憂き世話

眼を開くと、真黒な、どろどろとした液体が身体を包んでいた。呼吸ができないが、不思議なことに苦しくはなかった。身体の中が火照って、血が巡っている感覚が脳味噌を揺らす。自分の血液ではない、何か別の生き物の群れが身体の中を駆け巡っている。自分自身が1匹の動物であることが信じられなくなる。これが、生きるということなのだろうか。覚醒しない意識の中で、考える。いつから考えているのかも、覚えていない。分かるのは、自分には身体があって、自分は生き物であるということだけだった。それだけは、確信を持つことができた。何か、音が聞こえる。規則的に繰り返されるくぐもった音が何処から聴こえているのか、自分の身体の中から聴こえる音なのか、それとも、このどろどろとした液体を伝わって聴こえる音なのか、判断できない。
夢を見た。いつ見た夢なのかも分からない。いつ眠っていたのかも思い出せないが、夢を見た。知らない女が泳いでいる。魚の様にも、獣の様にも見えるその女の股の間から、小さな小さな魚が湧き出してくる。女の血液と体液の混ざったものが、小さな魚たちがぴょこぴょこ飛び出してくるのと同時に水中へ溶けていく。小さな魚たちは、あの女の稚魚のようなものなのだろうか。小さな魚が1匹、こちらへ泳いでくる。その顔面は人間の男のようだった。もう1匹、泳いでくる。嫌に鰭が長いな、と思っていたが、よく見るとそれは鳥の翼であった。少し恐ろしくなって、他の無数の小さな魚を1匹1匹、捕まえて、その体を眺める。あるものは猫の髭のようなものが生えていた。また、あるものは蛙の後ろ脚が生えていた。何万もの魚を捕まえたが、それら全てが異なる形をしていた。1匹だけ、魚と言い切れる形の魚がいた。女は、魚を産むのを止めて、水の底へ沈んでいく。小さな魚たちもそれに気付いてか、女の沈んでいく方向へ泳ぎ始める。自分だけが、女とは逆の方向へ向かって泳ぎ始める。自分の身体を見てみると、奇妙な形の鰭が4本生えていた。鰭の先は、5つに枝分かれしている。どんどんと身体が重くなる。沈みそうになる。沈まないように、泳ぐ。視界の先に、真黒な紙に針で穴を開けたような、点が見えた。誰かに呼ばれているような気がした。泳ぐ。泳ぐ。
ふと、身体の中を小さな魚が通過したような気がした。小さな魚はどんどんと数を増やし、身体の中を駆け巡った。あるものは男になり、あるものは女になった。2人は交合し、また小さな魚が増えていった。身体の中が熱かった。それでも、まだ泳ぎ続けていた。自分の意思ではなく、また、誰かの意志でもなく、きっとこれが本能というものなのだろうと、うっすらと感じた。点だったものは、だんだんと大きくなり、そして、大きな球体になった。魚たちが身体の中で暴れている。懐かしい匂いがした。誰かが呼んでいる。球体は女に形を変えた。女が手を差し出す。その手を掴もうと、手を伸ばす。手と手が触れる。女は「良いのね?」と訊ねる。小さく頷いた。

声が聴こえる。あの時と同じようで、少し違うような気がする。眼を開くと、そこは先程とは全く違う場所のように思えた。そして、僕は、呼吸ができることに気付いた。もうここは、液体の中ではないのだと知った。身体の中は静かになっていた。僕は、ひとつの動物であった。人々が僕を見下ろして、心配そうな顔をしている。その光景が、何故だか神々しいもののように思え、僕を見下ろしているのが、神や仏のように思え、僕は泣いた。