吸水性

終わりがくる度に、自分の中に空洞がぽこりと生まれる様な心持ちになる。必死に立ち向かっていた対象がある日急に無くなってしまうことなんて、生きていく中では珍しいことではないのだけれど。


自分の中に生まれた空洞は、徐々に広がっていって、今まで生まれてきた空洞とひとつになったり、交わらないままに広がり続けたりする。
普段は気にしないのだけれど、新しく終わりが訪れた次の日には、僕の意識はそれらに集中される。そんな時、僕は自分はスポンジの様だと思う。スカスカの中身。外から見る形だけは変わらないままなのが虚しい。


スポンジは色々なものを吸い取る。洗剤とか水とか、大抵の液体ならば否応なしに吸収してしまう。僕が吸い取っているのは、寂しさや虚しさで、空洞の中を満たすそれらを搾り出す術を僕は知らない。誰かが僕を抱きしめる様にして力を加えてくれれば、搾り出せるのだろうか。
吸い取ったものを溜め込んで腐らせて、そんな身体で明日について考える。そんな日々を繰り返しては、また空洞が生まれ、僕はそこに新たな寂しさと虚しさを溜め込んでいく。


空洞を何か別のもので満たしたいだけなのだ。


抱きしめられて、ぎゅっと小さくなった身体を元の大きさに戻す時、寂しさでも虚しさでもない何かを吸い取って、そうやって、満たされたいだけなのだ。

憂き世話

たまたま街中であなたを見つけると、それだけで嬉しいような悲しいような変な気持ちになって、思考が停滞してしまいました。


あなたがここを去ってから、もう何度夜が来て、その度、私は何度暗闇へ浸されたのか、もう分かりません。身体を濡らす暗闇が乾く前に、また新しい暗闇が私をひたひたと飲み込んでいくので、いつまで経っても糊の利いたパリパリのシャツを着ることができません。


私たちは5年近い間、隣にいたのに、あなたは呆気なく他の人のところへ行ってしまいましたね。私ひとりがあなたの側から離れるのを嫌がって、迷惑をかけてしまいました。


本当は今でも、まだ、縋り付きたいと思ってしまうことがあります。でも、そんなことを望んでも、何も、良い方向へは向かわないし、あなたが幸せになれないと知っているので、我慢します。


私には、あなたの幸せを創ってあげることができなかったのです。私は幸せだったけれど、あなたの幸せはここにはなくて、だから、あなたはここを去ったのですね。
私が苦しむだけ、それだけのことで、あなたの幸せが保証されるのなら、それで良い。あなたの幸せは私の幸せでもあります。だから私は苦しんでも大丈夫。
私はあなたの幸せを創っている一部になれたのです。隣にいては創れなかったそれを、今は、少しだけ支えることができているのです。私は、幸せなのです。

 

今日、見つけてしまったあなたは楽しそうに笑っていました。
あなたが私を思い出すことがあるならば、あなたの選んだ道が間違っていないということだけ覚えていてください。

間違いなんて、どこにもないのだということを忘れないでください。


そして、あなたが嫌じゃなければ、で良いので、あなたがどこにいるとしても、私のことを忘れないでいてください。

2016年10月21日のこと

僕の住む街で大きな地震が起きた。 揺れ始めた時に何をしていたのか、もうあまりよく覚えていない。ベッドに座って、振動する部屋の中で、棚から空き瓶や小銭をためていた小箱や木で出来た蛙の置物や、いろいろなものがポロポロと落下していくのを見ていた。スマホが耳障りな緊急地震速報を鳴らし始めたのは、揺れが始まってから数秒後で、これじゃただの事後報告じゃないか、と思った。

 

幼い頃にも地震を経験したことがある。たしか震度3くらいだった。保育園のお昼寝の時間に、突然窓がガタガタと音を立て始めたのだった。みんな、起き上がってぼうっとしていた。先生たちだけが深刻な顔をして、何か僕たちに話しかけ続けていたけれど、それを聞いている園児なんていなかったと思う。揺れが収まってから、隣に座っていた麗ちゃんに「ゴジラが来たのかと思った」と言うと、麗ちゃんは笑っていた。先生が部屋の隅に設置されていたテレビをつけて、「怖いなぁ」と言っていた。

 

揺れは5分位続いた。いや、5分に思えただけで、実際は3分だったかもしれないし 、30秒だったかもしれない。非日常に投げ込まれたときの時間の感覚なんて曖昧なものだ。 Twitterを開くと、地震に関するツイートばかりが画面を覆い尽くしていた。「揺れてる、怖い怖い」なんて、本当に怖いと思っている人がTwitterなんて開いて投稿している場合かよ、と少し面白く感じた。数分前まで、授業が退屈だとか、バイトが面倒だとか、そんな呟きばかりだったのに、揺れが始まった時間帯からは、スイッチが切り替わったかのように、地震のことしか呟かれていなかった。

 

余震は数分に一回のペースで続いた。祖母に電話をしてみると、繋がらなかった。サーバーが混み合っているのだと思った。しばらくしてからかけ直すと、息を切らした祖母の声が電話口から聞こえてきた。動揺しているようだったので、少しでも安心させようと、楽しげな声で話してみた。両親は共働きだし、弟は高校に行っている。姉は県外の大学院に通っている。祖母は昼間、家に一人なのだった。寂しがりやで、最近は足の具合が悪く歩くのも辛そうにしている祖母が一人で揺れに耐えたのだと考えると胸が痛んだ。怖かったよな、と声には出さずに言ってみる。

 

ガスの点検は予定通り行われたので少し驚いた。数日前に「21日金曜日にお伺いします」という内容の手紙がポストに入っていた。ガス会社のおじさんは何事もなかったかのように「こんにちわー」とやって来た。点検してもらっている最中にも大きめな余震が来て、また、棚から小物が落下した。おじさんと僕は苦笑いをしながら顔を見合わせた。「余震、けっこう来ますね」なんて馬鹿みたいな会話をおじさんと交わした。

 

夕方、また祖母と電話をした。近所の家を訪ねてみたら、焦っている自分とは裏腹にその家族はみんな平気な顔をしてた、と言っていた。やっぱり祖母は一人が怖かったんだな、と僕は思った。話をしているうちに、祖母がいつも通りの世間話を始めたので、僕は安心する。しばらく話を聞くともなしに聞いて電話を切った。

 

余震は回数を減らしながらも、やはり続いている。揺れの強かった地域では今後1週間程度は大きな地震が起こる恐れがある、とテレビで言っていた。現実味のない現実が続く。

ピアスを開けるのは完全に自己満足です。べつに誰かに見られたいとか、お洒落したいとかそんなんじゃなくて、自分の身体を自分のものだって確認するための行為。自傷行為。腕を切ることにはまだ抵抗があって、というか腕を切るのはあらかさま過ぎる気がするのと、自分の中で合法的ではないので罪悪感がまだ勝っているから、腕は切らないのですね。

 

耳に穴を開けるのは痛いです。毎回、痛過ぎてニードル通す最中もあぁもう嫌だぁとか思いながら通すんですけど、一ヶ月くらい経つとまた開けたくなってまたニードルをぶっ刺します。痛みに依存してるのかもしれないですね。 でもあまり耳に穴開けまくるのも避けたい。もうこれ以上は開けたくないと思っていて、じゃあ次、また開けたくなったときに僕はどうすれば良いのか今から不安になってます。 不安を消すための行為に不安になって、どこにも行けないまま、生きていくのかと考えてまた不安になります。 血を流したいわけじゃなくて、自分を自分に繋ぎ止めていたいだけなんです。腕は二本、脚も二本、胴体もあります。次はどこを、そんな風に考えて怖くなります。

 

僕を僕に繋ぎ止めてくれる人を探しているけれど、そんな人はまだここにはいなくて、どこかにいる保証も無くて、ここはなんて虚しいところなんでしょう。 喪失感も孤独感も消えない今日を、明日も明後日も続けていくしかないのでしょうか?

 

小学生の時に、卒業式から帰ったら父方の祖父が硬くなっていたことや、遊んでいたら父親が切羽詰った様子で迎えに来てそのまま病院に向かい、母方の祖父が死ぬ瞬間を見たこと、クラスメイトが棺の中で花に埋もれているのを見たこと、死というものを知ってしまったことが僕を此の世に繋ぎ止めようと必死にさせます。怖いとは思わなかったけれど、現実感のないあの光景たちが幼い僕の現実に割り込んできたのでした。それがどのようにいまの僕の中、残っているのか自分でもよくわからないのですが、確実に残っていて、消えることはないのだという確信もあります。消えて欲しいわけではないけれど、たまに思い出すと自分もいつか、あの子もいつか、とどうしようもないふわふわとした感情が胸を締めつけるのです。

 

生きている間は生きていなきゃいけないのだ。生きている間に幸せにならなきゃいけないのだ。そんな脅迫概念が僕の中に巣食っていて、だから生きていることを確認したくなるのです。身体に穴を開けて、自分を繋ぎ止めなければ、どこかへふわふわと自分が溶け出していってしまいそうで、精一杯繋ぎ止めるのです。こんな方法しか知らないのが恥ずかしいけれど。こんな生き方しかできないのが悔しいけれど。 明日の僕もこの身体でしかないので、どうしようもないのです。

憂き世話

美咲先生は大学生で、毎週火曜と木曜に僕の家へやって来て国語を教えてくれる。僕は文章を読むのが嫌いで、小説ならまだ少しは楽しいと思えるのだけれど、評論なんて何が楽しいのか分からないし、細かな字が整然と並んでいる様を眺めているとなんだか頭の中がふわふわして、読んでも読んでも、内容が頭に入ってこない。勉強は嫌いだ。なんのために自分がこんなことをしているのか、そう考えると馬鹿らしくなって、そして眠くなってしまう。


美咲先生は本を読むのが昔から好きだったと言っていた。僕には理解できない。本なんて読まなくたって生きていけるし、楽しいことなんて本を読む以外にも沢山あるのに、なんでわざわざ長い時間を消費して本を読むだろうか。
本を読むのが好きな美咲先生は、国語教員を目指していて、大学では文学部に所属しているらしい。
「本って、自分の知らない世界を見せてくれるのよ」
美咲先生はそう言った。自分の知らない世界は、知らないままでも良いと僕は思った。知ってしまえば、それはもう知らない世界ではなくて知識の一部になってしまうだけで、知らなかったことすらそのうち忘れてしまって、そんなことになんの意味があるのだろう。単に賢くなりたいのだろうか。知識豊富な自分に恍惚としたいのだろうか。

それでも先生が熱心に僕の勉強を世話してくれるので、少しずつだけれど、僕は文章を読むことができるようになっている。この前の期末テストでは、前回のテストよりも良い点が取れた。もちろん嬉しかった。だけど文章を読むのはやはり楽しいことではない。

 

美咲先生の耳にはピアスの穴が空いている。先生が僕の家に初めて来た時には空いていなかった。先生の耳にピアスが光っているのに僕が気づいた日、先生は少し悲しそうな顔をしていた。


「先生、ピアス空けたんだね」


もの珍しそうに僕が言うと


「空けちゃったの」


と先生は言った。その顔はやはり少し悲しそうに見えた。


「痛くなかった?」


「痛かった。すごく」


先生が悲しそうな顔をしているのは、きっとピアスの穴がまだ痛むからなのだろうと、僕は勝手に思った。痛いと悲しいよね、そんな風に思った。
しばらくして、先生のピアスがまた増えた。それまで耳朶に一つだけだったピアスが、今度は耳朶より少し上の軟骨と耳朶の境になっているあたりにもう一つ増えた。

「痛いのにまた空けたんだね」


僕は不思議に思った。痛いことなんてしたくないし、ましてやそれを自分から行うなんて僕には考えられない。自分の身体に穴を開けるなんて、怖い。


「痛いからまた空けたの」


先生はそう言った。そこで僕はまた先生が悲しそうな顔をしていることに気づいた。


「痛いのが好きなの? 先生泣きそうな顔してるけど痛いの嫌なんだったら空けない方が良いんじゃないの?」


先生はもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「痛いから、また空けたの」

 

僕はいじめられるようになった。国語の成績が伸びたからだ。親は喜んでくれる。先生も喜んでくれる。だけど、同級生たちは気に食わなかったようだった。いままでろくに勉強もできなかった僕が急に成績を伸ばすものだから、みんな悔しかったんだろう。そんなことでいじめは始まるのだ。馬鹿みたいだと思う。でも僕が彼らを馬鹿にしたところで良い方向には向かわないのだろう。いじめってそんなものだ。

最初はなんてことなかった。無視されたり、机に落書きされたり、それくらいのことが続くくらいのことならいくらでも我慢できた。でも、机の中に虫の死骸が入れられたり、上靴がゴミ箱に投げ捨てられていたりしたあたりから僕は我慢できなくなっていった。何をしていても頭はぼーっとしているし、身体は重くて、ゾンビになったような気がしていた。

家に帰って部屋でひとり勉強していると、机の上のペン立てにカッターナイフが刺さっているのが目に付いたので、僕はそれを使って腕を切ってみた。リストカットって話には聞いたことあったのだけれど、まさか自分がそんなことするなんて思ってもいなかったのに、腕を切った。自分のものでないような気がしていた身体が自分の元へ戻ってきたような感覚だった。傷口から血が溢れて、血の雫が腕をつーっと伝って机に落ちた。なぜか美咲先生のことを思い出した。悲しそうな顔。僕はいまどんな顔をしているのだろうか。

 

僕が腕を切った次の日、美咲先生が国語を教えにやって来た。 先生の耳にはピアスが全部で四つ光っている。


「痛いから空けるんだね」


僕が呟くと、先生は少しだけ僕の顔を見つめた後、


「痛いから空けるの」


と言って、問題集を開いた。

演者

人間は地域の中で無意識的に与えられた役を演じている。大学のある講義でそういう話があった。文学的な視点から地域を見るというテーマで行われた講義で、ある小説について教授が解釈し、そこから導き出される論を説明するというもの。学部全体の必修科目だったため多くの学生が受けた講義だった。僕のいる学部は教育、政策、環境、文化の4つの学科で構成されていて、僕は文化学科で日本文化コースを専攻している。日本近代文学のゼミに所属していることもあり、文学に少なからず興味を持っている僕は興味深く話を聞いていたのだが、まわりの学生たちには文学に興味がない人が多いのか「話が分からない」とか「あの人何喋ってるの?」といった声が聞こえてきて、少し切なく思った。


 

文学的な視点から地域を見る、と言ったが、ここでいう「地域」とは単に地方とか都市部とかそういった場所的な意味での「地域」だけではない。例えば、学校。小学校でも、ある中学校と別の中学校では性質が多少異なる。ある中学校は荒れていてトイレに煙草の吸殻が落ちている。教師たちは生活指導に力を入れる。また、ある中学校では生徒の全体的な学力が高く、進学校へと進学していく生徒も多い。このように中学校といっても千差万別で同じものはない。あるいは家族。家族によって、生活スタイルが違うのは当然の事である。晩御飯を20時に食べる家庭もあれば、18時に食べる家庭もある。
生活文化や習慣が同じ人間同士が共存するある範囲、それも「地域」である。その意味で、中学校も家族もひとつの地域と呼べる。


そのような地域の中で人間は自分の意思に関わらず、役割を演じている。という。僕自身は家族の中で長男を演じている。学校の中で学生を演じている。友人関係の中で僕自身を演じている。
そして、そこから逃れることができるのは死んだ時である。人間は死ぬまで何かを演じていくのである。
無意識的に、というのが辛い部分である。僕は長男だから長男を演じようなんて、誰も思わないだろう。もし、長男を演じたくない!と思ったとして、事実、自分は長男であるのだから、長男で居続けることしかできない。


自分の話になるが、僕は「長男だから家を継ぐんだよ」と昔から言われ続けていて、そういうものなのだと思い込んでしまっているようだ。家を継ぎたくないわけではないし別にそれでも良いのだが、一人暮らしをしてみたり、県外に出たいなと思ってみたり、そこから逃れようとしている自分もいて、無意識的に演じながら無意識的にそれに抵抗してしまっていることに気づく。それも全てシナリオで、僕は家族という舞台上で与えられた役を演じているだけである。気づいたところで役を降りることはできない。終幕までは、だが。


 

人間は皆、演者である。人生の終幕の際に多くの花を渡されるのは、撮影が終わった際に俳優が花束を渡されるのと似ているな、と思う。


「ありがとうございました!楽しい現場でした!終わってしまうのが寂しいです!」なんて、笑って言えるような舞台を創る一員でありたいと願う。

憂き世話

お前が死んだって世界は変わらねえよ。ただ少しの数の人間が悲しんで、そしてお前のことを忘れていくだけで、そんなことでは世界は変わらない。だから生きるってのも虚しいだけなら、もう好きにしてしまえばよいさ。お前が死んだって世界は変わらない。いや、でも、あれだな、お前の思ってる世界ってのが何なのか、それによって変わってくるのかもしれないな。お前が変えたい世界は、どこにある? お前の中にあるだろ、多分。世界ってのは無数に蠢いてるから、そのひとつかふたつくらいなら、変えられるのかもしんないな。大抵の人間が世界だと思ってるのはただの外枠なのかもな、外枠変えたところで、その中の絵画がクソみたいな出来栄えのものなら、それこそ虚しいだけだ。お前が綺麗な絵を描いてやれば良いのかもな。そのために死ねよ。

憂き世話

誰かが自分の名前を呼んだような気がして振り返ると、クラスで一番可愛いと言われている女子と目が合った。僕は2秒ほど彼女を見つめていたが、目が合った途端に彼女の眉間にはその端正な顔に似合わぬ、深々とした皺が生み出された。自分のことを不審に思っているのがその表情に現れている。彼女が自分の名を呼んだのではないことは明白であった。


僕は目を逸らして黒板に向き直る。白いチョークで文豪の文章を黒板にでかでかと書き写す国語教師は、白髪と黒髪の混じった頭を手の動きと連動させるようにして揺らしている。


いったい誰が僕の名を呼んだのか。周りを見渡してみても、皆、黒板に目を向けているか、机に顔を沈めて眠っているかのどちらかで、この中に僕の名を呼ぶ理由をもった人間がいるとは思えなかった。それは当然のことでもあるように思える。僕の名を呼んで何の意味があるのだろうか。僕はいじめられているわけでもなく、クラスの中心で騒ぐほどの気概もない。強い人間が弱い人間に、理不尽な敵意を向けるのをただ傍観して、日々を過ごしている。強い人間は、強い。誰もが彼らを見上げているように思える。裏で文句を言う奴もいるが、当人を目の前にすると、にこにこと笑みを浮かべている。弱い人間は教室の隅に影を潜め、1日が平穏の内に終わっていくことを望んでいる。ただし、その心の中には平穏なんかではなくて、平穏のふりをした不安や恐怖が巣食っている。僕は強い人間でも弱い人間でもない。ただ、ここにいるだけの人間だ。誰からも見られることはない。弱い人間は、見られることで弱い人間として生きていくことができるが、僕は誰にも見られない。筆箱の中のペンのようなもので、普段は気にもかけず入れっぱなしにしているくせに、無くなった時だけ少し気にかけて探してみるのだ。探して見つからなかったら、まぁいいか、なんて新しいペンを買って、僕は忘れられてしまう。無くなったことにすら気づかれない場合もある。そんな存在。


「修治」


教師の体の向こう、白い文字で埋め尽くされた黒板の中ほどに僕の名前が書かれていた。あぁ、そうか。この教室には僕の名前を呼ぶ人間なんて一人もいない。

汚い部屋

メンヘラ気質に拍車がかかってきている自覚がある。隠していたけれど、隠し通すのもそろそろ限界なのかもしれない。
正直、今までの人生病んでいた記憶しかない。別に鬱病とかそういう病気ではなかったと思う。ただ精神的に弱いだけで、そんなのは甘えだろうと自分でも思う。その証拠に生活に支障が出ることもほとんどなかったし、体調が狂うこともなかった。
しかし、最近は生活がまともにできない。睡魔がゆるゆると頭を蝕んでいるし、気力というものも欠片ほどもない。やらなければいけないこと、責任だとか義務だとか、そういう問題がつきまとうようなことですら、やろうやろうと思っていてもこなせないで罪悪感。
部屋は掃除をしてみても、2日もすれば元の通り、ゴミ箱とその他のスペースとの境界を無くす。ゴミ箱に住んでいるみたいで、蝿の幼虫の気分。蛹になって、羽が生えて、空へ飛び出せていければ良いけれど、その気配もない。ただの芋虫。でも、芋虫も必死に生きているので、僕の方が生き物として劣っている。


死について、他の人は1日にどれくらい考えているのだろう? 生きている限り、死ぬことは当然避けられないことで、避ける意味もない。生まれたから死ぬ、それだけ。生まれるということは死ぬということで、どちらが素晴らしいかとかいう議論は稚拙で阿呆らしい。生きることと死ぬことは同じ。そんなことをずっとずっと考えているんだけれど、他の人は死について考えているのだろうか? 生きている時間を生きることだけに使うのは勿体無いし、不可能なことなので、僕は既に死んでもいるのですが。あれ、話が矛盾してる気がする。


この身体には論理性を持ち合わせていない脳味噌しかない。知識も思考も、海の中に浮かぶ海月や魚のように、点々と散らばって泳ぎ続けている。いや、海月や魚の方がマシだ。まだ食物連鎖とか生態系とか、それぞれ繋がりあっているので。僕の思考は本当にそれぞれがただ、ぷかぷかと海に浮かんでいるだけで、僕は何かを話すとき、それらをひとつずつ捕まえて、言葉にして、放る。僕は、それらを結び付ける術を知らないし、他方の尻尾を他方の口に突っ込んで無理やりひとつにしてみても、それは見た目通りつぎはぎの塊でしかない。論理的な思考が欲しい。頭の中の思考と思考をコネクトする術を持っている人が羨ましい。
そう、こんな文章を書いているのも、何もする気が起きないからで、文字と言葉(僕は日本語しかまともに喋れない、それどころか日本語すら危うい)だけにはまだ興味を持てているので、ただ、書いているだけで何の目的もない。


二階堂奥歯さんの八本脚の蝶を読んだ。書籍でなくネットで。化粧については全く無知なので分からなかったが、その他の文章は面白く読めた。人間の頭の中には、いろんな世界があるのだと思う。読書量が尋常じゃなく多い人なんかは特に生き辛さを感じてしまうのだろうな。世界が広いから。広いからこそ、狭いところしか見えなかったり、たまに見え過ぎて恐ろしくなってしまったりする。世界は自分で創るものなのだろう。あなたは世界で僕も世界で、そういうもので、そこにはたいした意味はない。
今は、扇風機の風が生温くて気持ちが悪い夜。

田舎のこと

実家のある辺りは山に囲まれていて、川が流れ、民家よりも田圃の数の方が多いような場所である。
幼い頃から生き物が好きだった。好き、というよりは生活の中に生き物がいることが当たり前のこと過ぎて、生き物と関わらざるを得なかったと言った方が良いのかもしれない。とにかく田舎なので生き物が多いのである。
特に両生類が好きでよく捕まえたり眺めたりしていた。一番好きなのはシュレーゲルアオガエルで、次はモリアオガエル。どうも自分はアオガエル系が好きらしい。カジカガエルは鳴き声が綺麗でアオガエルの仲間ではあるが、青くないのでそこまで好きではない。


祖母が管理する家の裏の畑では、夏になると毎年西瓜を育てている。地面を埋め尽くすように這う蔓の隙間をヒキガエルが歩いていたことがあった。ヒキガエルは蛙らしからぬ、のそのそとした動きをする。滅多に見つけることが出来ない蛙なので、見つけた時はとても嬉しい。ヒキガエルを触って愛でていると、頭の横の少し膨らんだ部分から白いベタベタしたものを分泌し始める。これは毒である。ヒキガエルを触ったその手で目をこすろうものなら失明してしまうかもしれない。実際にヒキガエルを触った手で目をこすったことがないので分からないが。


周りを見渡せば、常にどこかを鳥が飛んでいる。電線や木の枝にも止まっている。今まで見た中で興奮した鳥は、フクロウ、雄のキジ、カワセミの三種である。

まず、フクロウだが、野生の個体は一度しか見たことがない。中学校の帰り道、薄暗くなってきた空の下で自転車を走らせていると、電線に大きな鳥が止まっているのが見えた。鳶だろう、と思いぼうっと眺めていたが、近づくにつれて、鳶とは少し違う形をしていることが分かってきた。頭が丸っこい。目を細めてよく見ると、それは図鑑や動物園の檻の中で見たフクロウと同じ顔をしていた。フクロウが広い空の下に立っている姿は、なんだか不思議な感じがした。


次にキジ。キジは綺麗だった。鮮やかな色をしている。キジもまた中学校の帰り道、自転車に乗っていた時に見かけた。道路を緑色のキラキラした鳥が走り抜けていった。飛んでいたのではない、走り抜けていった。すごい速さだったので一瞬しか見ることができなかったが、宝石のような生き物だと思った。


カワセミも宝石のような鳥である。大きさは雀より少し大きいくらいで、青色をしている。カワセミは名前の通り、川の近くにいる。人生で三回ほどしか見たことがないが、あんなに綺麗な鳥は他にいないのではないかと思うくらいに綺麗な青色をしている。カワセミを見る度に自然って素晴らしいな、と実感する。


色々な生き物を見てきたが、どの生き物もそれぞれ可愛らしい見た目をしている。虫は見れば見るほど気持ち悪いが、動き方や飛び方なんかは可愛らしいものである。
生き物に触れ合える生活ができるということが自分の人生においてどんな効果を持つのかは分からないが、自然の中で生活することは嫌いではないし、嫌いになれるはずもなく、ふとした時にはやはり実家に帰りたくなるのである。