海辺を想う

あの日の海を思い出してみる。 死んでも構わないと思いながら歩いていると、海に来ていたのだった。砂が足に纏わりつく鬱陶しさすらどうでも良く、ただ生きる事の不遇さや理不尽さをアルコールで溶かしながら歩いていた。波の音が思っていたよりも優しかったのが印象に残っている。死ねないなあ、と思った。親のため、友人のため、そんなことは正直どうでも良かったのだが、祖母の顔だけが脳裏に浮かんで死に向かう自分を温かく見つめてくれていたような気がする。

 

両親は共働きで家に帰ってくるのが遅く、幼い頃から祖母との時間の中で育ってきた。お袋の味、という言葉があるが、それも祖母が作った料理のことを指すような、そんな生活をしてきたのだ。祖父が亡くなってから、祖母は生きる活力を失っていったように思える。歳のせいもあり、身体が動かなくなってきている。同じ話を何度も繰り返すようにもなった。長年一緒にいても、食べ物の好き嫌いをなかなか覚えてもらえないのは、たぶん、歳は関係なく、そういう性格だというだけである。大学に合格した時に、泣いて喜んでくれたのも祖母だけだった。ホームページに自分の番号が載っているのを見て、ふたり、泣きながら抱き合ったのを覚えている。

 

祖母が悲しむのだろうな、と考えると生きていなければいけないと思ってしまう。幸せに生きる姿を見せなければいけない。幸せに生きていなくても、祖母が自分を見て幸せに生きているのだな、と感じてくれさえすればそれで良い。幸せなんて分からないので、幸せなふりをして生きていければ良い。祖母が死んでしまうまで、そうやって生きていければ良い。だから、今は実家に帰れない。こんな顔で祖母に会うわけにはいかないのだ。 生きることに希望を求めてはいけない。というか、そんなものはきっとどこにも無い。絶望も同じ。ここには何も無い。無いものばかりを求めて、手に入るものは一体何なのだろうか。ひとつ、確かなのは生まれてしまったということで、まだ死ぬ時ではないということだ。

花火

納涼祭の終わりには花火をするのが恒例だった。納涼祭と言っても、小さな村の小さな公園で行われる小さな祭りで、公園の真ん中に建てられた櫓の周りで盆踊りをしたり、ちょっとしたグラウンドゴルフ大会が行われたりする程度のものだった。週に何度か公民館で盆踊りの練習をした。アラレちゃん音頭やドラえもん音頭を練習した。ドラえもん音頭のメロディがなんだか苦手で、今でも思い出す度に変な気分になる。

花火は手持ち花火と吹き上げ花火で、打ち上げ花火などといった立派な花火はなかった。打ち上げるために安全を確保できるほどの広い場所もなかったし、スーパーやホームセンターに売ってある花火セットを使っていたので仕方ない。

まず子供たちは手持ち花火をそれぞれに楽しんだ。お互いの火を貰いあったり、青年団のお兄さんがライターで火をつけてくれたりした。手持ち花火がなくなってくると、次は線香花火の出番だ。子供たちはなぜか線香花火が好きだった。決まって誰が一番長い間燃やし続けることができるのか勝負をした。勝った記憶はないし、負けた記憶もない。ただみんな無駄に緊張して、手をプルプルと震わせていたのを覚えている。

最後はいつも吹き上げ花火だった。お兄さんが、子どもたちは危ないから離れてね、と言うと、みんな数歩後ろに下がって、導火線に火をつけるお兄さんをじっと見つめる。なぜかみんな真剣で、一言でも喋ってしまえば、お兄さんが驚いて火をつける場所を間違えてしまい、花火が爆発してしまうのではないかと思ってしまうほどに静かに黙って、誰ひとり微動だにしなかった。

火がつくと、わぁ、と小さな歓声がポツポツと上がるが、それらの声がシューシューと吹き出す炎の音に掻き消されてしまうほどに子どもたちの数は少ない。

吹き出す炎がだんだんと小さくなっていくのと同じように、子どもたちの興奮もだんだんと小さくなり、火が消える。

田んぼに挟まれるようにして伸びる街灯もない真っ暗な道を歩き、家に帰ると、部屋の中は眩しいほどに明るく感じた。

そうして1日が終わっていった。

憂き世話

薄っぺらいビーチサンダルが小石を踏みつけた。小石はビーチサンダルの底に食い込んで、ビーチサンダルの底に小さな窪みが出来た。鋭利な小石に刺されたそこからは一滴の血も流れない。夏の夜の国道沿い、歩道を歩いている。通り過ぎていくのは大型のトラックばかりだ。車通りの少ないこの時間、昼間よりも速度を出して大きな金属の塊が身体の数メートル横を走っている。トラックに掻き分けられた空気がぬるい風になって、髪の毛を揺らす。

夜の散歩は、寂しい。自動販売機と街灯とコンビニの明かりだけが自分を照らしてくれる数少ない光で、暗闇に溶けるような黒色のTシャツを着てきたことを少しだけ後悔する。

コウモリが街灯の薄暗い光の周りをぐるぐると飛んでいる。大きな蛾のようにも見えた。

この街が死んだように眠っている間だけ、ひとりになることができる。日が昇れば多くの人間が目を覚ます。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、うるさくなる。生きているんだ、という主張を各々が必死になって繰り返す。死んだ人間のことなど、思い出す人の方が少ない。生きている人間というのは往々にして生きたがる。生きたことしかないくせに、それが全てだと思い込む。

コンビニで買った甘い酒の小さな瓶を地面に叩きつけると、ぱりん、という音とともに小さな欠片がいくつも生まれた。欠片たちは暗闇の中の光を搔き集め、反射して、まるで地面に小さな星空が誕生した瞬間を見たような気がした。ビーチサンダルを脱いで、星空を踏みつける。欠片が足の裏に食い込む感触。痛かった。足の裏に出来た細かくて小さな窪みたちからは、赤黒い血がぷくりと溢れ出して、それらはすぐに窪みではなくなった。小さな血の池地獄だ、と思った。

憂き世話

隣室から喘ぎ声が聞こえるこの深夜三時半の部屋で僕は物語を終えるのだ。隣で行われているのは生殖活動なんかではない。学生のくせに子供を作ろうとするはずはない。じゃあ、何のための行為なのか? 薄い膜の中は牢獄以上に残酷な場所なのだとお前は分かっているのか? 知るかそんなこと。

いいか、僕は今ここで物語を終えるのだ。お前らが何の意味もない快感に自分を狂わされている間に僕は自分に狂わされて、そして、筆を置くのだ。僕は僕を産み落とすのだ。目的のない生は、目的のない死と同義だ。

死ぬのは怖いか。生きる方がよっぽど怖くはないか。大丈夫か。お前らなら大丈夫だろ。阿呆みたいに汚れてゆけば良い、知らぬ間に罪を重ねてゆけば良い。そんなに気持ちの良いことはないだろう? なあ、物事は往々にして一義的には出来ていないんだ。僕が今こうやって産み落としたものにも、ふたつ、みっつ、よっつ、いや、そんなもんじゃない、もっともっと、数え切れないくらいの意味とか形とか、そういう何かがミルフィーユみたいに積み重なってるんだ。迷い込め。迷え。生きることは生きるだけではありえない。だからとりあえず、生きてみれば良いさ、あんたも。

あぁ、筆が折れてしまった。なんだよ、安物買うんじゃなかったな。まだ物語は終わってないんだが、新しい筆を買いに行くのも面倒臭いな。やってらんねぇや。

半袖

気温が上がってきて、半袖姿の人々が目立つようになってきた今日この頃。まだ、半袖は早いだろう、いや、いけるかも、いや、やっぱまだ早いかな、といった具合に毎日着る服について思案する。特にこだわりはなく、よく「寝巻き?」と言われるので「正装です」と言い返すほどに服には無頓着である。それでも、なぜか半袖をいつから着るべきなのか、という問題については毎年慎重に考える。そして、今だ!というタイミングで半袖を着て、意気揚々と家を飛び出すのだ。今年はいつ、今だ!というタイミングが訪れるのだろうか。

青年

小説をいつか書いてみたいと思っていた。本を読む習慣はなく、今でも大した数の本を読んではいないが、本を読む度に感動したり、しなかったりしていた。本を読むことが嫌い、と思ったことはない。
勉強は現代文だけ大好きだった。英語も現代社会も世界史も数学も、どれもこれも取り組んでいると頭が痛くなるような気がしていた。現代文だけは、本当に楽しかった。いつまででも問題を解き続けられると思いながら、勉強をしていた。
小説を、一回だけでも自分の手で、頭で、書いてみたいと思っていた。どんな物語になるのか自分でも見当がつかないが、それはそれで楽しいような気がする。
一作で良い。いつか自分が小説を書き終える日を楽しみにしている。

憂き世話

眼を開くと、真黒な、どろどろとした液体が身体を包んでいた。呼吸ができないが、不思議なことに苦しくはなかった。身体の中が火照って、血が巡っている感覚が脳味噌を揺らす。自分の血液ではない、何か別の生き物の群れが身体の中を駆け巡っている。自分自身が1匹の動物であることが信じられなくなる。これが、生きるということなのだろうか。覚醒しない意識の中で、考える。いつから考えているのかも、覚えていない。分かるのは、自分には身体があって、自分は生き物であるということだけだった。それだけは、確信を持つことができた。何か、音が聞こえる。規則的に繰り返されるくぐもった音が何処から聴こえているのか、自分の身体の中から聴こえる音なのか、それとも、このどろどろとした液体を伝わって聴こえる音なのか、判断できない。

夢を見た。いつ見た夢なのかも分からない。いつ眠っていたのかも思い出せないが、夢を見た。知らない女が泳いでいる。魚の様にも、獣の様にも見えるその女の股の間から、小さな小さな魚が湧き出してくる。女の血液と体液の混ざったものが、小さな魚たちがぴょこぴょこ飛び出してくるのと同時に水中へ溶けていく。
小さな魚たちは、あの女の稚魚のようなものなのだろうか。小さな魚が1匹、こちらへ泳いでくる。その顔面は人間の男のようだった。もう1匹、泳いでくる。嫌に鰭が長いな、と思っていたが、よく見るとそれは鳥の翼であった。少し恐ろしくなって、他の無数の小さな魚を1匹1匹、捕まえて、その体を眺める。あるものは猫の髭のようなものが生えていた。また、あるものは蛙の後ろ脚が生えていた。何万もの魚を捕まえたが、それら全てが異なる形をしていた。1匹だけ、魚と言い切れる形の魚がいた。女は、魚を産むのを止めて、水の底へ沈んでいく。小さな魚たちもそれに気付いてか、女の沈んでいく方向へ泳ぎ始める。自分だけが、女とは逆の方向へ向かって泳ぎ始める。自分の身体を見てみると、奇妙な形の鰭が4本生えていた。鰭の先は、5つに枝分かれしている。どんどんと身体が重くなる。沈みそうになる。沈まないように、泳ぐ。視界の先に、真黒な紙に針で穴を開けたような、点が見えた。誰かに呼ばれているような気がした。泳ぐ。泳ぐ。
ふと、身体の中を小さな魚が通過したような気がした。小さな魚はどんどんと数を増やし、身体の中を駆け巡った。あるものは男になり、あるものは女になった。2人は交合し、また小さな魚が増えていった。身体の中が熱かった。それでも、まだ泳ぎ続けていた。自分の意思ではなく、また、誰かの意志でもなく、きっとこれが本能というものなのだろうと、うっすらと感じた。点だったものは、だんだんと大きくなり、そして、大きな球体になった。魚たちが身体の中で暴れている。懐かしい匂いがした。誰かが呼んでいる。球体は女に形を変えた。女が手を差し出す。その手を掴もうと、手を伸ばす。手と手が触れた。
 
声が聴こえる。あの時と同じようで、少し違うような気がする。眼を開くと、そこは先程とは全く違う場所のように思えた。そして、僕は、呼吸ができることに気付いた。もうここは、液体の中ではないのだと知った。身体の中は静かになっていた。僕は、ひとつの動物であった。人々が僕を見下ろして、心配そうな顔をしている。その光景が、何故だか神々しいもののように思え、僕を見下ろしているのが、神や仏のように思え、僕は泣いた。
 
 
 

高校時代のある日

田舎町のこの辺りにしては大型の書店の駐車場の端の段々になったところに腰掛け、友人と2人何をするでもなく、自分たちの退屈な日常について話している。アスファルトの割れ目や継ぎ目から雑草が生えていて、風にゆらゆらと揺らされている。

学校帰りに、中学の頃から仲の良いこの友人とばったり出くわして、どこかで話でもしようと、なんとなく、この駐車場に来た。彼は僕の通う高校とは違う高校へ通っていて、授業でよく海に潜るらしい。僕の高校は自称進学校で、前も後ろも右も左も勉強勉強とうるさい。
海に潜る授業ってなんなのだろう、と僕が考えながら友人の話をぼーっと聞いていると、向こうから50歳くらいのおばさんが近付いてきた。停まっている車も少なくスカスカな駐車場の端で、ふらりふらりとこちらへ歩いてくるおばさんを僕たちは、何も言えずに注視する。百歩譲っても、不審者、としか言いようがなかった。
「すいません!!いま大丈夫ですか!?」
おばさんは、5メートルくらい先まで歩いてくると、そう叫んだ。百歩譲っても、不審者、としか言いようがなかった。
「まぁ、大丈夫ですけど…」
何が大丈夫か分からないが、僕はなぜかそう答えてしまう。昔から、そういうところがある。友人はこの状況に興味を持ったのか、口の端が笑いそうになるのをこらえている。
「あのね、私、いま、血液型を当てる練習をしているのだけれど、付き合ってもらえないかしら、すぐ終わるから」
おばさんがなんだか自信満々な顔で言うので、良いですよ、と承諾すると、おばさんは嬉しそうに笑った。
「それじゃ、右のあなたから。手のひらを見せてもらっても良いかしら」
まずは友人のターン。友人が手を差し出す。すると、おばさんもなぜか手のひらを差し出す。おばさんの手のひらには「ABABO」とひょろひょろとした字がボールペンで書かれていた。ちょっと掠れて消えかけている部分もあった。「そうね、うん、そうね」おばさんはぼそぼそと何かを言ったかと思うと、「ABABOABABOABABO…」
呪文を唱え始めた。僕と友人は必死に笑いを堪える。
「ABABOABABO…あなた、O型ですね!」
 
違う。友人はAB型だ。
「いやぁ、違いますねぇ…」
友人は勝ち誇った顔をして、おばさんに告げる。おばさんは悔しそうな顔をする。
「うーん、違いますか…おかしいな…じゃあ次はそこのあなたの血液型を当てます。」
いよいよ、僕のターンだ。なぜだか少し緊張する。
「それじゃ、手のひらを見せてもらっても良いかしら」
僕は手のひらを差し出す。すると、おばさんも手のひらを差し出す。おばさんの手のひらには…(略)
「ABABOABABO…あなた、B型ですね!」
おばさんは期待に満ち溢れてた目でこちらを見つめる。やってやった、そう顔に書いてあるかのような勝ち誇った表情。果たして僕の血液型はB型であるのだろうか。それとも、別の血液型であるのだろうか。
僕は、静かに口を開く。
「…いや、違いますね」
なんとおばさんは、2回ともハズしてしまったのだ。血液型を当てる練習をしているおばさんともあろう者が、2回ともハズしてしまったのだ。勝率ゼロパーセントなのだ。おばさんは泣きそうな顔をして「あれ、おかしいなぁ」と呟いた。なんなのだろう、このおばさんは。あれ、おかしいなぁ、じゃねぇよ。当ててくれよ、血液型を。他には何もいらないから、血液型を当ててくれよ。
「でも、まぁ、こういうこともあるけれどね、実はね…」
おばさんが、苦し紛れに何か言おうとしている。実はなんなのだろうか。僕たちは、言葉の続きを待つ。おばさんはこちらを見ることもなく続けた。
「実はね、この能力は誰にでもあるものなの。あなたにも、あなたにも、この能力はあるのよ。本当なのよ。この能力は誰にでもあるのよ…おかしいなぁ」
何を言っているのだろう?  言い訳ですらない謎の発言だった。誰にでもある能力なら、なおのこと当ててくれよ。
僕たちが呆れてものも言えずにいると、おばさんは申し訳無さそうな表情を浮かべて、
「付き合っていただいて、ありがとうございました。・・・この能力は誰にでもあるんですよ、あなたたちにもあるの、ありがとうございました」
そう言って、くるりと背を向けて歩いていった。切ない後ろ姿だった。
 

憂き世話

ぴいぴいと鳴く小さな生き物が、うちへやって来た。やって来たというか、風呂から上がって、火照った身体を冷やそうとミネラルウォーターを飲むために冷蔵庫の扉を開くとちょこんと座っていた。私が「うわっ」と叫ぶと、ぴい、と鳴いた。そっと手を伸ばして恐る恐る触れてみると、ふわふわとしていて、柔らかすぎるマシュマロのようだった。

私は、二階建ての古アパートの二階の一番端の部屋に住んでいる。隣には化粧の濃いおばさんが住んでいて、毎朝階段の下のところで野良猫に餌をやっている。私が家を出るのはだいたい午前8時頃なのに、おばさんは毎朝ばっちり化粧をして猫に餌をやっている。「おはようございます」と挨拶をすると、ニコニコしながら「おはようさんさん」と返してくる。毎朝、変な挨拶だなぁと思う。
 
私はふわふわの生き物の正体をおばさんが知っていないだろうかと思い、おばさんの部屋を訪ねた。がちゃりとドアが開いて、おばさんがひょこっと顔を出す。
「遅くにすみません」
ドアの間から顔を出すおばさんはこんな時間なのにまだばっちり化粧をしていた。
「いいのよ、どうしたの?」
おばさんはピンクと白のチェックのパジャマを着ている。
「昨日、冷蔵庫を開けたらふわふわの生き物がいたんですけど、あれはなんなのでしょうか?」
「あぁ、あれが出たのね」おばさんはさも当たり前のことのようにそう言って、ドアをガッと開くと、私の耳元に口紅で真っ赤に塗られた唇を近づけて囁いた。
「あれが出たってことは、あんた、ふふふ、良いわねぇ」
「良いことなんですか?」私はわけもわからず、聞き返したが、おばさんは、ふふふっと笑いながらドアをぱたっと閉めてしまった。呆気にとられて突っ立っていると自分の部屋から、ぴいぴいと大きな鳴き声がしたので、はっと我にかえり、自分の部屋へ向かった。
ドアを開けると足元にふわふわがいた。ぴい、ぴい、とこっちを見上げて鳴いている。私はふわふわをそっと手の中に包む。少しでも力を入れるとぐしゃっと潰れてしまいそうなほどに、ふわふわはふわふわしている。机の上にふわふわを置いてやろうと、ふわふわを包んでいた手を開くと、もう、すやすやと眠っていた。
こいつはいったいなんなのだろうか。冷蔵庫の中から現れたことを考えると、もしかして冷蔵庫内の卵が孵化したのだろうか?と思い付いて冷蔵庫を開け、卵の数を数えた。十個入りのパックの中から、昨日、目玉焼きに使ったひとつが消えているだけであった。卵から生まれたわけではないらしい。では、どこからやってきたのだろう?いや、もしかして冷蔵庫の妖精?などと首をひねっていると、ふわふわが急に「ぴい」と声を上げた。見てみると、ふわふわはさっきと変わらない場所で、すやすや眠っていた。寝言だったらしい。
風呂から上がって冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中には夕飯の残りのほうれん草のおひたしや、ニンジンやレタスやチョコレートや缶チューハイが雑然と詰め込まれている。ふわふわが新しく生まれていないことにほっと胸をなでおろして、ミネラルウォーターを取り出して、飲む。喉をひやりした液体が下っていく感覚が心地良い。
「私も眠ろうかな」
ベッドに入ると、今日は疲れていたのかすぐにウトウトしてきて、明日のことを考えている内に眠ってしまった。
 
なんだか喉の辺りがむずむずして目が覚めた。窓の外はまだ黒くて、月の光が部屋の中を薄く照らしている。覚めない頭で、ぼうっと部屋の中を見渡してみて、はたと気づいた。机の上で眠っていたはずのふわふわがいない。気づいた瞬間、喉に感じる違和感が、猛烈な不安感と共に再び私を襲った。
喉の中に何かいるのだ。
私は飛び跳ねるように起き上がって、洗面所へ走った。鏡に向かって口を大きく開くと、舌の上に乗る白いふわふわした尻尾が映った。尻尾より先は私の身体の中へ続いている。私はぞっとして、尻尾を指先で掴んで引っ張り出そうとした。びくともしない。もう一度、さっきより力を入れて引っ張ってみる。「ぴい」と私の首の付け根の辺りから鳴き声が聞こえた。その後、尻尾は私の親指と人差し指の間をすっと抜けて、滑り落ちるように私の中へ消えていった。同時に私の背筋をひやりとした感覚が下っていった。信じられない気持ちで、もう一度、鏡に向かって口を開いてみたが、そこにはいつもより赤くなった舌とあまり整っていない歯並びが映るだけであった。
 
そういえば、おばさんが何か知っていそうな雰囲気だったのを思い出し、次の日、眠れないまま朝を迎えた私は、おばさんの部屋の扉をノックして「相談があるのですが」と近所の喫茶店へ向かった。この喫茶店は、50歳くらいのおじさんがやっている小さな店で、珈琲が苦い。窓際に、よくわからない金髪の女の子の人形や、木でできた鴨の置物や、色々なものが統一性もなく並べられている。
私が話している最中、おばさんは終始ニコニコとしていた。いつもニコニコしているが、いつもとは違う、なんというか孫を見ている時のおばあさんのようなニコニコであった。今日も相変わらず化粧が濃い。
「あれはなんなんでしょうか?」昨日のことを思い出して、少しだけ手が震えている。
「あれはね、なんというか、私にもよくわからないのよね。でもね、私、あのアパートに二十年住んでるんだけどね、あれを食べちゃったのはあなたで四人目。」
おばさんはニコニコしながらそう言った。
「私は四人目なんですか」
「そう、四人目」そう言って、おばさんは珈琲を一口飲んだ。「苦いわねぇ」と顔をしかめる。
「ふわふわを食べてしまった人達はどうなったんですか?病院とか行かなくても大丈夫なのでしょうか?」
真剣に尋ねたのだけれど、おばさんは、あっはっはと笑った。
「病院なんて行かなくても大丈夫よ、あれはそんなに悪いもんじゃないわよ。あれを食べちゃった女達はね、みんな、一年も経たない内に良い男を見つけて、結婚して幸せになります、なんて言って、どっか行っちゃった。私も食べたいなぁと思って、ずっとあのアパートに住んでるんだけどね。」
結婚という言葉を聞いて、私は動揺していた。結婚。今の私には、縁のないはずの言葉である。でも何故だか、あ、私、結婚するのか、という確信が頭に浮かんだ。
「私のところにも出てこないかしら」
おばさんは、窓の外を眺めながら小さな声で呟いた。
 
ふわふわは私の中のどこにいるのだろうか。ふわふわを食べる前と食べた後とで私の体調は特に変わることもなく、私はいつも通りの生活を送った。
二ヶ月後、私はある人とお付き合いを始め、その半年後にはプロポーズをされ、そして結婚することが決まった。おばさんの言っていたことは本当だった。私には兄も弟もいて、相手はひとりっ子だったこともあり、私は相手の家へ嫁ぐことになった。私は、おばさんにこのことを報告しようと思い、おばさんの部屋を訪れた。がちゃりとドアを開けておばさんがひょこっと顔を出す。
「おばさん、おばさんが言っていた通り、私、結婚することになりました。幸せになります。」
おばさんは慣れた様子で「あら、おめでとう。お幸せにね、また遊びに来てね」と言った。おばさんの化粧は相変わらず濃かった。
 
いよいよ彼の家へ嫁ぐ日が来た。私は彼の車の助手席で、これから始まる生活について想いを巡らせていた。お義母さんと円満に過ごせたら良いなぁ、お義父さんは少し頑固そうな人だけどうまくやっていけるかなぁ、そんなことを考えている内に眠くなって、眠ってしまった。
 
大きな音がしたような気がして目が覚めた。なにやら様子がおかしい。辺りは真っ暗で、何も見えない。それになんだか、寒い。
彼は?
彼のいるはずの方向へ手を伸ばすと何か硬いものに触れた。なんだろう。少なくとも彼でないことは分かった。人間にしては硬すぎるし、冷たいのだ。きっとこれは、生き物ではない。
彼はどこに行ったのだろう。というか、ここはどこなのだろう。何が起きたんだろう。彼はどこに行ったのだろう。怖くて、不安で、私は彼の名前を叫ぼうとした。
そのとき、ぴい、と自分の中から鳴き声が、聞こえた。
 
 
 
 

日常

講義が終わって近所の書店に行った。岩波新書蔵出し祭というキャンペーンをしていて、キャンペーン中は岩波新書1冊購入につき1回福引きに挑戦できる。福引きの商品は岩波の限定グッズ(非売品)らしい。twitterでそのキャンペーンを知ったので、講義が終わってからすぐに書店に向かったのである。新書を普段は読まないくせにグッズが欲しいばかりに書店に来たので、何を買おうか考えながらしばらく本棚の前でじっと背表紙を眺めた。眺めたというより睨みつけた。やっと1冊選んで、ついでにうろうろして、他に3冊の本を手に取り、レジへ。
レジには書店がよく似合う40代くらいの女の人がいて、ワクワクしながらその人に本を手渡した。

カードはお持ちですか?
はい、持ってます
ありがとうございます
…文庫にカバーはご利用になりますか?
いえ、いらないです
わかりました
ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…
4冊で3,262円です…10062円お預かりします
ピッピッ ガチャン
それでは、お先に6000円と…800円のお釣りです
ありがとうございました、またお越しくださいませ…

あれ、福引きは???
心の中で、今か今か、どのタイミングで来るのか、まだか、あれ、まだなのか、という感じで福引きを待ちわびながら精算をしていたが、「福引き」の「ふ」の字すら店員さんの口が発することはなかった。こういう時に、あの、福引きを…という図々しさを僕は持ち合わせていない。あ、ありがとうございますぅ…と言ってレジを立ち去り、少し切ない気分になった。
店員さん、忘れてたのかな。それとも、もう景品無くなっちゃってたのかもな、なんて考えながら、弁当を買いにスーパーへ行った。弁当しか買うつもりがなかったので、買い物カゴは持って入らなかったけれど、見て回っている内になんだか久々に自炊をしてみたいような気になって、入り口へ買い物カゴを取りに戻る。入り口に戻ると、まるでカゴの番人のように両サイドに男性店員が立っていて、客が来ると「いらっしゃいませぇ〜」と野太い声で言い、客にカゴをサッ!と手渡していた。なんだかカゴを取りに行きづらい。なんのサービスだよ、と思いながら見つからないようにそっと忍び寄り、カゴを取ろうとすると、「いらっしゃいませぇ〜」という声と共にサッ!とカゴが差し出された。目ざとかった。

今日はそんなことがあった。