赤い実


運動会を明日に控えて、教室の中はいつもより少しだけ、そわそわと落ち着かない。

お弁当のオカズは何だろうね、おやつも持っていこうよ、飴食い競争楽しみだなぁ、飴食い競争は小麦粉で真っ白になるから嫌だなぁ、小麦粉美味しくないよねぇ…。

僕は、運動会が嫌いだった。走るのはあまり得意ではないし、そもそも運動が苦手だから。運動会なんて、運動が得意な奴が目立つための行事だとしか思えない。運動が得意な奴らは、なぜだか、みんなから慕われている。勉強なんかできなくても、慕われていて、奴らの周りには友達が集まっていて、僕の隣にはいつもトシちゃんとヒロくんしかいない。
「明日は運動会です、暑くなりそうなので水分補給を忘れない様にしましょうね、みんなの頑張っている姿をお家の人に見せてあげましょうね、それではみなさん、また明日。」


先生がそう言い終わるのと同時に僕は、席を立って教室から逃げる。早いよぉ、待ってよぉ、とトシちゃんが後からついてくる。トシちゃんが遅いんだよ、と僕は笑いながら振り向く。トシちゃんは僕よりも足が遅い。だから、僕は少しだけ意地悪な気持ちになって、トシちゃんから逃げるふりをして走り出す。トシちゃんは、待ってよぉ、と弱々しく叫びながら、僕を追いかける。僕は、運動会が嫌いだ。

 

運動会が始まると、テントの中は一気に暑くなった。みんな、大きな声を出して、誰々くん頑張れー、とか、誰々ちゃん負けるなー、とか叫んでいる。ただ、そこで呼ばれる名前は、いつもクラスの中心にいるような奴らの名前だった。そういえばヒロくんがこの競技に出てるんだっけ、と思い出して、僕の目がヒロくんを探す。丁度ヒロくんにバトンが渡ったところだった。ヒロくん頑張れー、僕は叫ぶ。ヒロくん、頑張れ、そう叫んでいるのは僕とトシちゃんだけだった。みんな「頑張れー、頑張れー、」と機械みたいに繰り返しているように見えた。テントの中には、ヒロくんの名前を叫ぶ人間は、僕らの他にいなかった。

 

バトンが手渡された。僕はバトンをしっかり握りしめて走り出した。前を走る人の背中がどんどんと遠くなっていく。思っていた通り、僕は足が遅くて、どれだけ頑張ってみても、上手く足が動かない。僕の名前は聞こえない。トシちゃんとヒロくんは、きっと僕の名前を叫んでくれているだろう。でも、その小さな叫びは、その他何百の熱気の中に飲み込まれて、埋もれて、僕は、ひとりだった。それでも走るのは、たぶん、僕はひとりじゃないと思い込む為で、それが、僕ができる精一杯の生き方だった。
地面が近づいて来る。バトンが手から離れて、転がっていく。

 

保健室の中は、静かで、さっきまでの熱気が嘘のようだった。保健室の先生が僕の膝小僧に消毒液を塗ってくれた。そうすると、傷口から泡が立って、先生が、「これは、ばい菌が死んでいく証拠なのよ」と言った。僕の膝小僧に、いつから、ばい菌が巣食っていたのだろう、と思った。本当は、自分がばい菌なのではないかとも思った。
先生は、傷口の上にガーゼを被せて、テープで固定した。「先生は少し職員室に戻るけど、もう少し休んでいく?」と聞かれたので、頷くと、先生はふふっと笑って保健室から出ていった。

僕は、静かで無機質な部屋の中で、ひとり、椅子に腰掛けていた。窓の外では、みんな楽しそうに、同じ方向へ視線を向けていて、ヒロくんもトシちゃんも、その中に紛れて、校庭の内側で目立つ人や目立たない人たちを見つめていた。少し寂しくなって、保健室の中を見回してみたけれど、よくわからない器具や、薬品が並んだ棚や、変なキャラクターが描かれた歯磨きを呼びかけるポスターや、特に面白いものもなかった。

そのうち、なんとなく、傷口が気になって、皮膚からペリペリとテープを剥がして、ガーゼの下の傷口を見てみた。
熟れ過ぎて、溶け始めたトマトのようだと思った。ばい菌が殺されて、清潔なはずのそこは、まるで、腐った赤い果実のようだった。
あぁ、僕は人間じゃないのではないか、僕の身体はトマトで出来ていて、自分でも気付かないうちに、こんなにドロドロに腐っていたんだ、誰も、僕がトマトだなんて教えてくれなかった、いや、気付いてくれなかった、僕は人間じゃなかった。
保健室の先生が戻ってきて、僕が泣いているのに気付いた。あら、こんなに暑いのにそんな風に泣いてると、脱水症状が心配ね、なんて言ってコップに水を注いでくれた。そうして、先生は僕の隣に座った。僕は、自分がトマトだということに気付いたんだ、と先生に話した。先生は真剣に僕を見つめて話を聞いてくれた。話を聞き終わると、先生は微笑んで言った。


「君はトマトなのね、私、君のこと人間に見えていたけれど、そうか、トマトだったのか。トマトって美味しいわよね、私、好きよ。」


僕は、でも腐ったトマトはもう食べられないよ、と言った。先生はふふっと笑った。


「君みたいに小さなトマトが、まだ腐るはずないじゃない。ちょっとぶつけて傷が出来ちゃっただけ。大丈夫、君は人間の形をしたトマトだから、私の経験上そんな傷はすぐに治ってしまうわ。…それとね、必要最低限の水しか与えずに育ったトマトは、とても甘くなるの。私の推測だけど、君は、たぶん、とても甘いトマトになれるんじゃないかな。君はこれから、どんどん大きくなって、喉も渇いてしまう時も沢山あるでしょうけれど、枯れそうになる前にほんの少しだけ、水を飲んだら良いの。飲み過ぎたらだめよ、世の中にはそういう時に水を飲み過ぎてしまうトマトが沢山いるけれど、君は飲み過ぎたらだめ。」


先生の話はよく分からなかったけれど、なんだか嬉しくて、僕は頷いて、それからコップの水を一気に飲み干した。
「あら、飲み過ぎたらだめだって言ったばかりなのにな。」
先生はふふっと笑った。

 

先生の言った通り、傷はすぐに塞がった。僕は自分がトマトであることを誰にも言っていない。言うつもりもない。保健室の先生が、僕がトマトであることを知っている唯一の存在だ。ヒロくんとトシちゃんにも僕がトマトであることを内緒にしているのは、いつだったか、彼らがトマトが嫌いだと言っていたから。僕は人間のふりをして、これから長い時間を生きていく。あの時、先生は僕に少しだけの水を与えてくれた。

それだけで、僕は、大丈夫なのだ。