水底の猫 : 一〇

 

「大丈夫かっ」

 父の大きな声が、耳が痛いほどの近くで聞こえた。水を吸って何倍もの重さになった服が智一を地面に押さえつけている。起き上がろうと腕に力を込めてみるが、身体は少しも持ち上がらず、智一は空と対峙する恰好のまま動けなかった。酸素が薄い気がして思い切り空気を吸い込むと、胸に痛みが走り、咳と一緒に肺の中に溜まっていた水が口から飛び出した。父の肩を借りてなんとか立ち上がり、斜面を登る。下を向いて足を引き摺る智一の視界の隅に川面が映った。あの魚は、もうどこかへ行ってしまったようだった。

 服を脱がされ、居間に寝かされると、智一の意識は徐々にはっきりとしていった。数分前まで水の中にいたはずなのに、もうそれは遠い過去のことように感じる。本当に自分が水中にいたのかどうかさえ疑わしく思えてくる。しかし、冷たく湿った髪の毛と上がり切らない体温が、先ほどまで自分が水の中にいたということを紛れもない事実として物語っている。祖母と母が横たわる智一の左側に並んで座っていて、ふたりとも泣きそうに顔を歪めて智一を覗き込んでいる。母の目は真っ赤に充血していた。溺れて死にかけている自分よりも、ふたりの方が酷い顔をしているのではないだろうか。なんだか可笑しくなって、くくっ、と声を出して笑うと、母と祖母は口をぽかんと開いて智一を見た。それを見て、智一はまた笑う。

「笑っとる場合じゃないわ。酸素が足りてなくて頭が弱っとるじゃないだか」と父が母と祖母の向こうで溜め息をついた。

 二時間後には、智一はもういつも通りに動けるようになった。回復が早い、と父は言ったが、水に溺れた人間は普通どのくらいの時間で回復して、いつも通りに動けるようになるのだろうか。回復したとは言ってもやはり身体は疲れているようで食欲は湧かず、夕食を食べる気にはならなかった。智一がテレビを眺めながら寝転がっている横で智一以外の家族は食卓に着き、夕食を摂った。途中で祖母が思い出したように、

「今日、送り火焚けんかったけ、ちょっと遅いけど、明日焚こうか。」と言った。

 葉月から電話があったのは午後八時頃で、身体を休めるために今日は流石に早く寝るべきだろう、と智一が部屋の電気を消し、ベッドに寝転がった時だった。

「智くん、何か今日、川に落ちたんだって? 大丈夫だったん?」

 葉月が呑気に訊ねる。何故知っているのか疑問に感じたが、近所の人が見ていたのかもしれないし、母や祖母が誰かに話したのかもしれない。狭い集落の情報網はインターネット並みに発達している。葉月の耳に入っていても不思議なことではない。

「まあ、死んではないけ、大丈夫だったって言うべきなんかな。疲れたし、一応今日は早く寝ようと思って、今寝転がったとこ」

「あ、寝ようとしとったん、ごめんな」

「うん、だけえ、今日はもう会えれんわ」

「あ、それは大丈夫だで」葉月があっさりとした調子で答える。

「大丈夫、今日は会いたくて電話したんじゃないけ。えっと、あんまり大きい声で言えんけどな、生理が来たんよ。だけな、しばらくできないわ。それを伝えとこうと思って電話したんよ」

 葉月との電話を終えて目を閉じる。すぐに睡魔が眠りへと智一を導いていった。

 

 朝起きると、早く寝たことが功を奏したのか身体は軽く、いつもより元気なくらいに思えた。昼まで昨日読みかけていた本を読んで過ごし、昼過ぎには送り火を焚くために家族揃って玄関の前に立った。

 送り火は迎え火と同じ手順で行う。祖母が苧殻の束にマッチで火をつけ、苧殻の小さな山の中にそれを放る。小さかった炎が、苧殻を栄養にして成長していく。蝉の声と川が流れる音と、パチパチと炎が苧殻を飲み込んでいく音が、重なって、混ざり合う。四人とも黙って炎を見つめていた。

「おじいさんが」

 突然、祖母が掠れた声で口から言葉を吐き出し始めた。

「おじいさんが死んだ時な、本当に信じられんかった。また、すぐに目を開いて、ばあさん、お腹減ったわい、ご飯作ってくれえ、ってな、言ってくれるような気がしただけど、いつまで待っても目を開かなんだ。お医者さんが来ておじいさんの目を指で無理やり開いて、ライトでな、こう、目に光を当てるけ、眩しいだろうになあ、と思って可哀そうだったわ。可哀そうで、涙が出た」

 祖母が何故そんな話を始めたのか、智一にはわからなかった。自分が昨日死にかけたことが関係しているのかもしれない。死は決して遠いものではなく、いつでもこの身体の内側に潜んでいて、ふとした瞬間に身体を食い破ろうとする。智一は昨日それを知った。祖母もきっと、それを知っているのだろう。これまでの長い人生の中で祖母がどれほどの死と向き合ってきたのか智一は考える。祖母の話を聞かなければいけない、と思う。

「それでな、おじいさんが火葬場で焼かれるときにもな、熱いだろうな、可哀そうにな、と思っとったら涙が出てきて止まらなんで困った。おじいさんがおらんようになってから、毎日毎日おじいさんの事ばっかり思い出しとった。そしたらな、ある日、今日みたいに暑い日じゃなかったな、もっと涼しい日だった。ある日、窓に影が映っただ。おじいさんの形をしとった。ああ、おじいさんだ、ってな、確信があった。おじいさんが会いに来てくれたと思ったわ。それからは心がすっと軽くなっただ。思い出して泣くこともあるけど、悲しいわけじゃないだ。ただ、また会いたいなあと思って涙が出るだけだ。」

 祖母の瞳に風に揺れて燃える真っ赤な炎が映っている。祖母の中で炎が燃えているようだった。それを見て智一は、二日前、祖父がちゃんと迎え火に導かれてここへ帰って来ていたのだということを悟った。祖母の目から水滴が流れ落ちる。水滴が炎を映して赤色に輝いているせいで、血液が流れ出したようにも見えた。祖母の血液は頬を伝って顎まで流れ、その後、地面へ飛び込んでいった。

 祖母は祖父を送り出そうとしている。智一は祖母から視線を外すことができなかった。祖母は祖父を送り出す。祖父は向こうへ戻っていく。来年になれば、また祖父は迎え火に導かれてこちらへ戻って来る。そして祖母は、また祖父を向こうへ送り出す。毎年毎年、それを繰り返す。繰り返してきた。祖母の中で祖父は何度も生き返り、何度も死んでいく。生きてここにいる人間は、そうやって何度も死に語り掛け、そしていつか自分も死んでいく。ここに流れている血は何度も生と死を繰り返し、この身体を形作ってきたのだ。

 盆が終わる。

 苧殻が炎に食われて白い灰になっていく。祖父の遺灰だ、と智一は思う。灰は風に吹かれて、川の方へと消えていった。

 

 送り火を焚き終えて、智一は初めて自分から葉月に電話をかけた。特に理由があったわけではない。ただ、なんとなく電話をかけてみたのだった。

 葉月はいつものように濡れ縁に腰掛けて、智一が来るのを待っていた。

「智くん、遅いで。遅刻だで。電話かかって来てから一五分も経っとるよ」

 言葉とは裏腹に葉月は楽しげに頬を緩めている。

「待ち合わせる時間なんて、はっきりとは決めてなかったがな。遅いってほど遅くもないだろ」

「あたしが遅刻だ、って思ったら、それは遅刻なんよ。覚えといて」

「あほか」

 葉月の隣に腰掛ける。葉月の髪が涼し気に揺れる。葉月はいつもと同じように学校指定のハーフパンツを履いている。智一の腕が、ぴとり、と葉月の腕と触れ合った。

「ねえ、昨日は何で川に落ちたん?」

 葉月の無邪気な瞳が智一に向けられる。葉月の瞳は透き通った黒色をしている。

「魚がおったんよ」

 智一が言うと、葉月は「魚?」と意味が分からないという風に眉間に皺を寄せた。

「魚が口ぱくぱくして、おれに向かって何か喋っとるような気がしてな、見とったら、足踏み外して落ちた。水の中におる時、なんか、死んだみたいだな、って思ったんだけど、でも意識や感覚は存在しとって変な感じだった」

 智一が、ぶらぶらと脚を揺すっていると右のサンダルが地面へ落下した。取るのも面倒なのでそのまま脚を揺すり続けた。骨まで焼き尽くしてしまいそうに熱い太陽の光を木の葉が遮って、斑な影を地面に落としている。蝉の声が途切れることのない川のように流れ続ける。葉月は「よくわからんなあ」と笑った。

「智くんの言っとることよくわからんけど、なんか、それ、あの雨の日の出来事に似とる気がするね。あの時は、魚じゃなくて狸だったけど。」

 生温かい風が、並んで座るふたりの間をすり抜けていく。

「あの時、智くんすごく綺麗な顔しとったなあ」

 葉月が息を吐くように呟いた。

 その後、ふたりはしばらくの間、くだらない、なんということもないような話をした。話している最中、智一は葉月の右腕、手首から十センチほどの所の皮膚が赤くぷくりと膨らんでいることに気づいた。虫に刺されたのだろう。白い肌の上に丸く残った薄い赤色は、葉月の中にも血が流れているのだということを智一に教えた。

「そろそろ帰るかあ」智一が言うと、葉月の方が先に立ち上がって、地面に落ちていた智一のサンダルを拾い上げる。葉月はそのまま智一の足にサンダルを引っ掛けた。ありがとう、智一が感謝を伝えると「なんか子供の世話するお母さんみたいだな」と照れ臭そうに頭を掻いた。

 石段を下る。中ほどまで下ったところで、どちらからともなく足を止めて一度だけキスをする。葉月の口の中は、甘い味がする。唇を離して、今度は目を合わす。葉月の瞳が智一を映す。唾液にじとりと濡れた薄い唇を開いて葉月が言う。

「生理が来たって、あれ、嘘よ」

 

 

 

 

 

 

 ( 了 )