THE PARK


 2020年、私の敬愛するギタリストが死んだ。自殺だった。コロナ禍と呼ばれる状況が一向に解決しない中、2020年は多くの人々が自ら命を絶った。その中の1人が彼女だった。アナウンサーが彼女の名前と年齢を読み上げ、反射的に目を上げるとテレビ画面に「自殺」の2文字が映し出されていた。瞬間、私の中で何かが壊れた音がした。20インチの小さなテレビ画面に四角く切り取られた彼女の笑顔の写真が遺影にしか見えなくなってしまった。

 彼女が亡くなった数ヶ月後、彼女の所属していたバンドの新譜が発売された。作詞作曲をしていたのは彼女だったので、つまり、この曲は彼女の遺作ということになる。

 再生ボタンを押す指が震えた。

 イヤホンから鳴り始めたのは穏やかなイントロだった。ピアノのアルペジオにボーカルの歌が乗る。ボーカルの優しい歌声が、歌詞を滑らかになぞっていく。その歌詞がなんだか彼女が自分の死を予感していたかのように聴こえてしまう。

 最後にこんな曲を遺して逝くなんて、ずるい。

 緩やかに終わりに向かうアウトロが聴こえなくなるくらい、声を上げて泣いた。

 

 

 

 どっかの国で発見されたよく分からない新型ウイルスは、瞬く間に世界中へと拡がって、気付けば日常に溶け込んでしまった。ウイルスと同時に不安や混乱が拡がって、気付けば日常に溶け込んでしまった。2021年の8月になっても、事態は悪化するばかりだ。非日常が日常を喰ってしまった。

 

 

 

 小さな頃から、よく行っていた喫茶店が今月いっぱいで閉店するらしい。あそこのオムライスが食べられなくなるなんて、信じられない。おばちゃんの笑顔の接客が受けられなくなるなんて、考えたくもない。

「あら、いらっしゃい」

 店に入るとカウンターでおばちゃんが迎えてくれる。いつも通り。

「オムライス、食べにきたよ」

「いつもありがとね」

 適当な席に腰を下ろす。おばちゃんが厨房のおっちゃんに、オムライスひとつ〜、と叫ぶ。出されたお冷がぬるい。でもそれもなんだか安心する。10分ほど待って机に置かれたオムライスは、チキンライスにしっかり火が通った薄めの卵が乗せられ、ケチャップをかけられたシンプルなものだけど、それが良い。私は下手に凝ったお洒落なトロトロ卵のホワイトソースがけ、みたいなものよりも何倍も好き。お冷を追加しにきてくれたおばちゃんに

「おばちゃん、美味しいよ」

と笑いかけると、

「そう言ってくれるのあんただけだったよ」

とおばちゃんも笑う。

「それはみんなが馬鹿舌なんだ」

 本心で言う。

「あんたが馬鹿舌なんだよ」

 おばちゃんが嬉しそうに舌をぺろりと出して戯けて見せた。

「ここは私のアナザースカイ」

 私が戯け返すと、おばちゃんは

「本当あんたは変な子だねえ」

 苦笑して、

「今までありがとうねぇ」

 どことなく寂しそうに微笑んだ。


 自動車修理販売をしてる近所の兄ちゃん(もう兄ちゃんという年齢でもないけれど、私にとってはいつまでも兄ちゃん)も、

「外出自粛されちゃうと、みんな車使わなくなってさ、修理も販売も需要がなくなって儲からなくてね。困っちゃうよ」

と嘆いていた。

「兄ちゃんもちゃんと仕事してたんだね」

 からかってみると、スパナを振り上げられてビビった。けど、すぐに上げた腕を振り下ろして、スパナを優しく地面に置いて、煙草を吸い始めたから、1本ちょうだいって、2人で吸った。溶けていく煙を、ぼーっ、と眺めながらみんなの不安も全部、この煙みたく溶けていけばいいのに、と思った。オレンジに燃えるこの煙草の先端みたく、夕焼けがみんなの不安を焼き尽くしてしまえばいいのに、と思った。兄ちゃんが、

「煙草も美味しく感じなくなっちまった」

と呟いた。

 

 

 

 公園のベンチで缶ビールを傾けて、煙草を吹かしている。もうすぐ日が暮れる。

 夏も終わりに近づいたこの時期の夕焼けの赤は、炎と同じ色をしている。私は少し期待した。この夕焼けが全てを燃やしてしまえば……。けれど、こんなに暑いのに、こんなに赤いのに、何も起こる様子はない。日が落ちて、辺りは暗くなり始めた。やっぱり何も起こらなかった。

 私は立ち上がる。


 コンビニで新しい煙草と、適当な週刊誌を3冊買う。袋はいりません。

 公園のベンチに戻る。ベンチの上に買った週刊誌を並べてみる。どの表紙にも「コロナ禍」とか「政府の対応」とか「パラリンピック」とか「ヌード」とか、同じような言葉が散りばめられている。煙草の箱を開けて、1本咥える。

 ライターで着火する。

 煙草ではなく、週刊誌に。

 左手で開いた状態の週刊誌の角を持つ。反対側の角を舐めるように何度か炙ると、週刊誌は燃え始める。

1冊目。燃え始めた週刊誌に、咥えた煙草を近付けて、火をつける。週刊誌の炎が大きくなって、手に持っていられなくなったので地面へ落とす。そして、一服。私は、煙をしっかり肺まで吸い込んで、吐き出す。煙草を消す。

「こんなもんさぁ」

 2冊目。

「私が全部煙にして溶かしてやるから」

 新しい煙草を咥えて、先程と同じ要領で、燃やす。大物政治家の顔、芸能人のゴシップ、曖昧な感染対策、エロい写真、ゲスい記事、あらゆる人間の欲望。燃え盛るそれらで、煙草に火をつけて、一服。週刊誌を落とす。

「みんなが悲しい顔しなくても良くなりますように」

 3冊目。燃やす。煙草に火をつける。落とす。煙を吸って吐く。煙は空に溶けて、すぐに霧散する。足元には3冊の週刊誌が炎を上げて燃えている。

 私には、何もできない。こんなことしか。


「おい! 何やってんだよ!」


 ふと、声が聞こえて、足元に水を掛けられる。

「兄ちゃん」

 水が飛んできた方を向くと兄ちゃんが立っていた。

「何やってんだよ、ほんと!」

送り火

「はぁ?」

 兄ちゃんが呆れた声を出す。

「もしかして、スカート燃えてたの気づいてなかったの?」

 え、とスカートを見下ろすと、たしかに裾から腰の辺りまで黒く煤けていた。

「気付いてなかった、ありがとう」

「馬鹿……。はぁ、まぁいいや。そんなに何か燃やしたいんならさ、一緒に花火しようよ」

 「おじちゃーん」と遠くから子どもの声が聞こえた。「おーい、ごめんな! ここだよー!」と兄ちゃんが応える。

「花火しようと思って甥っ子連れてきてたら、お前が燃えてたからびっくりして置いて走ってきちゃったじゃんか」


 線香花火勝負は甥っ子ちゃんが6戦全勝だった。

「ちびちゃん、君、線香花火のプロになれるぞ」

「姉ちゃんは放火魔になれるぞ」

「なんだと!」

 兄ちゃんが微笑みながらこちらを見ている。

「昔からやんちゃで、何考えてるのか分からなくて、手が掛かる悪ガキで」

 そして私の顔を見て、

「でも、いつまでも変わらないお前を見て、みんな安心してきた節もあるんだよ。またアイツが何かやらかしたらしいぞ! って、笑い話にしてさ」

 

 

 

 どっかの国で発見されたよく分からない新型ウイルスは、瞬く間に世界中へと拡がって、気付けば日常に溶け込んでしまった。ウイルスと同時に不安や混乱が拡がって、気付けば日常に溶け込んでしまった。2021年の8月になっても、事態は悪化するばかりだ。非日常が日常を喰ってしまった。

 沢山の人が亡くなった。沢山の人が苦しんでいる。

 大好きだった喫茶店が閉店する。兄ちゃんの煙草はきっと不味いままだ。

 みんな悲しそうな顔をしている。

 大丈夫じゃないんだ、みんな。大丈夫じゃない人に、簡単に「大丈夫だよ」なんて口が裂けても言えない。


 でもね。

 今だけはね。

 今だけでもね。


 兄ちゃんが笑っている。甥っ子ちゃんも笑っている。私も笑っている。


 だからね。


 私がいつでも祈っているよ。祈ることしかできないから、だからこそ、ずっと祈っているからね。