場所なのだとお前は分かって…

憂き世話

ぴいぴいと鳴く小さな生き物が、うちへやって来た。やって来たというか、風呂から上がって、火照った身体を冷やそうとミネラルウォーターを飲むために冷蔵庫の扉を開くとちょこんと座っていた。私が「うわっ」と叫ぶと、ぴい、と鳴いた。そっと手を伸ばして…

憂き世話

フルはウロを私に渡そうとビを伸ばした。私はそんなものにはもう飽きてしまったので、視線だけはウロの方に向けて、じっとその場に座っていた。フルは「アラ、ゴキゲンナナメカナ」なんて言って、ウロを、ことり、と置いて向こうへ行った。ここには、フルの…

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僕はウサギだ。これは比喩でもなんでもなく、近所の遊園地でウサギの着ぐるみを着て風船を配っている。バイトの求人を探していたら、たまたま見つけた仕事だった。なんとなく楽しそうだと思い、なんとなく応募したら、数日後には、僕はウサギになっていた。…

憂き世話

この部屋に居ると、落ち着くので、私はよくこの部屋を訪れます。私は几帳面な性格ではなく、どちらかというと大雑把な性格をしているせいもあって、この雑然とした空間を堪らなく心地良く感じるのです。今、私の周囲は様々な物で溢れて、少しでも手を触れた…

憂き世話

「わたしは貴方の椅子になって差し上げたいの。」「椅子か、そんな物になってどうするつもりなんだい?そんな物にならなくともきみは僕の恋人であるし、それに、きみは椅子になるにしては不恰好な形をしているよ。きっと、安定感が無いものだから、誰にも座…

憂き世話

彼は硝子で作られた兎である。彼を見るものは声を揃えて綺麗だ、と言った。しかし、彼には色彩が無かった。透明なその身体の内側を光は貫通し、彼はその様子を見て、憂えていた。彼の身体を貫通し切ることのできなかった光の欠片達は、彼の足元に彼の影を薄…

憂き世話

誰も居ない様な夜だった。まるで、孤独の様だった。紫煙が空気に溶ける事に意味は無かった。黒い空に穴が空いていて、それは突然、視界の上へ上へと泳いでいった。此処はゆっくりと、しかし、僕達の思いもよらない速度を保っている。知っているようで分かっ…

憂き世話

彼が会いに来てくれた。彼は温和な人で、私は彼の怒った姿を見たことはなかった。私にまだ心を許してくれてないのか、と不安になったこともあるけれど、彼の幼なじみですら彼が怒っているのを見た記憶がないという話を聞いて、あ、彼はそういう人なのかと安…

憂き世話

人混みの喧騒の中にふわふわ浮いている、アイツは何者なのだろうか。生き物であるかどうかすら判別不可能である。少なくとも、アイツは多くの人々が行き交う街の片隅でふわふわと浮かんでいる、ということだけは僕の足りていない脳味噌でも判断できている。…

憂き世話

朝、目が覚めると隣に彼女が眠っている。朝は気分が良い時と悪い時がある。今日は少し気分が良い朝だ。僕はテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。画面の中では、先日この町で起きた女子大生失踪事件について様々な議論が交わされている。警察は…

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世界の極一部である。免れることの出来ない真実。僕は世界の極一部である。取るに足らない世界の極一部である。居なくなったところで痛くも痒くもない世界の極一部である。だから、世界から乖離したいと願う。いや、乖離とまでいかなくて良い、ただ、少しだ…