水底の猫 : 九

 

 水の中は意外に暖かかった。さっきまでうるさく響いていた蝉の声も聞こえない。智一は沈んでいく身体を自分のものではないように感じた。身体はこんなに軽かったのだな、中身が入っていないのではないか、そんな風に思う。呼吸をしようとするが、身体中が水に包まれているのでどうしようもない。水の中では呼吸はできない。川底は光を拒むように暗く、どこまでも続いているようだった。渦巻く流れが下へ下へと身体を導くので、そちらへ行かなければいけない気がして、智一は見えない底を目指して泳ぎ始める。身体は抜け殻のようで、どのように腕と脚を使えば上手く泳げるのか感覚が掴めない。先ほどまで自分が身体を自由に動かしていたということが信じられない。自分が今どれほどの深さにいるのかもわからない。呼吸をしていないのに、不思議と苦しくはなかった。自分はもう死んでしまったのかもしれない。一体、今まで生きている実感をどのように感じていたのだろう。感じたことなんてなかったのかもしれない。自分が生きていたのかどうかも疑わしく思えてくる。

 何かが、智一がいるところよりももっと下、暗い流れの中を泳いでいる。目を凝らすとそれは猫のような形をしていた。こんなところに猫がいるはずはないだろう、と朧げな思考を巡らすが、智一の目にはやはり猫の形をしているように見える。智一は、猫のようなものを追い、下へ下へと泳いでいく。猫のようなものがこちらを向く。その顔は猫ではない。人間のようで人間とは少し違う顔をしていた。その顔が誰かの顔に似ていた。誰の顔だろうか。思い出そうとすると頭の中に生ぬるい水が流れ込んできて記憶を浸していく。思考が血液に溶け込んで智一の内側で流動する。思い出せない。思い出せないが、何故だろう、わかる。それは、祖父の顔だった。遺影でしか見たことのない曾祖父の、曾祖母の顔だった。祖母の顔だった。父の、母の顔だった。葉月の顔だった。朗の顔だった。会ったことのない誰かの顔だった。そして、智一自身の顔だった。自分が誰なのかわからなくなった。誰なのかわからなくなって、何なのかもわからなくなった。ここはどこなのかもわからなかった。

 

 

 扇風機の風に吹かれた髪の毛が頬をくすぐる。久々に課題をしようと机の上に問題集を広げたのは良いが、一向にページが進まない。窓の外に広がる空が不気味なほど濃い朱色に染まっていて、太陽の熱で雲が焼けているようだった。

 葉月はシャープペンを置き、頬杖をつく。今日はまだ智一に電話をかけていない。一日中、今日は会わない、そう頭の中で繰り返し唱えていた。

 葉月は父と母との三人で暮らしている。母はこの集落から少し離れた町に建つスーパーマーケットでパートをしている。父は市役所の農業系の部署に務めているらしいが、葉月は父が何をしているのか詳しくは知らない。母は盆の間毎日シフトが入っているらしく「盆はお客さんがようけ来て忙しいけ、休みが取れんだが」と言って、今日も出かけていった。父も公務員なので盆休みというものがなく、その代わりに夏季休暇というものがあるらしく、九月頃に休みを取ると言っていた。夏休みの間、葉月は家の中でひとり漫画や小説を読んだり友人とメールをしたりと何をするでもなく過ごしている。

 シャワーを浴びようと浴室へ向かう。今日はいつもより少し暑い気がする。Tシャツとハーフパンツを脱いで下着姿になる。脱衣所の壁に掛かった全身鏡に映る白い腹が静かに膨張し、委縮するのを繰り返す。しばらく眺めていると、それが蛙の鳴嚢のように見えてきて気分が悪くなった。

 ぬるい湯を浴びていると智一の体温を思い出してしまった。智一の身体は温かい。射精する寸前だけ、少し熱くなる。智一の体液のような湯に身体を洗われながら、今日は会わない、とまた心の中で繰り返す。

 母と父が夜中、動物になることに気づいたのは中学一年の時だった。中学に上がるまで葉月は父と母と同じ寝室で眠っていたが、中学に入学するのと同時に、流石に自分の部屋がほしいだろうと父が部屋をひとつ開けてくれた。物置として使っていた埃っぽい部屋が、机やベッドを設置していく内に徐々に自分の部屋になっていく様子を見て、葉月は胸をときめかせたのだった。

 ある夜、トイレに行きたくなって目が覚めた葉月が暗い廊下を歩いていると、両親の寝室から母が泣いているような声が聞こえてきた。喧嘩でもしているのだろうか、そう思い、葉月が寝室の前まで歩いていくと、どうやら母は泣いているのではないらしかった。襖を少し開けて中の様子を覗いてみる。

 母と父は布団の上で重なり合っていた。父は泳ぐように腰をくねらせ、膝を折り曲げてひっくり返っている母の上で息を荒げている。父が重そうな身体を母にぶつける度に、母の口から高く艶のある声が吐き出されて寝室に響いた。それはいつもの母の声ではなく、一匹の動物の鳴き声のようだった。父は魚で母は大きな蛙だ、と葉月は思った。魚と蛙との間に生まれた自分は一体どんな生き物なのだろうか、とも思った。

 魚が激しく身体をくねらせる。魚が水中だと思っているその場所は実は大きな蛙の腹で、魚の肌と蛙の肌が触れ合う度に、ぺちぺちと湿り気のある粘った音が鳴る。蛙は、その音を掻き消すようにして高く鳴き声を上げ続ける。葉月の立つ廊下とは違う異様な世界が寝室内に広がっていた。

 魚が、うっ、と喉から低い音を漏らして動きを止める。ふたりは人間の姿に戻る。目に映るのは、ただ布団の上で裸になっている父と母の姿だ。葉月はふたりに気づかれないようにゆっくりと襖を閉め、しばらくその場にじっとしていたが、尿意を感じていたことを思い出し、トイレへ向かった。用を足して、紙で股の間を拭くと、いつもとは違った粘り気のある感触が指先に残った。そこで初めて自分の身体が熱くなっていることに気づいた。

 乳房がシャワーが吐き出す水を受けて鈍く痛む。昨日、智一に揉まれた時よりも硬く張っている。

 智一と初めてセックスをしたあの雨の日、葉月はあの寝室の光景を思い出していた。

 あの日、狸を見付けたとき、あの狸はなぜか自分を呼んでいるのではないかと感じた。行かなければ、と思っていると、不思議と智一も同じような気持ちでいたらしく、顔の横で声が聞こえた。

「なんか、おれらを呼んどるみたいだな」

 横を見ると智一の顔が思っていたよりも近くにあり、その目が石段の中ほどで丸くなっている狸を見つめていた。

「うん、あたしも今同じこと思っとった」

 智一の顔の向こう、白い膜のようなものに覆われた皮膚が見えた。傘に収まりきらなかった肩が雨に濡らされて、カッターシャツの下が透けて見えたのだった。

 石段を一段上がるごとに、小さな蛙がぴょこぴょこと跳ねているような不思議な感覚が、打ち寄せては引いていく波となって葉月を襲った。

 狭い小屋の中で隣に座る智一の呼吸が葉月の身体を濡らし始めたとき、葉月の視界の隅ではあの日の魚と蛙が蠢いていた。智一の顔が葉月の顔の前に差し出された。葉月は自分の目を疑った。智一の顔が父の顔のように見えたのだ。しかし、当然それは父の顔であるはずがなく、一度瞼をゆっくり閉じ、開いてみると、目の前にあるのはやはり智一の顔であった。

 深呼吸をした。身体が熱くなっていた。熱くて、熱くて、仕方がなかった。服が邪魔だった。着ているものを脱ぎ捨てると、智一が葉月に飛び込んできた。身体の中を別の生き物に掻き回される感覚。嫌ではなかった。いっそのこと飲み込んでやろうと思った。飲み込んで自分のものにしてやりたかった。何故そんなことを考えるのか、自分にもわからなかった。魚と蛙が頭の中に浮かんだ。自分は本当に人間なのだろうか、と考えた。わからなかった。わからなかったが、そんなことはどうでも良かった。そんなことは取るに足らないことのような気がした。

 葉月が智一の顔を見上げると、伸びた前髪越しに見える智一の瞼が重そうな動きで一度閉じられ、その後、開かれた瞼の隙間で、闇を吸ったように黒い瞳が葉月を見据えていた。

 あの感覚が忘れられなくて、葉月はそれからというもの毎日のように智一に会いたくなってしまう。夏休みに入るまでは、葉月も智一も学校があったのでなかなか会えず、葉月は学校で授業を受けているときも悶々としたまま過ごした。友人と昨日見たドラマや最近話題の俳優の話などをしている間は気を紛らわすことができた。しかし、甘酸っぱく生々しい恋愛話をしているとき、特に生々しい方の話をしているときは少しだけ鼓動が早くなった。夏休みに入って一人になる時間が増えると、葉月の中を小さな蛙がぴょこぴょこと活発に跳ね回るようになり、気づけば智一の隣に座っているという日々が続くようになった。このままでは良くないとは思うのだが、何が良くないのか考えてみても、よくわからない。今日は久々に夏休みの課題でもして気を紛らわせようかと思っていたが、結局それも手につかなかった。

 浴室から出て脱衣所で服を着る。髪の毛の先から滴が落ちて着たばかりのTシャツに染みをつくる。ドライヤーで髪の毛を軽く乾かしてから、頭にタオルを被って部屋へ戻る。また少しだけ身体が熱くなっている。今日は会わないのだ、と一日中自分に言い聞かせていたが、やはり耐えられないかもしれなかった。葉月は扇風機の前に座って深く溜め息をつく。扇風機から吐き出される風が葉月の溜め息を包み込み、どこかへ連れていった。早いけれど寝てしまおう、そうすればこの身体の熱も忘れてしまえる、そう考えて、ベッドへ向かう。

 ベッドには薄い水色のタオルケットが涼しげな水面のように広がっている。夏は布団だと暑くて眠れないのでタオルケットを掛けて眠る。横になろうとして、葉月はベッドの上のタオルケットをしばらく洗っていなかったことに気づいた。部屋を出て、脱衣所までの狭い廊下を歩き、水の色をしたタオルケットを洗濯機に突っ込む。部屋へ戻って新しいタオルケットを出そうと押し入れの襖を開ける。滅多に開けることのない押し入れの中は二段になっていて、下の段の右側に布団や毛布などの寝具類、左側に衣装ケースが置いてある。上の段には捨てずに青いビニールひもで縛ってある雑誌、小学生の頃に使っていた赤いランドセルや絵の具セットなどが雑然と詰め込まれている。その奥、積み重なった物に隠れるように立てかけてある長方形の薄っぺらな袋が葉月の目に止まった。去年の夏に友人と行った隣町の花火大会のくじで当たった手持ち花火のセットだった。当たったのは良いものの、誰とするでもなく持ち帰って、そのまま手も付けずに押し入れにしまっていたのだった。

 花火の袋を押し入れから出して眺めていると、どこからか、埃が宙を漂うような飛び方で蚊が一匹近づいてきて葉月の腕に止まった。いつもなら叩いて殺してしまうところだが、なんとなくそんな気にはなれず、じっと眺めてみる。蚊の蛇腹になった腹が風船が空気を吹き込まれるように、ゆっくりと赤黒く膨らんでいく。葉月の身体から真っ赤に熱せられた何かを吸い取っているようだった。葉月の中の自分でも手の付けることのできない部分を、この小さな生物は飲み込んで、栄養にして、卵を産む。このまますべて吸い取ってくれ、葉月は願う。しかし、葉月の願いとは裏腹に、蚊は葉月の腕から離れて、ふらりふらりと血を吸って重くなった身体を持て余すように飛んでいった。熱は一向に治まらない。

 葉月は、今日も智一に会いに行く。

 

 

 生ぬるい水の流れが智一を包んでいる。無数の魚が群れながら、智一に向かって泳いでくる。よく見ると魚たちは群れているのではなく、お互いを食らい合っていた。群れが智一に近付くにつれ、腹や喉を食い破られた魚の死骸が一匹、また一匹と増えていく。死骸の腹に空いた穴から流れ出る赤黒い血液は、空に煙が溶けていくように水中へと拡散していく。視界はだんだんと血に暗く染まり、やがて夜の闇よりも深い色をした闇が智一を包む。いつの間にか、ほとんどすべての魚が死骸に変わり果ててしまった。闇の中に無数の死骸が漂っている。ここは果たしてどこなのだろうか。無限にも思える数の死骸が、それぞれ銀色の肌に、どこからか差し込み始めた光を反射させ、きらきらと瞬く。星空が智一を包んでいる。死が瞬く、空ではない空。闇はゆっくりと下流へ押し流されていき、次第に差し込む光が明るさを強めていく。視界に色が戻って来る。朝が来る、と智一は思う。死骸の群れの中で、あの黒い魚だけが悠々と泳ぎ続けている。

 水流がくぐもった音を鼓膜に伝える。水の中でも音は聞こえるのだなあ、と呑気に考える。耳を澄ますと父の声が聞こえた気がした。智一を呼んでいるようだった。油断をしていたら、どろりとした生臭い水が智一の肺に流れ込んできた。頭蓋の中身がいつの間にか水中に溶け出してしまったのではないかと思うほどに思考が停滞している。今まで生きてきたすべての記憶もゆっくりと水に浸され薄れていって、骨と血と肉だけが残る。空洞になった頭蓋の内側を血液が流れる感触が、智一の全てになる。

 黒い魚が寄って来て、智一に纏わりつくように泳ぐ。手を伸ばして鱗に触れる。硬かった。しかし、あの時とは違って少し温かかった。

 不意に酸素が恋しくなった。ああ、まだおれは生きていたのだ、と智一は思う。何故か智一の下半身は熱くなっていた。死にかけているのに、こんな時に可笑しなものだ。

 黒い魚が明るく瞬く水面に向かって泳いでいく。