憂き世話

 

「こんばんは、起きてる?」

 僕たちの会話は、毎回、その言葉から始まる。それは電話だったり、SNSのメッセージ機能だったり、玄関先でだったり、状況は違えど、いつだってそうだった。アシちゃんの家だったり、駅前だったり、適当な場所で落ち合って、ふたりで酒を飲む。アシちゃんは、僕に会った時点で必ず酔っ払っていた。

「アルコールはね、正義なんだよ。人間の本質はいつだって隠されていて、その本質ってのは、まあ、隠されてるくらいだから善か悪かって言ったら大抵は悪の方で、アルコールはそれを暴いてくれるんだよ」

 アシちゃんは言った。ちなみに今だから言えるけれど、アシちゃんがいつも夜になると酔っ払っているのは、二十歳になる前からのことだった。

 ふたりで飲みに行って、次の店を探して飲み屋街を歩いている時、路上で、どう見ても既婚者であろう左手の薬指に指輪をつけた中年男と、どう見ても大学生であろう耳たぶに猫の形のダサいピアスを付けた金髪の若い女が抱き合って深めのキスをしていたことがあって、横を通り過ぎながら「本質、出ちゃってるねぇ」なんてアシちゃんが言うから、僕は声を出して笑ってしまった。ぎょっとした顔でこちらを振り向いた男と女の唇はヨダレの糸で結ばれていて、汚くて、下品だった。糸はすぐに重力に負けて、一滴の雫になって、吐瀉物や煙草の吸い殻まみれの地面へ吸い込まれるように垂れ落ちていった。少し歩いてから、その話をアシちゃんにすると「あれは、あいつらにとっての運命の赤い糸みたいなもんだね」なんて言うから、僕はまた声を出して笑った。「どっちかに口内炎ができてて、ヨダレに血が混ざってたら、完璧だねぇ」と、アシちゃんがほくそ笑む。僕は「汚ねえ赤い糸だな」と笑いながら側溝に唾を吐いた。

 居酒屋を三軒ハシゴした後、アシちゃんの部屋へ向かう。アシちゃんは駅から徒歩十三分の安いアパートで一人暮らしをしている。僕は実家に暮らしている。僕の家とアシちゃんの実家との間には歩いて数分の距離しかない。僕の家からアシちゃんのアパートまでも、歩いて十数分ほどの距離しかない。それなのに、アシちゃんがわざわざ一人暮らしをしているのは、親と仲が悪いから、ではなくて、ただ単に一人暮らしがしてみたかったから、という理由かららしい。アシちゃんは大学に行っていない。高校を出てから、建築会社の事務職に就職したが、数ヶ月で退職した。今はフリーターで、バイトをして家賃と生活費を稼いでいる。一方、大学生の僕は、実家暮らしなので食費はかからないし、学費も親に払ってもらっていて、週に三日ほどのシフトを組んで駅前の居酒屋で稼いでいるバイト代は自分の遊びのために使う、という甘ったれた生活をしている。

     アシちゃんと飲みに出ると、数回に一回は、アシちゃんの部屋で飲み直す。帰り道のコンビニで、ビールとストロングゼロを二本ずつと、ちょっとしたスナック菓子をカゴに入れていると、アシちゃんが何かを持って歩いてくる。

イカそうめん、臭くて美味い。最近ハマってんだよね」

「嗜好がおっさんみたいだな」

「うるさいな、汚いおっさんも綺麗なお姉さんも、表皮を剥がしたら人型の肉の塊でしかないのよ」

    イカそうめんの袋がカゴに投げ入れられて、かさり、と乾いた音を鳴らす。

 レジでジャージ姿の中年男性が煙草を買っている後ろ姿を眺めながら、財布から千円札を取り出していると、横からアシちゃんが五百円玉を渡してくる。それを受け取って会計を済ませている間に、アシちゃんは外に出て、先程までレジにいたジャージ姿の中年男性と並んで煙草をふかしている。店員の「ありがとうございました」を後ろに聞きながら自動ドアを抜けて、お釣りをアシちゃんへ渡す。

 アシちゃんも僕も、酒を飲むと眠くなるタイプで、ふたりで酒を飲んでは、どちらかが眠り、起きている方が眠ってしまった方を起こして、しばらくしてまたどちらかが眠り、笑いながら起こして、そうしていつのまにかふたりとも眠ってしまうのだった。

 セックスをするのは、飲んで帰った夜ではなくて、次の日の朝、もしくは昼頃に目が覚めてからが多かった。アシちゃんが「セックスは起き抜けにする方が気持ちいい」と主張するからそうなったのだけれど、それに関しては僕も同意見だ。起き抜けのセックスは、思考回路が覚醒しないまま、性欲だけが色濃く、肌の感触や体温、まだ歯を磨いてない口内のざらざらした不快感、ぬるい体液が混ざり合う音、全てが生々しく感じられて、たまらなく気持ちが良い。

 

 僕たちは付き合っていたわけではない。でも、友達というには近すぎる関係だった。僕がアシちゃんのことを「アシちゃん」と呼ぶのは、彼女と出会った頃に、彼女の名字である「足立」をどう読むのか分からなくて、かろうじて「足」という漢字を「アシ」と読むことができたからだ。幼馴染の場合、普通だったら下の名前で呼ぶことが多いのだろうけれど、僕はアシちゃんのことをなぜだか名字で呼んでいる。幼少期の僕は、漢字を読めるのが格好良いと思っていたのかもしれない。そして、アシちゃんの名前の中で唯一読めた「足」という字で、彼女を呼ぶようになったのだろう。とにかく僕たちは、幼馴染だからずっと一緒に遊んでいた。一緒に虫を捕まえたり、雪だるまを作ったり、漫画を貸し借りしたりしていたその延長が、酒になり、セックスになっただけのことなのだと思う。

    アシちゃんの話を、大学の友人にすると、

「それってセフレじゃん」

と言われるが、なんだかしっくりこない。そうやってカテゴライズされるようなくだらない関係なんかじゃなくて、僕とアシちゃんは「僕とアシちゃん」でしかない。カテゴライズされるようなくだらない関係なんかより、もっとくだらない関係だから、カテゴライズすらできないのかもしれない。他人から見ればセフレに見えても、僕とアシちゃんとはセフレではない。恋人同士でもない。強いて言えば、幼馴染。正しくは、僕とアシちゃん。関係に名前を付けるなんてのはただのエゴでしかないと思う。いつも通る道で、いつも見ている街並のはずなのに、ある日突然、理由もなく、どうしようもなく美しく感じてしまう瞬間があるような、そういう言葉では説明できない感覚があるように、どうにも説明できない関係があることはおかしなことではないだろう。

    アシちゃんが「今日はバイト休みなんだぁ」と、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、プルタブを引く。下着も付けずにオーバーサイズのTシャツを着て、朝から酒を煽るアシちゃん。僕は、ベッドの上で足元に脱ぎ捨ててあった下着を履きながら、缶を傾けるアシちゃんを眺めている。

「あ、そうだ」

アシちゃんが、机の上に置いてあったレジ袋の中から何やら取り出す。

「これ、フエラムネ、ふと見かけてさ、懐かしくて買っちゃったんだよね」

    幼い頃、両親は毎週三百円の「おやつ代」をくれた。おやつ代を貰うと、ふたりで一週間分のお菓子を買いに近所のスーパーマーケットに向かった。ひもQ、蒲焼きさん太郎、チョコボール、ココアシガレット、色々な種類のお菓子が並ぶ棚の前でふたりは目を輝かせる。アシちゃんも毎週百円持ってきてくれたので、ふたり合わせて四百円以内に収まるように、あれこれ悩みながら選ぶのが楽しかった。フエラムネは毎回買った。付属のおもちゃをアシちゃんが欲しがるので、自分がどうしても欲しいもの以外はアシちゃんにあげて、その代わり、八個入りのラムネの内の五個を僕が食べていた。

「おもちゃ、開けてみてよ」

アシちゃんが、僕に小さな箱を投げて渡す。小さな箱の中でおもちゃがカラカラ音を立てた。箱を開けると、プラスチック製の鼻が異様に長く尖った謎の動物が入っていた。

「ヤバい動物が入ってたわ」

ベッドから降りて、手のひらに乗せた謎の動物をアシちゃんに見せる。謎の動物を受け取ったアシちゃんは「うわ、なんかキモいね」と笑う。箱を開けて中身を確認して渡す。この作業を幼い頃には毎週行っていた。おもちゃを受け取ったアシちゃんは、それがどんなものであっても、大袈裟なくらいに喜んでくれた。卒業したり、大学生になったり、バイトを始めたり、就職したり、ふたりの状況はそれぞれ少しずつ変化してきた。いつからか昼間ではなくて、夜に会うようになった。朝まで一緒にいるようになった。それでも、目の前で笑うアシちゃんの右頬の笑窪は、幼い頃から何ひとつ変わらない。アシちゃんが、謎の動物を右手の指先で転がして眺めながら、酒臭い息を吹いて、懐かしい音を鳴らす。