汚い部屋

メンヘラ気質に拍車がかかってきている自覚がある。隠していたけれど、隠し通すのもそろそろ限界なのかもしれない。
正直、今までの人生病んでいた記憶しかない。別に鬱病とかそういう病気ではなかったと思う。ただ精神的に弱いだけで、そんなのは甘えだろうと自分でも思う。その証拠に生活に支障が出ることもほとんどなかったし、体調が狂うこともなかった。
しかし、最近は生活がまともにできない。睡魔がゆるゆると頭を蝕んでいるし、気力というものも欠片ほどもない。やらなければいけないこと、責任だとか義務だとか、そういう問題がつきまとうようなことですら、やろうやろうと思っていてもこなせないで罪悪感。
部屋は掃除をしてみても、2日もすれば元の通り、ゴミ箱とその他のスペースとの境界を無くす。ゴミ箱に住んでいるみたいで、蝿の幼虫の気分。蛹になって、羽が生えて、空へ飛び出せていければ良いけれど、その気配もない。ただの芋虫。でも、芋虫も必死に生きているので、僕の方が生き物として劣っている。


死について、他の人は1日にどれくらい考えているのだろう? 生きている限り、死ぬことは当然避けられないことで、避ける意味もない。生まれたから死ぬ、それだけ。生まれるということは死ぬということで、どちらが素晴らしいかとかいう議論は稚拙で阿呆らしい。生きることと死ぬことは同じ。そんなことをずっとずっと考えているんだけれど、他の人は死について考えているのだろうか? 生きている時間を生きることだけに使うのは勿体無いし、不可能なことなので、僕は既に死んでもいるのですが。あれ、話が矛盾してる気がする。


この身体には論理性を持ち合わせていない脳味噌しかない。知識も思考も、海の中に浮かぶ海月や魚のように、点々と散らばって泳ぎ続けている。いや、海月や魚の方がマシだ。まだ食物連鎖とか生態系とか、それぞれ繋がりあっているので。僕の思考は本当にそれぞれがただ、ぷかぷかと海に浮かんでいるだけで、僕は何かを話すとき、それらをひとつずつ捕まえて、言葉にして、放る。僕は、それらを結び付ける術を知らないし、他方の尻尾を他方の口に突っ込んで無理やりひとつにしてみても、それは見た目通りつぎはぎの塊でしかない。論理的な思考が欲しい。頭の中の思考と思考をコネクトする術を持っている人が羨ましい。
そう、こんな文章を書いているのも、何もする気が起きないからで、文字と言葉(僕は日本語しかまともに喋れない、それどころか日本語すら危うい)だけにはまだ興味を持てているので、ただ、書いているだけで何の目的もない。


二階堂奥歯さんの八本脚の蝶を読んだ。書籍でなくネットで。化粧については全く無知なので分からなかったが、その他の文章は面白く読めた。人間の頭の中には、いろんな世界があるのだと思う。読書量が尋常じゃなく多い人なんかは特に生き辛さを感じてしまうのだろうな。世界が広いから。広いからこそ、狭いところしか見えなかったり、たまに見え過ぎて恐ろしくなってしまったりする。世界は自分で創るものなのだろう。あなたは世界で僕も世界で、そういうもので、そこにはたいした意味はない。
今は、扇風機の風が生温くて気持ちが悪い夜。

田舎のこと

実家のある辺りは山に囲まれていて、川が流れ、民家よりも田圃の数の方が多いような場所である。
幼い頃から生き物が好きだった。好き、というよりは生活の中に生き物がいることが当たり前のこと過ぎて、生き物と関わらざるを得なかったと言った方が良いのかもしれない。とにかく田舎なので生き物が多いのである。
特に両生類が好きでよく捕まえたり眺めたりしていた。一番好きなのはシュレーゲルアオガエルで、次はモリアオガエル。どうも自分はアオガエル系が好きらしい。カジカガエルは鳴き声が綺麗でアオガエルの仲間ではあるが、青くないのでそこまで好きではない。


祖母が管理する家の裏の畑では、夏になると毎年西瓜を育てている。地面を埋め尽くすように這う蔓の隙間をヒキガエルが歩いていたことがあった。ヒキガエルは蛙らしからぬ、のそのそとした動きをする。滅多に見つけることが出来ない蛙なので、見つけた時はとても嬉しい。ヒキガエルを触って愛でていると、頭の横の少し膨らんだ部分から白いベタベタしたものを分泌し始める。これは毒である。ヒキガエルを触ったその手で目をこすろうものなら失明してしまうかもしれない。実際にヒキガエルを触った手で目をこすったことがないので分からないが。


周りを見渡せば、常にどこかを鳥が飛んでいる。電線や木の枝にも止まっている。今まで見た中で興奮した鳥は、フクロウ、雄のキジ、カワセミの三種である。

まず、フクロウだが、野生の個体は一度しか見たことがない。中学校の帰り道、薄暗くなってきた空の下で自転車を走らせていると、電線に大きな鳥が止まっているのが見えた。鳶だろう、と思いぼうっと眺めていたが、近づくにつれて、鳶とは少し違う形をしていることが分かってきた。頭が丸っこい。目を細めてよく見ると、それは図鑑や動物園の檻の中で見たフクロウと同じ顔をしていた。フクロウが広い空の下に立っている姿は、なんだか不思議な感じがした。


次にキジ。キジは綺麗だった。鮮やかな色をしている。キジもまた中学校の帰り道、自転車に乗っていた時に見かけた。道路を緑色のキラキラした鳥が走り抜けていった。飛んでいたのではない、走り抜けていった。すごい速さだったので一瞬しか見ることができなかったが、宝石のような生き物だと思った。


カワセミも宝石のような鳥である。大きさは雀より少し大きいくらいで、青色をしている。カワセミは名前の通り、川の近くにいる。人生で三回ほどしか見たことがないが、あんなに綺麗な鳥は他にいないのではないかと思うくらいに綺麗な青色をしている。カワセミを見る度に自然って素晴らしいな、と実感する。


色々な生き物を見てきたが、どの生き物もそれぞれ可愛らしい見た目をしている。虫は見れば見るほど気持ち悪いが、動き方や飛び方なんかは可愛らしいものである。
生き物に触れ合える生活ができるということが自分の人生においてどんな効果を持つのかは分からないが、自然の中で生活することは嫌いではないし、嫌いになれるはずもなく、ふとした時にはやはり実家に帰りたくなるのである。

海辺を想う

あの日の海を思い出してみる。 死んでも構わないと思いながら歩いていると、海に来ていたのだった。砂が足に纏わりつく鬱陶しさすらどうでも良く、ただ生きる事の不遇さや理不尽さをアルコールで溶かしながら歩いていた。波の音が思っていたよりも優しかったのが印象に残っている。死ねないなあ、と思った。親のため、友人のため、そんなことは正直どうでも良かったのだが、祖母の顔だけが脳裏に浮かんで死に向かう自分を温かく見つめてくれていたような気がする。

 

両親は共働きで家に帰ってくるのが遅く、幼い頃から祖母との時間の中で育ってきた。お袋の味、という言葉があるが、それも祖母が作った料理のことを指すような、そんな生活をしてきたのだ。祖父が亡くなってから、祖母は生きる活力を失っていったように思える。歳のせいもあり、身体が動かなくなってきている。同じ話を何度も繰り返すようにもなった。長年一緒にいても、食べ物の好き嫌いをなかなか覚えてもらえないのは、たぶん、歳は関係なく、そういう性格だというだけである。大学に合格した時に、泣いて喜んでくれたのも祖母だけだった。ホームページに自分の番号が載っているのを見て、ふたり、泣きながら抱き合ったのを覚えている。

 

祖母が悲しむのだろうな、と考えると生きていなければいけないと思ってしまう。幸せに生きる姿を見せなければいけない。幸せに生きていなくても、祖母が自分を見て幸せに生きているのだな、と感じてくれさえすればそれで良い。幸せなんて分からないので、幸せなふりをして生きていければ良い。祖母が死んでしまうまで、そうやって生きていければ良い。だから、今は実家に帰れない。こんな顔で祖母に会うわけにはいかないのだ。 生きることに希望を求めてはいけない。というか、そんなものはきっとどこにも無い。絶望も同じ。ここには何も無い。無いものばかりを求めて、手に入るものは一体何なのだろうか。ひとつ、確かなのは生まれてしまったということで、まだ死ぬ時ではないということだ。

花火

納涼祭の終わりには花火をするのが恒例だった。納涼祭と言っても、小さな村の小さな公園で行われる小さな祭りで、公園の真ん中に建てられた櫓の周りで盆踊りをしたり、ちょっとしたグラウンドゴルフ大会が行われたりする程度のものだった。週に何度か公民館で盆踊りの練習をした。アラレちゃん音頭やドラえもん音頭を練習した。ドラえもん音頭のメロディがなんだか苦手で、今でも思い出す度に変な気分になる。

花火は手持ち花火と吹き上げ花火で、打ち上げ花火などといった立派な花火はなかった。打ち上げるために安全を確保できるほどの広い場所もなかったし、スーパーやホームセンターに売ってある花火セットを使っていたので仕方ない。

まず子供たちは手持ち花火をそれぞれに楽しんだ。お互いの火を貰いあったり、青年団のお兄さんがライターで火をつけてくれたりした。手持ち花火がなくなってくると、次は線香花火の出番だ。子供たちはなぜか線香花火が好きだった。決まって誰が一番長い間燃やし続けることができるのか勝負をした。勝った記憶はないし、負けた記憶もない。ただみんな無駄に緊張して、手をプルプルと震わせていたのを覚えている。

最後はいつも吹き上げ花火だった。お兄さんが、子どもたちは危ないから離れてね、と言うと、みんな数歩後ろに下がって、導火線に火をつけるお兄さんをじっと見つめる。なぜかみんな真剣で、一言でも喋ってしまえば、お兄さんが驚いて火をつける場所を間違えてしまい、花火が爆発してしまうのではないかと思ってしまうほどに静かに黙って、誰ひとり微動だにしなかった。

火がつくと、わぁ、と小さな歓声がポツポツと上がるが、それらの声がシューシューと吹き出す炎の音に掻き消されてしまうほどに子どもたちの数は少ない。

吹き出す炎がだんだんと小さくなっていくのと同じように、子どもたちの興奮もだんだんと小さくなり、火が消える。

田んぼに挟まれるようにして伸びる街灯もない真っ暗な道を歩き、家に帰ると、部屋の中は眩しいほどに明るく感じた。

そうして1日が終わっていった。

憂き世話

薄っぺらいビーチサンダルが小石を踏みつけた。小石はビーチサンダルの底に食い込んで、ビーチサンダルの底に小さな窪みが出来た。鋭利な小石に刺されたそこからは一滴の血も流れない。夏の夜の国道沿い、歩道を歩いている。通り過ぎていくのは大型のトラックばかりだ。車通りの少ないこの時間、昼間よりも速度を出して大きな金属の塊が身体の数メートル横を走っている。トラックに掻き分けられた空気がぬるい風になって、髪の毛を揺らす。

夜の散歩は、寂しい。自動販売機と街灯とコンビニの明かりだけが自分を照らしてくれる数少ない光で、暗闇に溶けるような黒色のTシャツを着てきたことを少しだけ後悔する。

コウモリが街灯の薄暗い光の周りをぐるぐると飛んでいる。大きな蛾のようにも見えた。

この街が死んだように眠っている間だけ、ひとりになることができる。日が昇れば多くの人間が目を覚ます。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、うるさくなる。生きているんだ、という主張を各々が必死になって繰り返す。死んだ人間のことなど、思い出す人の方が少ない。生きている人間というのは往々にして生きたがる。生きたことしかないくせに、それが全てだと思い込む。

コンビニで買った甘い酒の小さな瓶を地面に叩きつけると、ぱりん、という音とともに小さな欠片がいくつも生まれた。欠片たちは暗闇の中の光を搔き集め、反射して、まるで地面に小さな星空が誕生した瞬間を見たような気がした。ビーチサンダルを脱いで、星空を踏みつける。欠片が足の裏に食い込む感触。痛かった。足の裏に出来た細かくて小さな窪みたちからは、赤黒い血がぷくりと溢れ出して、それらはすぐに窪みではなくなった。小さな血の池地獄だ、と思った。

憂き世話

隣室から喘ぎ声が聞こえるこの深夜三時半の部屋で僕は物語を終えるのだ。隣で行われているのは生殖活動なんかではない。学生のくせに子供を作ろうとするはずはない。じゃあ、何のための行為なのか? 薄い膜の中は牢獄以上に残酷な場所なのだとお前は分かっているのか? 知るかそんなこと。

いいか、僕は今ここで物語を終えるのだ。お前らが何の意味もない快感に自分を狂わされている間に僕は自分に狂わされて、そして、筆を置くのだ。僕は僕を産み落とすのだ。目的のない生は、目的のない死と同義だ。

死ぬのは怖いか。生きる方がよっぽど怖くはないか。大丈夫か。お前らなら大丈夫だろ。阿呆みたいに汚れてゆけば良い、知らぬ間に罪を重ねてゆけば良い。そんなに気持ちの良いことはないだろう? なあ、物事は往々にして一義的には出来ていないんだ。僕が今こうやって産み落としたものにも、ふたつ、みっつ、よっつ、いや、そんなもんじゃない、もっともっと、数え切れないくらいの意味とか形とか、そういう何かがミルフィーユみたいに積み重なってるんだ。迷い込め。迷え。生きることは生きるだけではありえない。だからとりあえず、生きてみれば良いさ、あんたも。

あぁ、筆が折れてしまった。なんだよ、安物買うんじゃなかったな。まだ物語は終わってないんだが、新しい筆を買いに行くのも面倒臭いな。やってらんねぇや。

半袖

気温が上がってきて、半袖姿の人々が目立つようになってきた今日この頃。まだ、半袖は早いだろう、いや、いけるかも、いや、やっぱまだ早いかな、といった具合に毎日着る服について思案する。特にこだわりはなく、よく「寝巻き?」と言われるので「正装です」と言い返すほどに服には無頓着である。それでも、なぜか半袖をいつから着るべきなのか、という問題については毎年慎重に考える。そして、今だ!というタイミングで半袖を着て、意気揚々と家を飛び出すのだ。今年はいつ、今だ!というタイミングが訪れるのだろうか。

青年

小説をいつか書いてみたいと思っていた。本を読む習慣はなく、今でも大した数の本を読んではいないが、本を読む度に感動したり、しなかったりしていた。本を読むことが嫌い、と思ったことはない。
勉強は現代文だけ大好きだった。英語も現代社会も世界史も数学も、どれもこれも取り組んでいると頭が痛くなるような気がしていた。現代文だけは、本当に楽しかった。いつまででも問題を解き続けられると思いながら、勉強をしていた。
小説を、一回だけでも自分の手で、頭で、書いてみたいと思っていた。どんな物語になるのか自分でも見当がつかないが、それはそれで楽しいような気がする。
一作で良い。いつか自分が小説を書き終える日を楽しみにしている。

憂き世話

眼を開くと、真黒な、どろどろとした液体が身体を包んでいた。呼吸ができないが、不思議なことに苦しくはなかった。身体の中が火照って、血が巡っている感覚が脳味噌を揺らす。自分の血液ではない、何か別の生き物の群れが身体の中を駆け巡っている。自分自身が1匹の動物であることが信じられなくなる。これが、生きるということなのだろうか。覚醒しない意識の中で、考える。いつから考えているのかも、覚えていない。分かるのは、自分には身体があって、自分は生き物であるということだけだった。それだけは、確信を持つことができた。何か、音が聞こえる。規則的に繰り返されるくぐもった音が何処から聴こえているのか、自分の身体の中から聴こえる音なのか、それとも、このどろどろとした液体を伝わって聴こえる音なのか、判断できない。

夢を見た。いつ見た夢なのかも分からない。いつ眠っていたのかも思い出せないが、夢を見た。知らない女が泳いでいる。魚の様にも、獣の様にも見えるその女の股の間から、小さな小さな魚が湧き出してくる。女の血液と体液の混ざったものが、小さな魚たちがぴょこぴょこ飛び出してくるのと同時に水中へ溶けていく。
小さな魚たちは、あの女の稚魚のようなものなのだろうか。小さな魚が1匹、こちらへ泳いでくる。その顔面は人間の男のようだった。もう1匹、泳いでくる。嫌に鰭が長いな、と思っていたが、よく見るとそれは鳥の翼であった。少し恐ろしくなって、他の無数の小さな魚を1匹1匹、捕まえて、その体を眺める。あるものは猫の髭のようなものが生えていた。また、あるものは蛙の後ろ脚が生えていた。何万もの魚を捕まえたが、それら全てが異なる形をしていた。1匹だけ、魚と言い切れる形の魚がいた。女は、魚を産むのを止めて、水の底へ沈んでいく。小さな魚たちもそれに気付いてか、女の沈んでいく方向へ泳ぎ始める。自分だけが、女とは逆の方向へ向かって泳ぎ始める。自分の身体を見てみると、奇妙な形の鰭が4本生えていた。鰭の先は、5つに枝分かれしている。どんどんと身体が重くなる。沈みそうになる。沈まないように、泳ぐ。視界の先に、真黒な紙に針で穴を開けたような、点が見えた。誰かに呼ばれているような気がした。泳ぐ。泳ぐ。
ふと、身体の中を小さな魚が通過したような気がした。小さな魚はどんどんと数を増やし、身体の中を駆け巡った。あるものは男になり、あるものは女になった。2人は交合し、また小さな魚が増えていった。身体の中が熱かった。それでも、まだ泳ぎ続けていた。自分の意思ではなく、また、誰かの意志でもなく、きっとこれが本能というものなのだろうと、うっすらと感じた。点だったものは、だんだんと大きくなり、そして、大きな球体になった。魚たちが身体の中で暴れている。懐かしい匂いがした。誰かが呼んでいる。球体は女に形を変えた。女が手を差し出す。その手を掴もうと、手を伸ばす。手と手が触れた。
 
声が聴こえる。あの時と同じようで、少し違うような気がする。眼を開くと、そこは先程とは全く違う場所のように思えた。そして、僕は、呼吸ができることに気付いた。もうここは、液体の中ではないのだと知った。身体の中は静かになっていた。僕は、ひとつの動物であった。人々が僕を見下ろして、心配そうな顔をしている。その光景が、何故だか神々しいもののように思え、僕を見下ろしているのが、神や仏のように思え、僕は泣いた。
 
 
 

高校時代のある日

田舎町のこの辺りにしては大型の書店の駐車場の端の段々になったところに腰掛け、友人と2人何をするでもなく、自分たちの退屈な日常について話している。アスファルトの割れ目や継ぎ目から雑草が生えていて、風にゆらゆらと揺らされている。

学校帰りに、中学の頃から仲の良いこの友人とばったり出くわして、どこかで話でもしようと、なんとなく、この駐車場に来た。彼は僕の通う高校とは違う高校へ通っていて、授業でよく海に潜るらしい。僕の高校は自称進学校で、前も後ろも右も左も勉強勉強とうるさい。
海に潜る授業ってなんなのだろう、と僕が考えながら友人の話をぼーっと聞いていると、向こうから50歳くらいのおばさんが近付いてきた。停まっている車も少なくスカスカな駐車場の端で、ふらりふらりとこちらへ歩いてくるおばさんを僕たちは、何も言えずに注視する。百歩譲っても、不審者、としか言いようがなかった。
「すいません!!いま大丈夫ですか!?」
おばさんは、5メートルくらい先まで歩いてくると、そう叫んだ。百歩譲っても、不審者、としか言いようがなかった。
「まぁ、大丈夫ですけど…」
何が大丈夫か分からないが、僕はなぜかそう答えてしまう。昔から、そういうところがある。友人はこの状況に興味を持ったのか、口の端が笑いそうになるのをこらえている。
「あのね、私、いま、血液型を当てる練習をしているのだけれど、付き合ってもらえないかしら、すぐ終わるから」
おばさんがなんだか自信満々な顔で言うので、良いですよ、と承諾すると、おばさんは嬉しそうに笑った。
「それじゃ、右のあなたから。手のひらを見せてもらっても良いかしら」
まずは友人のターン。友人が手を差し出す。すると、おばさんもなぜか手のひらを差し出す。おばさんの手のひらには「ABABO」とひょろひょろとした字がボールペンで書かれていた。ちょっと掠れて消えかけている部分もあった。「そうね、うん、そうね」おばさんはぼそぼそと何かを言ったかと思うと、「ABABOABABOABABO…」
呪文を唱え始めた。僕と友人は必死に笑いを堪える。
「ABABOABABO…あなた、O型ですね!」
 
違う。友人はAB型だ。
「いやぁ、違いますねぇ…」
友人は勝ち誇った顔をして、おばさんに告げる。おばさんは悔しそうな顔をする。
「うーん、違いますか…おかしいな…じゃあ次はそこのあなたの血液型を当てます。」
いよいよ、僕のターンだ。なぜだか少し緊張する。
「それじゃ、手のひらを見せてもらっても良いかしら」
僕は手のひらを差し出す。すると、おばさんも手のひらを差し出す。おばさんの手のひらには…(略)
「ABABOABABO…あなた、B型ですね!」
おばさんは期待に満ち溢れてた目でこちらを見つめる。やってやった、そう顔に書いてあるかのような勝ち誇った表情。果たして僕の血液型はB型であるのだろうか。それとも、別の血液型であるのだろうか。
僕は、静かに口を開く。
「…いや、違いますね」
なんとおばさんは、2回ともハズしてしまったのだ。血液型を当てる練習をしているおばさんともあろう者が、2回ともハズしてしまったのだ。勝率ゼロパーセントなのだ。おばさんは泣きそうな顔をして「あれ、おかしいなぁ」と呟いた。なんなのだろう、このおばさんは。あれ、おかしいなぁ、じゃねぇよ。当ててくれよ、血液型を。他には何もいらないから、血液型を当ててくれよ。
「でも、まぁ、こういうこともあるけれどね、実はね…」
おばさんが、苦し紛れに何か言おうとしている。実はなんなのだろうか。僕たちは、言葉の続きを待つ。おばさんはこちらを見ることもなく続けた。
「実はね、この能力は誰にでもあるものなの。あなたにも、あなたにも、この能力はあるのよ。本当なのよ。この能力は誰にでもあるのよ…おかしいなぁ」
何を言っているのだろう?  言い訳ですらない謎の発言だった。誰にでもある能力なら、なおのこと当ててくれよ。
僕たちが呆れてものも言えずにいると、おばさんは申し訳無さそうな表情を浮かべて、
「付き合っていただいて、ありがとうございました。・・・この能力は誰にでもあるんですよ、あなたたちにもあるの、ありがとうございました」
そう言って、くるりと背を向けて歩いていった。切ない後ろ姿だった。